死後も責任をもってくださる神

2017年11月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、テサロニケの信徒への手紙 5章1-11節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。



今日は日本キリスト教団の暦では「聖徒の日・永眠者記念礼拝」と称し、小田原教会の先達たちを偲び祈りを合わせる日です。とは言っても日本の中でのクリスチャンの人口は少なく、この日は小田原教会員だった方のご親族が教会に集まり午後は記念会をなさる方も多いようです。そういう意味ではクリスマスの燭火礼拝と合わせてノンクリスチャンの方が多い礼拝となります。

中田牧師はそうした会衆の顔ぶれを前にまずテサロニケの信徒への手紙の書かれたバックボーンを語られます。
1つはパウロが迫害する側だったのが伝道する側に回った経緯。そしてその伝道の方法が「旅」と「手紙」であったこと。広い地域に積極的に廻ったので、まず旅をしその場で信徒を増やし教会を作り他の地方に旅をする。その後手紙でフォローをする、という伝道の仕方でした。
もう1つは聖書の書かれ方が決して古い時代から順番に書かれたものではなく、新約聖書最初の4つの福音書もパウロや他の方の手紙などを含めて一番古いのはこのテサロニケの信徒への手紙だ、と言われました。

1つめのフォローの話から言えば、問題がない、不安がない、順調だ、と言うところにはフォローの手紙は必要ないはずで、フォローとは問題が発生し、トラブルで諍いが生じ、不安の中で過ごし、信仰を失いかけているところにするものでしょう。

そんな一番古いテサロニケの信徒への手紙、いわば一番最初のフォローする話は何かと言えば、4:13-5:11に書かれた「死に関して」の事なのかもしれません。
2000年経っても人間は生と死に関して不安を持ち続けているのでしょう。そしてその不安に対してパウロは「地上に残されたもの通し互いに励まし合え」と語るのです。

この話のバックボーンには当時のキリスト教の再臨についてを知らないといけないのでしょう。
主の日(再臨・終末)とは、最後の審判の日と言えば解るのかも知れませんが、甦りのイエスがこの世に訪れ信仰者を神の国に、反対者を地の底(地獄)に落とすと考えられた日で、パウロの時代では自分の死の前にこの主の日が訪れると思っていたわけです。
しかしご存じのとおり西暦2000年を超えた今も主の日は訪れなく…それ故に宗教(キリスト教)に対して胡散臭さを感じる人がいるのかもしれません。ノストルダムの大予言と同じで、この世の終わりの翌日が存在した瞬間その予言は愚となる訳です。

では、2000年経った今でも主の日が来ないのになぜおまえはキリスト教を信じているのか?と問われれば、それでもこの宇宙を作られたのは神(と言うとすぐに人間化して白髭の爺さんを思い浮かべるかもしれませんが、パワーです)で、その神が宇宙から人間まですべてを作られたと思っているからで、聖書をすべて額面通り納得しているわけではないからです。
地球も宇宙もいつかは最後の日を迎えます。その日が主の日ではないとなんでいえるのでしょう。

しかし確かなことは神を信じようが信じまいが、人間としての死を迎えることは平等にあります。不意打ちでその時を迎えないようにするためには聖書の言葉はなかなか鋭いものがあるのは、ノンクリスチャンであっても聖書を読んだ人は同意してくれるでしょう。

がん闘病者のグループ「がんでもいいじゃん♪」に属しています。平々凡々と過ごしていた中、がんと言う病に直面し、死を意識して生き方を真剣に考えた中、交通事故や心臓発作や脳梗塞などで亡くなった方には申し訳ないですが、がんでの死は「生」を真摯に考える人生と言う側面においては本当にありがたい病気です。
連れあいの病後治療の後、彼女の大学の友人を行脚しました。「今」会っておかないと。「今」しておかないと。「今」「今」「今」…。悔いのないように生きることができたことは全く大切な時間だったと思います。
死を見据えて生きる。そんな時間真摯に考えると最後は人と人とのつながり、お交わりでした。

さて、もう一度宗教は正か偽かを考えたいです。
と言っても何をどう考えても答えは出ません。すべては推測とその推測に基づいた些細な立証であって、あまりにも立証出来ている部分が少なく、それだけじゃあ全く分からないじゃん、と言うのが現実でしょう。

だから四の五を言わずに信じるしかないのです。証明が出来れば信じるなんてしなくて済むのです。証明ができないから信じるという人間側の意識が大切になります。
でも、やみくもに信じればいいわけではなく、元より騙そうとしている宗教があったり、宗教の元は素晴らしくてもその信仰を間違った方向に持っていこうとする指導者権力者によってNo!と言わなければならないでしょう。

