ブラサイジョーものがたり(episodeΩ 開城前夜)

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城作りは時代とともに、そして城主とともに変革をする。
戦国の世はたいそう立派な天守閣は必要とせず、どちらかと言えばバリケードの要素の高い戦の物。それが天下統一を成し遂げるときに戦わう気持ちを萎えさせる威圧する道具として巨大な天守閣を作ったのが織田信長である。
しかし伊勢宗瑞こと早雲は今川家に居る時以来、常々何のための戦いかを疑問をもっていた。何のための領地拡大かを考えていた。
その結果が、農民の保護も目的とした小田原城の総構である。しかし、小田原城だけではない、例えば鎌倉玉縄城も同様に牛馬を連れた農民が避難できるような構造だった。
虫けらのように扱われた農奴の時代、人格をもった『人』として扱った北条家。
生活の保障はなく税を納めるだけの対象であった農民。それ故に、戦いになれば収穫間近の田畑であってもその上で合戦が行われる。そして踏み荒らされても、国主からの納税の通達がある。権利と義務のバランスが常識と大きく食い違う生活は、「民」の姿ではなく「奴隷」そのものである。国主が守ってくれる、という歴史が語る言葉は全くの戯言に過ぎない。
だから農民であっても武器をもっている。刀はもちろん、なければ竹やりででも身を守らなければならない時は戦う。
秀吉による身分制度の確立前はそれが当然であった。
しかし、この住民を大切にする領主は民から愛された。それは、この後、北条家が潰され、この地の民が徳川の配下となった時、如実に表れる。
江戸の町は北条の民が作った。しかし北条恋し、小田原恋しの民を、滅ぼした側の家康が使いこなすのは大変苦労したという。小田原の町民を団結させないように、江戸のあちこちに移り住まわせ彼らの結束力を削いだ。


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(蛙石の伝説に限らず、災害の前に警告を与えてくれる伝説は各地にある。「赤目地蔵」という昔話は大好きな話だ。神が啓示した予言ではなくいたずらだからと馬鹿にする住民。しかし、いたずらをさせること自身が神によるものである。という話だろう。でも、自然なら逃げ出すことも可能だ、しかし戦争からは逃げられない。北條は五代にわたり、誰もが平和に暮らせる世を求めた。それが叶わぬことに蛙石は泣いたのだろう)


何の鳴き声だ?蛙か?しかし不気味に大きい声じゃのぉ。
不吉な鳴き声…、海が荒れるのか?大津波でも来るのか?
古新宿の漁師たちは暗くなってきた海を見つめながら口々にそう言いあう。
しかし沖の脇坂や九鬼の船は微動だにせず灯りをともし停泊している。海が荒れてあいつらの船がみんな沈めばいいのにのぉ、無理であることを承知でぽつりとつぶやく。
もう3月か…あいつらがいるから漁にもでられねぇ、食い物も底をついて久しいなぁ。いくら氏直さまが配給の粟をくれると言ってもひもじいよなぁ。
いつしか話題は不気味な鳴き声から沖に停泊している水軍への恨み節に代わっていく。
なぁ、そういえば原方は家康さまによって大きな被害を受けたらしいが、それ以来誰も攻めてこないなぁ、もう戦いは終わりなのかなぁ?
そんな話をしていると一番大きな船を持つ網元で働いている太兵衛が、慌てて浜に来た。「おい、しっとるか?あの不気味な声はお稲荷様の蛙石じゃ」「わしこの耳で聞いてきた。」
蛙石ってあの蛙石か!
互いに顔を合わせ刹那に走りはじめる。
蛙石が鳴く時大きな異変があるというのはこの村に住む者の間では常識であった。
多くの村の若者が乏しい松明のもと北条稲荷を囲む。その中で蛙石は不気味に泣き続けた。小田原城落城の前夜の事であった。

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長いことお読みくださりありがとうございます。あくまでも創作の域を出ておりません。史実に基づく話は15日のブラサイジョーでお楽しみください。

ブラサイジョーものがたり(episode7 家康攻める)

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(現住所で言えば広小路というが、戦国時代は井細田口の虎口だった場所。ここでは渋取川の流れを見ることができる。この川はここから北上し寺町大長院を西に合同庁舎の裏を通り荻窪用水にぶつかる。この広小路の交差点は複雑な形をしているが、虎口として重要な場所であったのだ。)


