ポーランド戦を終えて

サッカーワールドカップがことのほか盛り上がっています。
特にグループリーグ初戦で強敵のコロンビアを破ったあたりから、本戦への期待が高まりヒートアップしたように見えます。
僕はサッカーはあまり関心がないので見てはいませんでしたが、1勝1分けで迎えた第3戦直前は、「日本が本戦進出するためには?」と言う星取シミュレーションがTVや新聞、インターネット画面に踊っていました。
『負けても相手次第』
そうした中、0vs1で迎えた後半は、このまま負けても決勝本戦に行けると踏み、パス回しで時間を稼ぎ思惑通りに本戦に行きましたが、その作戦には専門家からにわかファンまで様々な意見を出したのを目にしました。

なにゆえか?

それはプロ競技だからなのでしょう。
プロ競技は勝つことで報酬をもらうものですから、勝つことに全力を注ぐのは当然のことです。プロ野球で今年松坂投手が押し出しの四球を出しましたが、それは長打を打たれる確率より押し出しの四球を与えて次の打者を打ち取る可能性が高いのなら1点で済むという計算で、姑息と言われれば姑息なのかもしれませんが冷静な判断で勝利に結びつけたと感心しました。
貪欲に勝つためには広い目と冷静さが大切なことかもしれませんが、パス回しの時間稼ぎも同じなのでしょう。

同時にプロ競技の資金は何か?が問題になるかと思います。
それは観客の入場料金で会ったり、多くの視聴者がいることを目論んだTV放送にスポンサーとして企業がつくことで生じると思います。
ですから観客を楽しませることがプロ選手には求められています。プロ野球で例えるのなら、往年の王選手のようなスーパースターは別格として、でも、人気のある選手は必ずトップの成績であることはなく、新庄選手のパフォーマンスや衣笠選手の武骨な連続出場記録、初々しい東投手のもぐもぐタイムと関心の幅は広くとも関心もたれることで、会場に足を運ぼうとするわけです。TVを見ようとするわけです。

この2つから、プロは勝つことを目的としながら、関心を持ってもらうプレーをすることが求められております。
その一面から言えば、後者を無視したことが今回騒動になったのでしょう。見ていて楽しくなかった・・・・。
とはいえ、もし全力プレーで0vs2で敗れたなら、なんであそこでパス回しをして時間稼ぎをしなかったんだ、それも作戦の一つだろとたたかれることは火を見るより明らかで、何をしようがたたかれるのは有名人の宿命として諦めるしかないのかもしれません。

さて、そんなこんなででも進んだ本戦。黄金期のベルギーとの戦いとか。格上相手の戦い。ドラゴンボールの悟空じゃないけれど「ワクワクしちまうぞ」と、この日はプロとしてではなくスポーツマンとして、強い相手とただただ楽しんで戦ってくれればいいですね。

ただ信じていなさい (イイワケ・・・)

下記BlogをUPしてまったく間違いは書いてはいないつもりだし、そもそも僕の雑感なんです。
でも、クリスチャンでない方がお読みになられて誤解されてはいけないと思い、少し追加。

宗教の中には、指導者の発言は絶対でそこに異論や疑問のはさめる余地はないところもありますが、キリスト教の多くの教会は、聖書のみ言葉を牧師は取り次ぐだけですし、聞いている信徒はただの一般人です。
ですから聞いて理解できないこともあるし、疑問に思いながらも(礼拝後の時間を使って牧師にお尋ねすることもなく)帰宅することもあります。
なんとなくしか理解できない時もあります。

でもそれがキリスト教だと思うのです。神は人間を支配しようとしなかったのです。だからロボットではないのです、神の言うことは絶対命令だけではないのです。
自由がある。だから分岐点があり、悩み、そして神に祈るのです。

だからこの世は楽しいのです。

ただ信じていなさい

2018年7月1日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 5章21-24a節と5章35-43節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。


****

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。



この日松田教会に与えられた聖書の箇所は、2カ所です。しかし、この2カ所の間に別の話が入っていただけでストーリーとしてはこれで1つの話です。
とはいえ、サンドイッチにされた話もないと分かりにくいので、簡略に述べると、12年間出血の病に苦しんでいる娘がいました。当時は血は穢れているものですから、出血の患いである人は大声で「私は穢れたものです」と言いながら歩かなければいけないと言う屈辱の人生を送らなければいけないし、そうやって惨めに暮らしていたのでしょう。
その女性が、ヤイロとともに出かけようとしたイエスの着ている衣にそっと触れました。すると病が治ったことを感じ、同時にイエスも力が外に出て行ったことを感じました。イエスは誰が触ったか?と聞くと、娘が恐る恐る自分であることを告白しました。イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と語って、さてヤイロの家に行こうとした時から後半に続きます。