『死後』に関しては聖書はほとんど書いていません。だから神を信じるかどうかと言う人間系の話です。でも、「死」までの間「生」の間の生き方は聖書はたくさん書いてあります。
今日もその一つです。

イエスは死の前日奴隷のように弟子の足を洗い、そして最悪の死に方十字架刑を受けました。一番下として生きたイエスが天に昇り神の横に居ます。神の救いはそうした形で僕らに希望を与えてくれています。

午後ののんびり

怒涛の10月を終え、まだまだ片付けは終わらないもののどうにもこうにもやる気が起きず・・・
こんな日はのんびり過ごそうと玄関に飾るジグソーパズルをしたり

20171104-04
(P.E.I.4点セット(笑) ウェルブタは関係ない(笑2))

なかなかお会いできずに年賀状だけのお付き合いになってしまっている方に引っ越しのお知らせを書いたり…。

そして・・・
ちょっとそそられて思わずポチした本が2冊到着。
小学生でもわかるように書かれた物理学書と哲学書(?)

20171104-01

星が落ちてこないのは星が移動しているから・・・。つまりは水を張ったバケツをグルグル振り回しても水が落ちてこないのと同じで地球から落ちない勢いで遠ざかっている、これが宇宙は膨張している所以。
宇宙が誕生した時に粒子10億1個と反粒子10億個がぶつかり、ぶつかった10億個はエネルギーになったがぶつかり損ねた1個が地球や他の星、各星々の土壌や取り巻く窒素、水や生命を生み出した。半端じゃないほどの不運なものがこの宇宙の構成物質なんだ、と言う話など、理科の中でも一番苦手だった物理をわかりやすく解説してくれる本。

ところで昨日、ひょんなことから中学の英語の先生のご家族とお会いしました。英語と言う教科は苦手だったので、先方の先生がもし覚えているとしたら苦虫をつぶすような顔をなされるような生徒でしたが、それでも生徒の僕は不思議と嫌いな先生はいなかったんですよね。どなたもみんないい思い出で笑って話せることばかり。
物理もT澤先生に教わりました。午後一での授業はただただ睡魔との闘いだったことしか覚えていません(笑)

しっかり勉強しなかったから、だから今この本の中で「温度の定義」と問われても、温度って熱いとか寒いとかで定義なんて考えたこともないけれど、「分子の動きやすさ」なんですよね。
おもしろかったです。

2冊続けて一気読みしたのがこちら

20171104-02

よくよく有名な話です。足の速いアキレスの前を足の遅い亀が走っていて、アキレスが亀に追いつこうとした瞬間、亀はまた前に進むのでアキレスは亀に追いつけないという事を、間違いであることを理論で論破すること…。
そしてそこから波及した追われるものは火事場の馬鹿力で思いがけない力を発揮するが、簡単に追えると思っている者は力を抜くという「うさぎと亀」の逸話は、このパラドックスを逆手に取った話で、世の中理論だけではないことをおもしろく書かれていました。
そもそも数学とか物理学とかは、アキレスと亀は等速での移動を前提になっているけれど、世の中では等速での移動なんてありえない。

2冊読んだらあっという間に夕暮れ。

20171104-05

普段は昼間家にいることないからなぁ~。台所からこんな夕日が見れることを知った黄昏時。些細なことでも知ることの幸せをたくさん味わえました。

会社話 -大手のスピーディーさに(@_@)-

会社の基幹システムのコンピュータ。朝久々にWRKPRBコマンド(問題処理)を押したらエラーがあった。どうもキャッシュバッテリーがヘタって来たという内容のよう。
あわてて弊社がお世話になっているJ社に連絡。エラーコードを伝えると保守の範疇なのでコールセンターに連絡してください、とのこと。これが9時。
コールセンターに電話すれば、早速IBMに部品調達と担当者派遣の連絡をします、とこと。最初にJ社に連絡してからわずか1時間以内でIBMを経由して関連会社の倉庫から宅配バイク便で部品が来る・・・。
バッテリーはあと60日間は保証されているので、そうは焦らなくても大丈夫なんでしょうけれど、時間単位で多くの方が弊社のために動いてくれているのを実感でき、なんだか感激です。

その日、その時に従って

2017年10月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 25章1-13節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