荻窪用水に端を発し濠として整備された渋取川。その東側には葦子川が流れている。この川もまた小田原城の濠の役割をしている。籠城を得意とする北条故に、うかつにこの濠を渡れば怒涛の攻撃を仕掛けられるやもしれない。おいそれとは入れずにらみ合いが続く。
いちばん海側の山王に陣を敷いたのが徳川家康。その数3万。一つの軍勢では一番大きな軍団だ。


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(渋取川は新玉小・蓮上院の裏を流れ浜町で東に折れ山王川(久野川)に注ぐ。今歩いている場所の下が渋取川、暗渠だ。この場所は川崎長太郎の私小説「抹香町」の舞台として昔歩いた場所だ。)


家康は事あるたびに河口の神社に詣でた。途中原方の村には大きな屋敷がある。「はて、葦子川の外側にこのような屋敷とは」家康は、村の外れで畑仕事をしている老父に訪ねた。小柄な老人は体型に似合わず大きな声で、「あの家は、皮田の太郎左衛門の家だ」という。
当時の小田原はいわゆる革職人は蔑視されておらず、この太郎左衛門も早雲が腕を見込んで伊豆長岡から連れてきた職人である。早雲は城内の職人町に住むように告げたが、「わしのようなものは城内なんぞ」と断りこの原方村に屋敷を構えた。
家康は神社に詣でた帰りに屋敷を訪れ、自分の陣の兵の武具の修理を頼んだ。しかし、太郎左衛門は、北条の殿に代々仕えこの周囲の長吏をまとめる権利まで頂いた。その殿を責める敵方の武具の修理などできないと断った。
何食わぬ顔をしながら陣に戻った家康は、井伊直政を呼んだ。夜撃ちをせよ、原方村から南袖が藪の篠曲輪を焼いてまいれ。
6月22日、小田原城が唯一攻められた日であった。


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(山王神社の裏で山王川(久野川)にぶつかった。相模湾はもう目の前だ)

ブラサイジョーものがたり(episode6 関東を治める者)

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「そもそも関東管領の名家上杉を長尾ごときが名乗るのがおこがましわい。山内上杉家は憲政が河越でわが北条軍に敗北した時点で終わったものよ。長尾家が勝手に職を譲られ管領を名乗るなんぞ認められるものではなかろう。
それでも謙信殿はともにこの関東を納めると三郎景虎殿をご嫡子としてお受けなされたものを長尾景勝の奴めお家を乗っ取るとは許すまじことよ。
何としても景勝は叩き潰さねばならぬ。」
1570年、北条の一族から友好の証として氏康公の七男であり玄庵公の養子である北条三郎、時に16歳が謙信の養子として越後に出向いた。男色の謙信は美男子の誉れ高く聡明なこの若者をひどく気に入り自分の初名を授けた。
しかし上杉の家臣職である長尾を継いだ景勝は乱を起こし、北条からの若者を殺戮し自らを上杉の跡取りとした。
「われは名誉ある関東管領。帝ならびに足利将軍からの命を受け、関東を制圧する。今関東をかどわかし強奪している北条は、誰の許しを得ることもなく勝手に鎌倉源氏の由緒ある北条の名を使用している不届きものなれば天誅を下さねばならない。」上杉を新たに名乗った景勝はそう鼓舞した。
***
「これは山城の守、よくお越しになられた。」秀吉は愛想を崩し直江兼続を迎え入れた。「羽柴殿におかれましてはますますご機嫌うるわしゅう…」
挨拶も終わらぬうちに秀吉は言葉を遮った「いやいや、今回の魚津の一件は大変だったようで…いや、わしは上杉を責めるのは反対じゃと殿に進言していたのじゃがあの権六の奴めが」
「いやいや、織田様に盾をつくつもりは決してござらぬところ、まことに申し訳ない次第です」直江兼続は畳に頭をつけてひれ伏した。
「いやいや頭をあげられよ、わしは景勝殿が織田に逆らうなどおくびにも思っておらんぞよ。あの素直なお方故に本願寺との板挟みにあったのよ、のぉ」
秀吉は気にもかけていないと深くうなづきながらそう語りかける。
「いや御国元にお帰りになり秀吉は上杉のお味方ゆえ、何なりとお申し付けあれ、と景勝殿にお伝えくだされ。きっと気をもまれておられるからのぉ」
当面の敵柴田勝家の背後にいる強国上杉は恩を売っておけばきっと役に立つ。秀吉の頭は天下統一に向けて急速に働いている。
****
「上洛は吝かではない」氏政は評定衆を前にしてそう言い放った。しかし、盟友家康殿には礼を尽くしてのもてなしだったと聞くに、いやしくも徳川家より家柄の高い、いや日の本で一二を争う国持ちのわが北条には使者を遣わすだけとは、あまりにも無体な仕打ちではないか。
そういうと、独り言のように「行く気がせんのう」とぼそりとつぶやいた。
上杉を配下に置いた秀吉が北条を陥れようと狙っていることまでは氏政も感ずいてはいなかった。