今日のポイントは絶望的な状況でも希望を捨てなかった2人の女性(家族)の中の1つの話です。
希望を持つということは神を信じることでもあります。希望は神からの来るものです。

しかしヤイロ(会堂長ですからユダヤ教の信仰者なのでしょう。ただ任命は祭司長だから古い信仰理解の方だったのかもしれません)の仲間は、死んだヤイロの娘に対し『死んでいない。』と言うイエスに嘲笑を浴びせさせます。
宗教者やその仲間でさえ、無理だと思う話。誰がどう見てもそれが当然の理解。
そこにイエスは「神に希望を持て」「愛して下さる神に委ねよ」というのです。

一方ヤイロの父親になったつもりでこの話を再度考えてみると「娘が重篤なんです、急いでください」と迎えに行きながら、出血の娘に出会い時間をとられた挙句、娘は死んでしまいました、となれば、途中の邪魔な娘とそれに手を貸したイエスに憤りすら感じたのではないでしょうか?
もしここで娘が死んでしまったとすれば、葬儀が終わり、少し落ち着きを迎えれば父親を襲うグリーフは、イエス憎し!となったのではないかと思います。

そうした人たちに身を以て希望を教えたイエス。素晴らしい話と思うのと同時に、でもその場面に出ぐわさない僕らにはなかなか感情移入が難しく、信じろと言ってもと言う思いは湧きます。

3・11の津波に家族が襲われた人は、津波が去った後絶望的な気持ちの最中も消え入りそうな希望を持っていたけれどやはり行方不明のままだったという人もいます。ヤイロの父親のように希望が大逆転した例は稀有かもしれません。
そうだとしたら僕らはこの箇所から何を読み取るのか?

実は、家に帰ってからも今日はモヤモヤは晴れませんでした。冷静に自分なりの分析を繰り返しました。
そして1つだけちょっぴりモヤモヤが、最終の希望は何か?ということ。生きることが最終の救いなのか?ということです。
この話は、残された遺族の話です。
よくこの世は仮住まいとかいいます。死後神の御許に行けるのか?否か?が僕らの最大の関心事であるのなら
家族の死後の平安こそが最大の関心事で、それ故に、葬儀でも神の御許に行けるように、天国に行けるように祈り、遺族に慰めを言います。
生きかえったヤイロの場合ではなくても、僕らには別の希望が与えられているような気がします。

今日の説教はそこまで突っ込むことのないまま終わりましたが、別の機会にお話をお聞きしたいですし、それとともにどんな形の希望であれ絶望することなく希望を持ち続けたいものです。信じることをやってもやらなくても同じならば少しでもいいことがありそうな、少しでも大きな希望をもてそうな信じることをしたいものです。

2年前の強姦殺人の賠償金が支払われます

小野寺防衛大臣は、2年前、沖縄県でアメリカ軍の軍属だった男が女性を殺害した事件をめぐり、アメリカ政府が遺族に対する賠償金の支払いに合意したと明らかにしました。

「補償の問題についてもマティス長官と話し、日米両政府から支払うことにした。本件のような事案が二度と起こらないよう、引き続き日米間で協力して取り組む」(小野寺五典防衛相)

沖縄県うるま市でアメリカ軍の軍属だった男が女性会社員を殺害した事件をめぐり、アメリカ政府は、日米地位協定に基づく「補償金」ではないものの、「自発的かつ人道的な支払い」と位置づけた「賠償金」を支払うことに合意したということです。

防衛省によりますと、このような形での賠償金の支払いは極めて異例だということで、社会的な影響や遺族感情を踏まえて対応したものとみられます。
(29日18:27 グノシー)

猛烈に腹が立つ話だ。いや、相手が支払い能力がなく、被害者がかわいそうなので見舞金を出す、のなら何にも文句を言う気はない。
しかしそうじゃない。なぜ米軍に全額を出させない、何故米軍が頭を下げない。

だから米軍基地は沖縄から無くならなきゃあいけないんだ!!