有名な聖書の箇所。何度も読み、何度も説教を聞いた箇所。
でも今日の長井牧師の説教は視点を変えた斬新なものだった。

ともし火の語源を見るとランプのように油の補充をする部分が備わったものではなく、どちらかと言えば松明、すなわちもともと油に浸した布を棒にまきつけたものだと言われます。
そして、10人が10人とも居眠りをしてしまうほどの待ち時間。想定外の時間だったのでしょう。
そこで起きた10人が松明に灯をともしたところ5人は燃えているが5人は油が乾き始めて消えかかった(消えた、ではない)、と書かれているわけです。残り5人も油をあげれるほど余裕がない所からその差は微妙だったのでしょう。

今風の喩えであれば、携帯電話のバッテリー残が少なくなり、5人は予備のバッテリーをもっていたけれど、5人は持っていなかった、と言う解釈でもいいのかもしれません。

ところで旅行に行く際何をもっていきますか?
「暑いのかなぁ?寒いのかなぁ?」考えて半袖のTシャツからダウンジャケットまで持っていく人は少ないでしょう。多くの人はそこで若干の温度設定の間違いをしても「失敗したな」と笑って済ますでしょう。
写真撮影が好きな人はカメラをもっていくでしょう。でもカメラがもし壊れたらと2台3台持っていく人はまれなのかもしれません。
他人とつながりたい人、SNSが好きな人はスマホは欠かせないグッズでしょう。いろいろな作業ができるスマホは1日1回充電しなければならないから充電ケーブルをもっていくかもしれません。

でも、自分の用意した服が温度と若干違い長袖のトレーナーじゃあ少し肌寒いとセーターを旅先で買う人は少ないでしょうし、カメラも思った構図の写真が撮れないからと旅先で長さの違うレンズを購入する人はいないと思います。
スマホ愛好者の方、例えば雪国で除雪が間に合わず1晩列車の中にいたなどのためにケーブルだけではなく予備バッテリーをもっていく人がどの程度いるでしょうか?

過剰な用意をすることは僕には多分にありますが、過剰な準備品を使用せずに重たい思いだけで帰ってきた時は、安堵と共に自分自身を信用しなかった懺悔に陥ります。
完璧な準備をしないと不安と言うのは道具だけではなく、人前での発表の時にも当てはまります。
僕はあがり症で応用力がないので、準備ができない「司会」は一番の苦手です。そういうと(そんな話をされた相手は)己以上のものを見せようとするからそうなるんだ、出来なくても当たり前だと思えばいい、とよくアドバイスされます。

つまりは愚かな5人の花嫁を推奨されるのです。
出来なくたっていいじゃない、と言われるのです。

運よく油が浸みきった松明をもった花嫁と運の悪かった花嫁の差はないのです。
運がいいのは立派でも正しかったでもなく、愚かなと評される花嫁は運が悪かった、今回はチャンスがなかっただけなのです。

それどころか不安を抱えてこの準備では足りないのではないか?と言う疑心で生きるよりは、あとは神様に任せよう。明日は明日の風が吹く、ケセラセラ、のほうがよろしい部分は多分にあります。

では何が今日の説教の言わんとするところか?
マタイはイエスの死後50-60年と言う時期にこの福音書を書き上げたと言われます。再臨のイエスのによる神の御国到来を望みながらなかなかそれがないという焦り・失望、そして疑念。
そうした時にでも喜びをもち励ましあいながら生きることを福音の書に記しています。

長井牧師は勝手な想像ながらと言いながら、扉の中に入れた5人の花嫁は仲間のために扉を開けるようにとりなされたのではないか?と語ります。
ラッキー、入れた。ではなく、アンラッキーな人のために常にアンテナを張ってとりなせるようにしたいですし、もしアンラッキーなグループに入ってしまったら次のチャンスのために希望を持ち続けたいものです。

今日の一日をどう過ごす?

引っ越しをした。
初老の夫婦、そしてこんな日本。我が家の径税的未来は決して明るくはない。できることは自分の手でしなければならない、と大型荷物以外は、古い軽バンに積み、運び、そして片づけをする毎日。

引っ越しをした。
それに伴い、会社までは約8km。市内でも地の利の良くないエリアから他の地の利の良くないエリアへへの通勤。帰路は8kmを歩くこともある。

そんな中だから、毎主日教会に行くこともままならなくなった。
疲れと多忙が自分に言い訳をさせる。
「教会に行かないけれど毎日ハッピーに暮らす人と、主日だから教会へ行かなければとか教会の奉仕の当番が当たっているから休めない、と喜び以外の気持ちで教会に行く人はどっちが神様のみ心に近いのだろう?」
「神様は教会以外の場所でも共に居てくれる。そして自分も教会以外の場所で神様を賛美できる。なら教会は何のためにあるのだろう?」

