聖霊降臨

2017年5月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章44-53節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


イエスの復活とは
1.イエスの死後、自分もイエスの仲間だと言われて制裁を受けるのを怖がってバラバラになった。
2.復活のイエスに出会うことで自分が信じてついてきたイエスのが正しいことを再確認し、エルサレムに戻った
3.そこで仲間と出会うが、仲間と会っても共に祈りを合わせる事しかできなかった。

その直後の場面がペンテコステ、この日の出来事。
いまいち勇気の出ない弟子たちの背中を押してくれる霊なる存在。
クリスチャンでない友人に昔言われたことがあるのは、「三位一体の神と言うけれど、神とキリストはわかるけれど聖霊ってなんだ?」と言う疑問符。
明確にこういうものだと伝えられないもどかしさ。でもそれは多くのクリスチャンも抱えているのかもしれません。
クリスマスは、人を救うための「神」の祝日。
イースターは、神と同等の神の子である事を祝う「イエス」の祝日。
それに比べて、ペンテコステの祝いは、祝い自身も祝いの内容も承知が薄いのが先の友人の発言とダブります。

しかしイエスの死後…特に復活のイエスに出会えない人たちは、この世で生きる中では何度も高い壁にぶつかります。深い溝のある谷を前にビビります。その時「勇気を与えてください」という祈りを僕らはします。その祈りが聞き入れられる、それは「成功」ではなく聖霊が伴ってくれることではないでしょうか?
とかく「もうだめだ」と思いヘタレてしまうかもしれませんが、あとで考えると決して限界でなかった、もう少し頑張ればよかった、と言う事が多々あります。本当にBestを尽くしたのであれば納得いきます。そのBestを尽くそうとしてヘタレてしまう自分を叱咤激励してくれる陰なる力が聖霊ではないでしょう。自分で持っている力ではなく、聖霊の力を借りて苦難にも立ち向かえることこそが、聖霊だと思います。
その力に押し出されて外に飛び出して宣教が出来た。それ故に教会の誕生日と言われる所以でしょう。

今日の説教とは少し違う話ですが、以前からこの50日と言う数字が意味することを思っています。
50=49+1
仏教でも七七日(しじゅくにち)の法要をします。この日を境にご霊前がご仏前になります。
旧約聖書レビ記23章16節にも「七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。」とあります。
ペンテコステは、イエスので時代だけではなく紀元前1000年の時代にも50日と言う数字が出てきます。エジプトを逃げ出し荒野をさまよう最初の50日はそれこそ混乱の日だったでしょう。何をどうしていいのかもわからない手探りの日であり、何の食材も道具もない日々。そこには不安しかなかったのでしょう。
仏教のそれもそうなのかもしれません。親しい人の死は何よりの不安とストレス。しかし、残されたものも現実を受け入れられるのは50日と言う日数なのかもしれません。
数字が旅をし、新しい地で教えとなって行ったのか、それとも50日と言う日数に人の記憶と関係する何かがあるのかはわかりませんが、50日の困窮(ペンテコステ)は忘れられない日として感謝をする日になったことも確かです。

主の証人として

2017年5月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章44-53節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



本田哲郎神父の「釜ヶ崎と福音」を読み終えて、その中に
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10章40-42)
の最初の「あなたがた」は誰を指しているのか!? これを自分のように思い、それ故に等しく隣人との共生を説きますが、ここは十二弟子、つまりは底辺層で生きている人を受け入れる人は幸いな人と言う意味だと記しています。
とかく、聖書を読むとき自分に置き換えたり、イエスのみあとを歩くためにどうすればいいか?を考えます。
でも、そのまま読んではいけない。自分はそこまで困窮していないだろう、もっと大変な人のために隣人を受け入れる立場なことを自覚せよ、という時もあるのだ、と頭に刻まれた中での今日の説教。


エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。と書かれています。文字通りこのあなたがたは私たちの事ではないですが、しかし私たちの事でもあります。上記のマタイによる福音書とは違い、イエスに会ったことのない私たちも証人としてその歩みと栄光を言い表すことができます。

ではイエスの栄光を言い表すとは何か?が問題になります。
いろいろな教会の中で、牧師の説教で、足が悪くて車いすで来た人が、教会で聖霊に触れ、帰る時には歩いて帰れるようになりました。ハレルヤ。と言う内容の説教があります。
体調がよくなる場面は聖書の中にたくさん書かれ、そこに希望を持ちますが、神の愛は肉体の変化がすべてでしょうか?肉体がよくなったからキリスト教は素晴らしいのでしょうか?
そうではないでしょう。

イエスは何をしたか?それは癒しをしました。癒しとは一番近い日本語は「手あて」だと言われます。手をそっと触れる、そのぬくもりは、決して完治する治療は出来なくても、心がほっとできるものだと言います。
そしてもう一つ「憐れんで」と言う言葉。これは沖縄の肝苦しい、向き合う言葉に重なります。
結果を求めるのではない、とっさに隣人と向き合うこと、これがイエスの証人としての生き方でしょう。

この週僕はがんのソウルメイトの病状の悪化を聞きました。わがことのように苦しい話です。そしてでも何もできない自分が不甲斐ないです。
そんな苦しい状態の時、なにもできないけれど、神に委ねること祈ることが一番の僕らのすべきことで出来ることです。イエスが出会った人に寄り添ったように、僕も祈ることで友人に寄り添いたいです。それを促すのが今日の説教だったのかもしれません。

続きを読む

信仰によって義とされる

2017年5月21日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章21-31節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。