第5回新会堂チャリティコンサート ~歌とお話と”LOVE” をあなたに~

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ビートルズ世代と言う言葉ができるくらい彼らの残した音楽は世にインパクトを与えました。その理由の大きな一つに社会へのメッセージがあると思います。
芸能プロダクションに歌わさせられている、好きでもないけれどマネージャーを通してこの曲を歌え、と言われている、と言うのは如何にも寂しく、そしてそうした歌が記憶から消えるのも早いのかも知れません。
歌は歌を通してのメッセージであったり、たとえばゴスペルは教会で言うところの神への賛美であったり、確たるポリシーがあるのが僕は好きなんです。

サニーさんとお交わりを頂くきっかけは、映画「さとにきたらええやん」の実行委員としてご一緒させて頂いたこと。そのあと、おきなわんナイトでの舞台を拝見したり、大友さん・伊藤弁護士のトークライブの司会と歌を拝見したりと、彼女の持っている「舞台」のメッセージ性を実感させて頂きました。
そして今日こうしてもう一度松田教会の礼拝堂でのコンサートに相成ったわけです。

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司会の清水牧師の挨拶の後、さっそくいつもの元気ないでたちのサニーさん登場。

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普段は幼稚園等での活動が多いこと、そして「参加型」というスタイル。最初は戸惑う大人たち(笑) 普段教会でのコンサートはクラッシックなどを「聞くだけ」が多い中、体を動かすことに抵抗があるのかも知れません。しかし…
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。ルカによる福音書18:16 です。
子どものように受け入れ楽しむことをイエス様もお奨めになっているのです\(^o^)/

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”Love”をあなたに! と言う式次第のタイトルのように、まさにゴスペル(福音書)のように、
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 マタイによる福音書11:28,30
を歌い上げていきます。

体と心を解放した後はハイドレインジアさん達。

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木村カエラさんのButterfly と、ジブリ映画いつも何度でも の2曲のカヴァー。
楽しそうな歌声、お子さんも一緒に舞台で歌う姿にほっこり

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その間にお色直しのサニーさん。

歌の間に絵本朗読。昨日が6月23日という事でチョイスしてくれたのは「へいわって すてきだね」でした。
小学生が思う素敵な平和の世界を固辞しているのは為政者たち。そんなことどんな大人も分かっているのに…。辺野古がいいんだって…安倍さんがそう言っています。いや、トランプさんが自分と一緒に歩んでくれると思っていたら最近金正恩さんと仲良くなったから気を引こうとして大変なんですよ。「命より重い日本の経済と威を借る狐のプライド」堅持の為に・・・。
やっと各国がシェークハンドして「平和って素敵だ」と言えそうなのに・・・

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そして僕も大好きな曲。ルイアームストロング氏の名曲。what a wonderful world
ベトナム戦争を嘆き、平和な世界を夢見て書いた曲。まさにその前の絵本とシンクロします。

愛にあふれたコンサート本当にありがとうございました。
こうした地域に根ざした個人やグループが気軽にコンサートをしたり、またお茶を飲みながら練習したりする場に会堂改修は進んでいきます。
またいつか素敵な歌声聞かせてください。
今日はありがとうございました。

神に信頼する

2018年6月24日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 4章35-41節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


今日与えられた箇所の前後、マタイによる福音書の4―8章はイエスの起こした奇跡がつらつらと書かれています。それだけ奇跡を起こしたわけですが、実際目の当たりにしない僕らは、奇跡と言われても“いわゆる自分の理解の範疇外”の非科学的な出来事を『眉唾』とオミットするきらいはあります。
と同時に、火の粉がかかれば人間だれでも慌てて、奇跡でもなんでもいいから助かりたいと思うのだと思うのです。
奇跡をすべて非科学的な出来もしないこととするのなら、医者の「余命3カ月です。奇跡でも起こらなければ治りません。」などと言う言葉は噴飯ものでしょう。医者ですら奇跡に掛けたい、と言う気持ちを持っているのです。
「ばかばかしい、奇跡なんて存在しないからあなたの命は3カ月以上ありません。」と言う医者よりどんなに頼りになるか! と思うのです。
もし自分の主治医が上記の2人だったらどちらがいいでしょう。『自分は科学者の端くれでもあるけれど世には未知なるものもたくさんあります。奇跡もあるかもしれませんから奇跡に掛けましょう。』 と 『オカルト興味本位だと変な宗教や薬つかまれます。科学で理解できないものはやらない方がいいのです。』
溺れる者は藁をもつかむのです、僕は理屈では正しいかもしれませんが後者の医者は信じられないです。前者の医者が居ればそちらに主治医になってほしいです。