その2つの疑問は良い訳であり正しい疑問だと思う。そんな正しい疑問の回答は、やはり神以外の存在しかないのだろう。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
ともに神の名によって集まるところのベースが教会だと聖書は言う。

では何のためにイエスの名を呼ぶのか?神を呼び求めるのか?
それは悲しみや苦しみを見聞きして、何とか他者の園困窮を観ないで済むように、というのが一番の祈りをあわせられることではないか?

台風が近づいている。朝から激しい雨が降る。

20171022-01

でも、今日は衆議院選の選挙。
沖縄では女性への暴行やヘリ事故が相次ぐ。それに対して為政者は聞く耳を持たない。
フクシマの原発事故を忘れたかのように、日本の経済発展を名目に再稼働が相次ぐ。
破壊行為こそが一番の経済活動と言わんばかりに米国軍事主義のあとを歩むがごとく憲法を改定しようとする。
その陰には困窮が沢山見える。

僕らはやはりそうした困窮を見落としちゃあいけない。
祈ろう。主を真ん中にして祈り合わせよう。

今日は信仰と生活が一致した一日だった。
さぁもう少ししたら池上さんの特番だ\(^o^)/

悩ましい

2014年の衆院選の比例区、南関東の結果を見ると
自民 2321609票 8名
民主 1203572票 4名
維新 1053221票 4名
公明  875712票 3名
共産  813634票 3名
社民  132542票 0名

比例区はドント式と言うやり方で議員を決める。自民の8番目は290201票、共産の3番目は271211票。
社民は明らかに1議席目には全く足りない。
己の信念に基づいて社民に1票を投じるか、死に票にならないようにこの際共産の4人目を期待するか?

今回は立憲の票が伸びるので、立憲意外との呼びかけもある。僕もそれはただしい考え方だと思う。バックボーンにある組合の意向に流されて政策がぶれないようにするためにも立憲一党だけでなくリベラル3党で票を分配し、連立化した方がいいと思うので、順風満帆の立憲以外の2党の片方に投じるつもりだがなかなか悩ましいものだ。

常套手段

内部に希望がある国かどうか?は、その国がどういう政治PRをしているかでわかるような気がします。
ノルウェー、デンマーク、アイスランド、スイス、フィンランド、オランダ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、スウェーデンと言った幸せな国ランキング上位国は、あまり他国との諍いの声が聞こえてこない。

それに対して、隣国の韓国も慰安婦の像で政治より外交問題に国民の目をスライドさせているのと同じく、日本も北朝鮮のミサイル問題を躍起になって報道しています。
良い悪い、正しい正しくないという論議はともかくとして、国内に希望があり国民が幸せなうちは度量があるというか小さいことは気にしない(後回し)にしても自国の繁栄に皆が目を向けるものではないでしょうか?

仮想敵国を口にしている国はやはり政治は行き詰っているのだと思います。

それは1964年のオリンピックと比較しても、当時の熱意と希望が今回は感じられません。
バブルがはじけて国民の国家に対する希望は急激に落ちたのではないでしょうか?その不満を解消できないが故に目を海外に転じさせてしるような気がします。

選挙カーからは、「福祉と明るい未来、○○党です」というまったく内容のない政党名(候補者名)の連呼。
投票率が伸びないのはこうした無意味な行為がしらけさせる原因ではないでしょうか?
1か月以上各町々で2,3日ずつ全候補者の討論会があれば、もっと選挙に行くかもしれませんね。

それでも次日曜は選挙。
平和問題、原発問題、貧困問題等々、自分の関心事を分析して最も近い候補者(政党)に1票を投じたいものです。

拉致とミサイル

高江の米軍ヘリのニュースを見てふと思ったこと。
安倍さんは北朝鮮からのミサイルを騒ぐけれど、だれのために大騒ぎしているのだろう。
というのも明確な拉致問題に対しては何一つ進捗がない。
米軍のヘリの問題も北朝鮮拉致の問題も、一番困窮している人に寄り添っていないなぁ~
ミサイルは誰も困窮していない。ただ「国が舐められている」と安倍さんが思っているだけ。万が一日本の上空で爆発落下したところで宇宙空間だから摩擦熱で消滅するといわれている。そんなものより、拉致されて困窮の家族の現実、家や学校のすぐそばで爆発炎上し黒煙と異臭が漂う今回の方がはるかに問題が大きい。