ブラサイジョーものがたり(episode5 小田原評定)

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「出羽守を儂の部屋へ呼べ」氏邦は周囲に聞かれないように密かに告げた。出羽守は5代にわたって北条家に仕える乱破(忍び)の首領で名を風魔小太郎と言う。
部屋に帰ると間もなくして出羽守が静かに部屋に入ってきた。「ひとあばれしてもらえぬかのぉ」その言葉に直ちに出羽守は「黄瀬川ですか、久しぶりです」とにやりと笑った。
今から9年前、武田勝頼は上杉家の後継者争いに端を発し北条氏と疎遠になった。そしてそれをきっかけに北条の伊豆領に大軍で攻め入ったことがある。その際黄瀬川三枚橋に陣を構えたが、そこに風魔一族が夜襲を仕掛け、結局のところこの攻撃を失敗に終わらせた。出羽守はそれを懐かしそうに思い出し口元を緩めたのだろう。
「では」、と出羽守は部屋を出ていく。
時ほぼ同じころ氏直に松田憲秀が耳打ちをした。「安房守の奴はきっとわれらの決め事に反して兵を出しますぞ。こうした大きな戦いに関しては小さな出来事が勝敗を決めることがありますれば配下の目配りは大事ですぞ、お気をつけなされ」齢三十を超えたとはいえ、この北条は評定衆の意見が強く、また父氏政も隠居をして江戸城に居れども氏直に指示をしているのが現実。こうして古老の家臣にそう言われると不安が湧き上がる。「憲秀、どのようにすればよいであろう?」名前の通り素直な氏直は顔色がすぐに表れる。「まずは動きの速い出羽守を抑えることかと。さっそく密偵として三増から甲州を廻らせませ。出羽の軍勢は4軍です、4か所を探れと仰ればカタが付くでございましょう」
こうして北条氏による奇襲攻撃と徳川の北条加担は水の泡に消えた。
そして松田憲秀はひそかに堀秀政宛の書状を認めた。
内府殿が秀吉につくとなれば我ら北条に勝ち目はございません。殿のお命並びに領土の確保をお願いしたい旨を秘密裏に殿下に願い出てもらえぬか…、と。


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(桜の馬場は大森時代の城址と言われている。聖地がある程度で来ていたので北条時代もここには大勢の兵を置いておける場所となったのだろう。城下張り出しという名の場所は今は宅地開発も進み素敵な住宅が立ち並ぶ中、史跡がある。共生を望みたい。)

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(城下張り出しから堤を登る。城の後方に小田原の海が臨める。隙間ないほど軍船が並んでいたことだろう。それにしても総構えから城がこんなに遠くに見えることから大きさが分かるというものだ。)

ブラサイジョーものがたり(episode4 堅固な城知れる)

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(幸田門の名前は家臣の武将の苗字。城の直近を守る要の武将。ここまで上杉謙信は攻め込んだと言われている。その時幸田氏はどうしたのか?戦ったのか?家を捨てて城に籠城したのか?調べてみたい。)

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(幸田門にも土塁が築かれた。これは上記地図の上の赤い矢印のあたり。高さが分かる。水色は濠、小田原郵便局本局から旭丘高校までは濠の中だった)