さて、この湖を根城としていた漁師たち。その漁師たちが慌てているほどの波です。
しかしイエスは寝ています。イエスにしてみれば神にすべてを委ねているのです。一人では何もできない程度の赤子が自分の人生すべてを親に委ねているが如く、イエスも神にすべてを委ねているからのんきに寝ていれた訳です。
しかし弟子たちは違いました。
パニックになれば、人はそのパニックを正当化するために「怒り」の感情に変化させることがあります。グリーフサポートの専門家のお話を聞いた時も同様なことを言われました。

人は不完全です。ですから、前述の医者の話ではありませんが、完全に治せるという100%は口にできませんし、自分のスキルではできない可能性が高いと感じる時もあるでしょう。
それでも、僕らは主治医に全幅の信頼を置き、治療をしてもらいます。

ならばなぜ「全能の神」には信頼を置かないのでしょう? 人間以上の能力全能の存在者です。そしてその人は僕らを「親が生まれたてのわが子を愛おしむように」愛してくれています。
全てを自分が決め、責任を負いながら生きる事は時にして辛くなります、全能の神に委ねて生きることで荷は軽くなります。楽をしましょう\(^o^)/

松田教会ライブ

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聖契キリスト教団松田教会では、新たなコンセプトを視野に入れた教会堂の全面改修をいたします。
それは「クリスチャン」の集まる場所ではなく、「人」の集まる教会を目指す改修です。
ですから隣接の町民文化センターでのイベントの前後お茶を飲みに立ち寄ったり、友達同士おしゃべりしにきたりできる場所を作りたいと思っています。
そんな改修工事のために上記チャリティコンサートを開催いたします。

小さな教会ですが、ホッとできる場所を目指している教会。そんな教会に入ってみるチャンスでもあります。
ぜひご参加ください。
詳細、チケット購入は教会まで!!

紀伊神社地蔵堂

小田原の石造物を調べる会の定例会で今日は早川の紀伊神社さんと正蔵寺さんをお尋ねいたしました。
特に紀伊神社さんは、同行のIさんご親族と懇意という事で事前にお願いをしてくれ、地蔵堂)お念仏堂のような感じの本堂)を開けて本尊を見せてくださいました。
中世前期と言われています石造の地蔵菩薩像。

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両膝を見ると分かりますが、粗目の石でできています。それに漆を塗りその上に金箔を貼ったり色彩豊かな色を施したりした60cm弱の坐像。地蔵らしく右の手には錫杖を持っています。触ることは禁じられましたので、素材は不明ですが蓮華の上に座っています。そして左手には壺を持っているようです。


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そばに赴きのある招き猫。粗削りの素朴な顔立ちがなんともいえません。

こうした普段目に出来ない仏像等を見れるのもこの会の楽しみです。

なおこの会は定例会でみんなでアクセスのしやすい場所を廻りながら、個別でも調査を進めることになっております。7月7日は久野舟原地区を廻ろうと思っております。
こうした活動にご興味の方は是非郷土文化館・小田原の石造物を調べる会までお問い合わせください。

ドコモ・プラスハーティ と言う会社

先輩友人のBloger笹鶏さんこと笹村さんが氏のBlogで紹介されていた本。

20180622-01

特例子会社という全く存じ上げないジャンルの会社にお勤めなのが郷土の田んぼ仲間という事、そして難しいタイトルのわりにわかりやすいというし、なによりも関心のあるジャンルのお話なのでさっそく通販をポチリ。
障がいをお持ちの方を積極的に雇われているドコモの子会社、とは何か?