20171012-11

この場所は昨年僕らがN1抗議座り込みの場所に行くために通った県道70号から200余mのところだ。

選挙を理由に米軍の責任問題を後回しにし、そして結局は森友や加計の問題のようにうやむやにしてしまうのだろうか?
国家体制維持のためだけではなく国民のためにも働いてほしいものだ。

高挙

友から旧宅を懐かしむ言葉の手紙と一緒にお酒が届いた。
引っ越し祝いでもあり、共通の友を偲ぶ酒でもある。

チョイスされた銘柄に隠された想いを今日は味わいたい。

20171012-01

まずは来福Xを開けてみよう。チーム名になった福を呼ぶ酒。
淡麗辛口と言う表現がある。今の日本酒の流行だが、僕はどちらかというと芳醇な旨味のある酒が好きだ。
田舎者なんだろうな、小川のせせらぎと金色に広がった田んぼが脳裏に浮かぶ、曼珠沙華とエノコロ草の畔道の香りが醸し出されるような実直が味わいが好きだ。
これはそんな味わい深い酒だ。

20171012-02

そしてその味を楽しむと逝っちゃった友の顔が浮かぶ。件の福豆さん然り、優奈のママちゃん然り、なぜだか最初に浮かぶのは豪傑な女性陣。
思い出を1つ1つ思い出しながら書いていると、晩酌をやらないはずが酒が進む。

もう一つの酒は甦る、だ。
これも含蓄のある名前の酒だなぁ~。逝った仲間を思いだしながら飲むにはもってこいだ。
洋の東西を問わず、蘇えり信仰はある。人間の希望だ。
いや、それは死への抵抗ではない。生きている者がふっと死者を恋しくなる感情だろう。

話は飛ぶが、来年のRFLはリベンジで広島尾道へ行こうとおもう。ここにはあの中でも好きだった赤川次郎氏の『午前0時の忘れ物』の映画「あした」が撮られた。
もう一度だけ会える。それはある意味パンドラの箱で1度会えば2度会いたくなる。赤川氏は過去との決別と言うが、僕は未練が増すと思う。
天国での再会の時に「なっ、俺精一杯生き切ったろ!?」と自慢できるように精進するのが、僕流の生死観だ。

しかし、死後が無ければそれすらも叶わない。あるのか?と言う答えが甦りであり、神のもとへの凱旋信仰だ。
甦りの魂は神によって高く引き上げられる。それを高挙と言う。
高くに引き上げられた友を見上げ飲む酒。

少し酔ったな。

神に与えられた場

2017年10月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 20章 1-16節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
いつもは聖書をコピーして共有しておりますが、今日の個所は 日本聖書協会・聖書本文検索 をご覧くだされば幸いです。

****
大きな組織をまわしていた俺が“焼”が入ったかな、うまくいかなくなって使用人が逃げちゃった。しょうがねぇ、今更いやだけれど誰かのところで働かせてもらおうと思っている。なるべくならいい条件で働けるところを自分で選ぼうと今朝は4時起きさ。借金返さなきゃな。

「ブドウ園、1デナリオン払うぜ」

こりゃいい。最近は何かと棒引きされて日給1デナリオンとか言って100レプタしか払わねェ ちゃっかりした親方がいるからな、気ぃつけねーと。

俺は親方の指定されたブドウ園に行った。自慢じゃねーけど俺はやる時はやるよ、人の倍も三倍も働くのがポリシーさ。
今日も暑いが体力には負けねぇ。

10時か、もうへばって休むやつがいる。それになんだ、新入りが来たな。あんなへなちょこには負けねぇ。

昼も飯かっ食らっただけで俺は働いたよ。何度も言うがやる時ゃあやるんだよ。

15時か、西日がきついぜ。

17時、あと1時間だな。我ながら頑張ったぜ。おいおい今頃着やがったやつがいるぜ、もう仕事はほとんど終わったっていうのに、それに青白くてひょろひょろで何ができるんだ。おとといきやがれ。

「みんな、ご苦労だったな。賃金を払うぞ」

おおっ、これのために頑張ったんだ。

「まず17時に来た者。1デナリオンだ」
「ありがとうございます。」

ちょっぴり働いただけで1デナリオンだって!!、1日分の日当じゃねーか。そりゃぁぺこぺこするわけだよな。この親方は気前がいいのかもしれねぇ、朝から働いた俺は…グフフ、夕飯には少し酒つけちゃうかな。

「よし、最後に朝から働いたもの。ご苦労だったな。約束通り1デナリオンだ」

おいおい、そりゃねーぜ。俺は朝の5時から13時間も働いたんだぜ。1時間しか働かなかった奴が1デナリオンなら俺にはもっと“イロ”つけてくれてもいいんじゃねーか?