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(上杉の軍勢がここまで来たことに驚嘆する。越後の地から北条支配下の群馬、埼玉、東京を通って神奈川の一番南の城。もしかしたら北條の本丸が埼玉あたりでもう少し攻めやすかったら落ちていたかもしれない、と思うと上杉郡の強さがわかり、また北条は北からの守りが堅固であったこともわかる。)


1590年梅のかおる頃、雪解けを待って各地を出発した軍勢が三々五々駿河郷の黄瀬川周辺に陣幕を張った。秀吉が大挙して攻めてくる、と言う情報はすぐさま小田原城に伝わり、関東近郊から主だった武将が集められた。氏邦が口火を切った。「ここは秀吉が沼津に来る前に攻め入りましょう。なに駿河は内府殿の地元、内府殿は我らのお味方だった方、関東に北条ありの気迫を示せば、秀吉とはいえ敵か味方かわからない徳川領を通過できますまい。下手をすれば両側から攻められ禿鼠、いや、袋の鼠となることぐらいよく知っているでしょう」
それに異論をはさむのは松田憲秀。「いやいや待たれい。永禄の上杉の猛攻をこらえた小田原城の堅さを忘れなさったか。あの天下に名だたる上杉の11万もの軍勢を追い返したのですぞ。しかもその後も各城とも普請を続けており、秀吉の軍勢がいくら多くとも足柄、山中、韮山の城を超えて来れはしますまい」
「いや、憲秀殿、上杉の兵は約1年わが北条の領土の中に居り兵糧も少なくなり帰還せざるを得なくなったのをお忘れではなかろう」
「何を言うか、上杉が1年なら、今度はその2倍、3倍の備えをしようぞ。500万石の領土と領民、それくらいは容易いじゃわい。」
世にいう小田原評定だが、得てすれば年上の意見は通りやすい。ましてや松田憲秀は幼い時から氏政や氏直を教育してきた。先代の氏康時代からの家臣の意見が最終的に取り入れられた。

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(小田原城から北にある小田原駅を臨む。件の幸田門は城の北東、この写真の右の方だ)

ブラサイジョーものがたり(episode3 堀秀政死す)

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(写真はともに早川口。二重外張という濠と土塁を組みして作った、2重であるのはやはり秀吉軍は西から来ることを想定したからか)

実は史実に残っている合戦のほかに人知れぬ戦いが5月にもあった。
「殿下、一大事でございます。」湯本早雲寺の秀吉のもとに堀政秀の陣より使いが入った。「主(あるじ)、堀秀政、討死でございます。」
堀秀政は織田信長の寵愛を受けた小姓から秀吉の臣下となった武将。齢38歳。「名人左衛門佐」とあだ名で呼ばれ、秀吉は蒲生氏郷とともに最も信頼を置いた武将だった。「なに!」と言葉を発したまま秀吉は凍りついたように動きを止めた。
「して、相手は?」絞り出すような声でそう言うと、堀家臣は話を続けた。「隣で陣を張っております長谷川秀一殿、敵の氏照の挑発に乗りまして数騎馬ほどで早川口へ。それを見ておりました主(あるじ)は、長谷川殿をお助けしようと後を追い、銃弾に倒れました。無念でございます。」長谷川秀一は堀秀政と共に信長の寵愛を受けた小姓から武将になり、そのまま秀吉の配下になった堀秀政と気心の知れあう武将だった。それ故に目の前で弓矢の餌食になるのは忍びなかったのだろう。しかし皮肉にも銃弾に倒れたのは堀秀政の方だった。