松田教会の第2回 cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~) でスピーカーとしてお呼びしたのは、小田原駅西口にあるえりむの創設者のお一人のTさん。
牧師の清水師も精神障がい者就労継続支援(B型) えりむには関わりのある方だし、Tさんも清水師も野宿を余儀なくする方々の支援をしている小田原交流パトロールの仲間。

将来的には松田教会内の喫茶もそうした障がいを持った方を雇う方向になるかもしれないとも思い、購入してみました。

本は、雇用法規などの難解な部分や障がいについての説明、それと交互にドコモ・プラスハーティーに入社した若者の成長と言う内容のコミック(漫画)で構成されています。
コミックはまず多い自閉症についての症状や対応の仕方が書かれていて、言葉は知っていながらも症状や対応方法を存じていない自閉症について学べました。
たとえば「片づけてください。」と言う言葉に、僕は指示した人間と自分の共通した「出しっぱなしのもの」を探せますが、それが難しい人には、「何を」「どこに」を言わなければいけないでしょう。
でもそれは障がいを持っている人だけではなく、『今日からアルバイトできました○○です。』と言う人に、書類を片づけて、と言ったら面食らうと思います。どの書類をどこに整理するのか?の指示だしをするのが正しい指示でしょうから、まぁ五十歩百歩なんでしょう。
そしてそのいい加減な指示出しは会社の中でトラブルを引き起こすことは多いです。

分かったつもり、は間違いのもとです。
逆に主語のない日本語も魅力でもあるのでしょうね。
『姉は男だ』と言う言葉は、性同一の問題ではなく、日本語の問題としてその前の会話が、『お前のところ兄弟の子どもはみんな女の子だったな』という会話があれば『いや、姉(の所は)男だ』と言う回答もあり得ます。
たぶん自閉症の人にしてみればこうした推測をしながらの会話は難しいのだろうという事が分かってきました。僕だってこの例題くらい”ひねられ”たら、その言葉の真意を想像できません。何を言っているんだ?と思ってしまうでしょう。

通りすがりの程度なら深く学ばなくてもいいのかも知れませんが、せっかくのスーパー講師が小田原にいるのですから、何かの折に岡本さんにもお話しして頂けたら嬉しいですね。

まずは素敵な本をご紹介くださった笹鶏さんに感謝。

自分の世界

故・萩原慎一郎氏の歌集を買った。
いじめに遭い、体調を崩し、そして派遣社員の苦しい生活の日々を歌った歌集。
31文字に全てが凝縮されていた。

20180619-01

最近僕も写真を趣味とし、17文字でタイトルをつけてBlogという誰もが目に付くところにUPしている。自分を表現しようとしているのだろう。
が、本当にその画像に自分の言いたいことが写されているのか?その言葉がその写真の言いたいことを言い表しているのか?
と言われると、不可とは言わないが優や良と言った評価を頂けないものだと思う。知っているスキルを見せびらかしているだけで自分の世界の表現ではないのかもしれない。
こうした良質な文字を見ればその思いが確かなものだと納得する。

なんだ、この言いたいことが全て凝縮されている31文字は…。
うなずきながら読み進めて行った。

形式とか日本語の美しさというものから評価すれば氏以上の短歌は世にたくさんある。が、それは人の心を打つか、と言えば読み手それぞれだ。
小豆島に尾崎放哉氏の庵を訪ねた。「咳をしてもひとり」この文字数も無季語と言う形式も無視した俳句を初めて聞いた時から忘れられなかった。
山﨑方代氏の「手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る」を聞いた時もそうだった。

その瞬間の喜怒哀楽が素直にシンクロされた。孤独の恐怖と言う悲しみやボサボサ髪で欠けた歯の口でニマッと笑いながら豆腐を大事に抱える喜びが目の前に映像として現れた。
そんなものと同じ映像の見える感覚がぎっしりと詰まっていた。

たぶん王様には王様の悩みや苦しみはあるだろう。二枚目でスポーツマンにも困窮はあるだろう。だけれどたぶんそれは僕とは遠いからなかなかシンクロしにくいのかもしれない。
それに比べて前述の尾崎放哉氏や山﨑方代氏、そして件の萩原慎一郎氏の吐き出したい気持ちは僕からさほど遠くないところの感情なのだろう。だからシンクロしてしまうのかもしれない。

しかし、こんな風に自分の世界を表現する写真とか歌を作ってみたいなぁ
無理を承知でそんな思いがふつふつと湧きあがる。

ストレスの多い人生、30余年で自死されてしまったことが残念でならない。.
彼はこの世と言う抑圧された物から自らの翼で羽ばたいて行ってしまったのかもしれない…。
髪をなびかせて天馬のように駈け上って行ったのかもしれない。
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take1960

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