この話は、どうも苦手です。この朝からの労働者の立場に立ちやすいのです。いや、どう見ても不公平でしょ!? そう思ってしまいます。

でも本当に不公平だったのでしょうか? 
今までの上記も聖書に基づいた妄想ですが、ここから先は妄想の度がUPします。

17時、街の真ん中に行くと朝居なかった若者が立っています。
親方が声を掛けます。「なんだ?昼間はいなかった顔だな?どうしたんだ。」

親方はそうけれど、私も街角にいました。見つけてくれなかっただけです。…なのかもしれませんし、また

「はい、私はうつがひどく、夜になると不安で眠れなくなってしまうのです。でも、親もだんだん年を取っていつまでも頼れないので、今日は頑張って何とか起きたのがこの時間なんです。」
「夕方のごみ拾いでもあったらお願いします」

なんていう会話があったのかもしれません。
もしかしたら

「親が一昨日馬に蹴られて寝たきりなんです。一昨日、昨日、そして今日と寝ずに看病し、なんとか峠を越えたので、薬代稼ぐためにも、と今家を出てきたんです。」

だったのかもしれませんし、

「実は隣町の牢につながれて昨日釈放されました。無一文で追い出されて飲まず食わず歩いて今この街にたどり着きました。」

かもしれません。
ほかにも読者の方が推理するやり取りがあったかもしれませんし、もしかしたら僕らが推測できないようなやり取りがあったかもしれません。

このたとえ話は、1つ1つの事例のやり取りが書かれていなく、結果だけが書かれています。
やり取りは見えません。

生活保護の利用に関しては、「自己責任論」のような多くの反論があります。
それはまさに、1つ1つの事例を無視し、生活保護を利用したという結果だけで判断していることでしょう。

この話が苦手だ、というのは、実は僕も結果だけを見て物事を判断していたのかもしれません。
生活保護に関しては、何十件以上のやりとりをした結果、推測だけでなく経緯を経た結果なので、僕はこの朝から労働者のように後から来た人を非難しません。
それは誰もがそうではないでしょうか?
自分が困窮していること、一生懸命練習をやりあった仲間の失敗、これは案外許せたりはしないでしょうか?

でも、TVの夕方の特集「マナーの守れない人たち」みたいので、入ってはいけませんと書かれた柵を乗り越えて堤防に行く釣り人とか、花火を楽しんだ後ごみを散らかしたまま帰る若者などと合わせて、協調性のない1軒の家とかが取り上げられ、「何?あの人!?」と思ったりすることはないか?と問われれば、僕はあります。
でも、それは目の前の事例のみで、そこに至る経緯などを聞くと泥棒にも三分の理とか言いますが三分どころか四分も五分もあったりします。

「外野のお前らに俺の苦しみのどこまでわかるっているんだよ!」と思うことはないでしょうか?
それこそ今日の17時の人の心の叫びです。
その苦しさを少しでも共有できる心の広さ、想像力、やさしさ…持てるようになりたいです。

そしてこれが朝4時から並んで仕事をした人への非難になるのも違うと思います。長時間の労働は確かなものだし、「そこまでしても(石にかじりついても)」お金が必要だったかもしれない、という彼の方のバックボーンの推察も必要だと思います。
それでも人は己が可愛く、自分以外の人が自分より「うまいこと」できたことに嫉妬をします。苦手なのは僕もなかなか克服できないかもしれませんが、これを克服できれば「天の国」になるのでしょうね。


PS
もう一つ妄想を…

17時に来た人は1デナリオンと言う大金をもらえたことに驚き、喜び、そして敬服しながらおぞおずと言いました。「本当にご恩を頂きありがとうございます。しかし私のそばの家に『ひきこもり』の人がいます。何年も家から出ようとすると、体が硬直し、ひどい頭痛になるといいます。今年親がなくなり、食べるものに困窮し、周りの私どもがみんなで面倒を見ているのですが、私たちも貧しいのでなかなか…。」

「そうか、ではその人にも1デナリオン渡してこよう。働けなくても生きていかなければならないのだからな。」
神の愛の平等を信じます。
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