今度の小田原攻めは黒田官兵衛に策を練らせた。「戦 なさるな、されば北条軍は自滅いたします。」と官兵衛は言った。その言葉を信じ、石田治部には忍城は水攻めにしろと命じた。だが、戦わずしてでは小城の一つすら落せていない。そして、小田原を囲む兵にも戦を仕掛けるなと伝えた。しかしそれがこうした結果になった。いかに攻めないことが難しいか・・・。
秀吉は思慮した。まずい、小田原城を囲み1ヶ月。各武将も恩賞もなく、自国からの持ち出しのままここにとどめておくのがそろそろ厳しくなった時に堀秀政の戦死を伝え、このままの包囲を続けることを命じたら一気に士気が落ちてしまう。その不満が逆に儂の方に向いてしまう。戦いを生業としている武士に戦わずに城を囲んでいろと言う方が所詮無理な相談・・・。
「誰か官兵衛を呼べ。」
官兵衛は事の次第を聞き、しばらく押し黙った後「殿下、堀殿は病でみまかられたのでございます。」と何事もないように告げた。「武将たるもの戦地ではなく、また家族もいないこのような田舎で一人病で死んでいかざるを得ないとはいかに無念でありましたでしょうな。それも北条が殿下に従わないゆえ、この上は堀殿の無念を晴らさざるを得ませんな。」
海岸付近の早川口での出来事は戒厳令が敷かれ病死となったが、城内の北条は歓喜に沸いた。さすがは氏照殿、この戦勝てるぞ!
しかしこの歴史の闇に葬られた合戦が小田原評定に拍車をかけ、氏規らの和解の案を門外漢とさせた。
そしてもう一人湧いている本丸の中で心なしか青ざめて堅い顔をしている男がいた。松田憲秀その人である。この漢もまた戦わず被害者を出さず収めようと密かに翻弄していた。その交渉相手が堀秀政だったのである。

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(戦国時代の遺構のまま現在に至っていることが見える。)

ブラサイジョーものがたり(episode2 久野村の戦い)

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「しかし殿、見事な数の敵兵ですな。これだけの塀に囲まれれば乱破者ですら行き来は出来ますまい。」「いや、そうじゃない、これだけの数で囲めば気を許すというものよ、今は亡き大殿の氏康公が河越で戦った時は、わずか3千の兵力で8万の大軍を破ったというものよ。それも相手の油断と福島勝広公が単騎で8万もの大軍を掻き分け河越城内に奇襲の連絡が出来たからよ。どうじゃ一つ蒲生に一泡ふかしてみぬか。」「おお、坂東武者の心意気を見せたいものですな。」「この長雨で腕も錆びるところでしたぞ」7月に入り蒸した気候にいら立ち始めた氏房の陣内ではそんな話が出された。北条の勢の4倍の敵兵とは小競り合いはあるものの戦はないまま2か月もの日が経っていた。

敵襲だ!7月2日夜も明けきらぬ頃、今の市役所付近に陣を張っていた蒲生軍は混乱に陥った。
「殿を、早く殿をお守りするのじゃ。」
10万の部下があったらどの武将が一番強いか?と言う問いに秀吉も家康はこの蒲生氏郷の名をあげた、そんな蒲生軍が混乱をきたしている。元来この荻窪の地は地盤が軟らかい。周囲の田を耕す農民は、ここじゃあ牛馬の耕作は家畜の腹まで埋まっちまってできねぇ、という。そうでなくても梅雨の雨だ。混乱の兵は足をとられて手に刀や槍をとる間もなく北条軍の刃にかかって死体の山を築くばかりだ。
「明るくなってきた、法螺を吹け」「ひけぃ、ひけぃ。」蒲生陣営の騒ぎに隣の陣の羽柴秀勝のやぐらの兵が気が付いた。家族びいきの秀吉は秀勝は小田原城からはるか離れた安全な久野総世寺に置き、荻窪の山には見張りを置かしているだけだった。
今頃は、秀勝の休んでいる久野総世寺に連絡が行っているころだろう。となれば長居は無用。多勢に無勢、奇襲は機を誤れば不利になる、と久野虎口から兵を引き上げた。「少しは気持ちが晴れましたな」やぐらに戻った氏房軍の兵の顔は興奮さめやらぬ。梅雨はあけたかもしれない、強い太陽が惨劇の現場を焦がし始めた。

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(久野虎口から小田原城総構えの岩槻台を臨む)

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(NTT東日本谷津ビルの後ろは確かに巨大な土塁、総構であることがわかる)

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(小田急が通る前はここも堤が築かれていたのだろうか?ばっさり切り取られているが、大雄山線踏切際の新光明寺は明らかに高台なので続いていたのだろう)

ブラサイジョーものがたり(episode1 謀略)

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「『名胡桃城の鈴木重則を偽の書簡で城から出しておいてその間にのっとれ』と言う偽の書簡を出すのです。なに猪俣ごときの目をごまかす能筆家なんぞごまんとおりますわい。」
果たして氏政の偽の花押と気づかず猪俣邦憲は秀吉の思惑通り名胡桃城を攻め落とし、そして今日こうして小田原城は20万もの軍勢に囲まれることになった。小田原城総構えの周囲は20km弱。そこに20万の大軍であるから1kmあたり1万人…立って半畳寝て一畳と言う言葉があるが、1人のスペースを1㎡と仮定しても奥行きが10mにもならなければならない、いや旗印や武具などの保管場所も飯を炊き食べる場所も含めれば奥行きは数十mにも及んでびっしりの兵がいるのであろう、そんな数の武士が興奮気味に小田原城を睨みつけている計算だ。夜になればこうこうと燃ゆる松明の帯が、逆に籠城の兵を出向けなくする巨大なオレンジ色の濠のように城を囲んでいる。それは戦国の世でもまれにみる兵力で、さすがの氏政も四方を見まわしながら天守でほぞをかむしかない。

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(小田原城と二宮神社の間の濠。小峰橋(お茶坪橋)の濠の延長で昔は水が張っていたのかも)

ブラサイジョーものがたり(プロローグ)

4月に実施の予定だったブラサイジョーは悪天候のため延期。そして5月15日に決まりました。

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さて、ブラサージョーの企画に賛同してくれるお仲間からも「小田原攻めって史実は知っているけれど詳しいことはよく知らない」と言う声を聞いたりします。
確かに、歴史の教科書を紐解いても、四国九州を平定した秀吉は、まだ配下になっていない関東の北条や東北の伊達に向かって上洛を求めるが、北条はそれに従わず、そればかりか真田領下の名胡桃城を攻略したため、秀吉は大軍を持って小田原攻めを決意する。北条は籠城戦で対抗をするが、一夜城の建設、配下の武将の意見がまとまらず(小田原評定)裏切るものが出たため降伏を申し出、氏政、氏照らの切腹をもって北条氏は滅んだ。程度の数行程度で、1つの時代であった戦国時代の終結を描いています。

戦う武将の数は、関ヶ原の合戦や大阪の陣までとはいかなくても引け目を取らない大きな戦いであったにもかかわらず、また日数は数時間の関ヶ原の合戦とは比にもならない数か月を要した戦いであったにもかかわらず数行で終わってしまうのは、きっと籠城戦で、大きな合戦もなかったことがその要因だったと思います。

しかし関ヶ原の合戦を見ても、各武将の思いや考えがあり、一つ間違えれば西軍が勝ったかもしれない訳で、小田原に詰めた各武将も守る北条方武将も命とお家のために熟考した書物に残らない苦悩があったのだと思います。
歴史に出てこない、若しくは歴史書を残した「勝ち組」に抹殺された各人が「その時」どうしたのだろう?そんな空想を史実になぞらえて・・・いや史実を無視し脳内妄想で書いてみました。
名づけて「ブラサイジョーものがたり」
ブラサイジョーには害になっても益はない素人の書いたおそまつなエピソード集。お楽しみくだされば幸いです。

ところで話は変わりますが、小田原城がリニューアルオープン(^_^)/

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宗教は違えども、一番上に神を祀ってあることはなんだかとてもうれしい(笑)

そしてこの日の入場料すべてと場内のカンパ箱の募金は昨月大きな災害にあった熊本城の復興に送られました。
245万8160円・・・S館長の英断にエールを送ります。

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5乾2湿

親しい友と一緒にフィールドで遊ぶことは僕の楽しみの一つ。
でもフィールドで遊ぶという事はそれなりのリスクも存在する。それは天気。
すでにBlogにUPしてある通り、17日はブラサイジョーを行う(予定)

でも、週間天気予報を見ると、気象庁もyahoo!も曇り時々(または一部)雨、という企画者としては何とも一番決めかねる天気予報。
そんな訳でいくつかの気象予報士さんのSiteをネットサーフィン。

で図入りで一番わかりやすかったのが

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増田雅昭さんのSite
いや、それもそうだけれど選んだ理由は一番雨のエリアが西寄りだったから(笑)

関東学院大のテニスコートから荻窪中に降りる道はかなりの急坂、ぽつりとでも来たらルートの変更も考えないといけないな。

冬から春にかけては三寒四温とか言いますが、この春の陽気は五乾二湿、週に二日くらいは雨降りだなぁ~。
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