宗教改革をしたルターは大学で法律を習ったものの、ある日野原で雷にあたり死の恐怖を味わい、この世での生涯は自分の意志ではまかりならないものがあると思い、アウグスティヌス派の修道院にはいり極限をめざし修行の日々を過ごします。がどんなに禁欲しても自分の思う域に達しなかったそうです。

作家の鯨統一郎氏の作品の中で仏陀は悟りをひらけなかったと書いていたのを思い出します。
ルターもそうですが、頑張った要因がもしかしたら死後天国(神の御許)に行けることを求める、つまりは悟りではなく自分のために頑張っているのだという自分の気持ちがほんのわずかでも生まれたら、そこには悟りが開けないことになるでしょう。
己の未来のために頑張るのは、別段誰でもしているのです。週末どこか遊びに行くために働くのと何ら変わりがないと気がつけばその修行の意味を疑問に感じてしまうものでしょう。

先輩友人の笹村さんは曹洞宗の僧侶でもあります。この宗派は死後の存在を認めないそうで、そうであればルターや仏陀の悟りの苦しみはなかったかもしれません。ある意味、未来が無い分悟りを開くには開きやすいかもしれませんが、でも僕はその希望が無いことに飛び込む勇気はありません。僕にとっては死して神のもとに行ける希望こそが自堕落にならない生活の源なのです。
鯨氏は悟りをひらけなかったという仏陀ですが、本当はどうだかわかりません。でもルターは聖書に書かれたことは律法を守ることで救われるのではなく、神の愛でこそ救われるものであることに気が付きます。
どんなに頑張っても完璧にはなれません。それは聖書の中に「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)とある通り、僕らはいくら頑張っても、妬んだり怒ったり恨んだり、不親切をしたり、見て見ぬふりをしてしまうものです。

そんな人間に対して神は、人を義とすることで神は正しくなる、と言うのです。言い換えれば、神は人を義とすることの望んでいるのです。信仰告白で言う『神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。』なのです。

不完全な人間を義とする神の恵み、だから救われる。これは、一つの考え方です。でもその考え方に「賭ける」ことが信仰ではないでしょうか。

それを僕らは些細なことで他人を見下そうとしています。目くそ鼻くそを笑う、と言う喩えは、今僕が活動している野宿者支援にもかかわります。
慶応大学の井手教授は、この問題は生活が苦しい中級階級の人が、生活保護を利用している人に対して「俺も苦しいのに税金を使ってもらえないのに、あいつらは税金を使ってずるい」と言う妬みが根底にあるのではないか?と分析されましたが、まさに僕もその通りに思い、そうした思いは形は違えども僕の中にもあるでしょう。他人ばかりがいい思いをすればいい気持ちになれないものだと思います。
教会もそうではないのではないでしょうか? 教会に毎週行っているとか、洗礼を受けたとか、様々なご奉仕をしているとか、そんなことで「中流階級」のようなオーラを出してはいないでしょうか?無言のうちに生活保護利用者を見下すように「あいつらはずるい」と来ない人や奉仕をしない人を非難してはいないでしょうか?

しかし神はすでにすべての人を救った、と完了形で語ります。それは信じようが信じなかろうが同じです。どういう人生を送って洋画関係ありません。
一点違うのは、信じていない人は救われていながらも救われるのか不安に思っている人で、信じている人は救われたんだと喜びにあふれている人です。

旧約のアブラハムも小さな一部族の長に過ぎませんでした。イエスの母マリアも一庶民の少女に過ぎませんでした。でも神の言葉に信じますと答え、信じて祝福を受けました。無条件の祝福の訪れを喜び以て待ちながら生きたいものです。

神の愛の実現

2017年5月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 2章1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。



何度も説教で聞いている「罪=的外れ」
「大丈夫」とは、もともとは「立派な男子」を意味する言葉ですが、今になっては「問題ない」と言う意味に変わりました。そのように時代で意味が変わる言葉はたくさんあり、「罪」も的外れから非行・法違反に変わりました。
でも、本来は人の決めたものに対してではなく、そこには神と言う絶対的な存在に従わないことこそが「罪」であります。
絶対的存在と言う部分で言えば、初めて映画に出演する俳優さんが監督を無視して演技をして自分の演技が最高と勝手に演じることのようなもので、それ故に「的外れ」な演技と言われちゃうことと同じなのでしょう。

イエスは弁護者だと言います。弁護とは何とかして助けてあげようとする人です。つまりは「的外れ」な監督の指示に従わない俳優さんのように、神の示した生き方に従わない人間と神の間を取り持つ存在なのです。

これも何度も書いています。聖書をどんどん凝縮していくと「神を愛し、隣人を愛し」なさい。につきつめられるでしょう。
そして僕らはそれに対して「アーメン(その通り)」と言いながらも、すぐにその「アーメン」を忘れ、勝手な人生を送ります。
長井牧師はそういう時に「的外れ」をしやすいと言います。
出来なかったという反省と自己嫌悪。

しかし聖書はそれでも神から導かれ守られているという喜びと感謝を教えてくれる本です。

敬虔なクリスチャンと言う言葉があります。
敬虔とはなんなのでしょう? 僕はその言葉を聞く時に思い出すのは放蕩息子の喩えです。
放蕩の限りをつくし一文無しになった時、あっ神の元に戻ろう、と思う心。
どうしてもそこまで放蕩の限りをしつくしたら恥ずかしい、申し訳ないと神のもとには帰れないでしょうけれど、帰ることこそが敬虔な信仰なのではないでしょうか?

弁護者イエスがいます。
そして神はあなたを愛しています。放蕩の限りを尽くしている頃飢饉が息子の行った地方であると聞き不安に思い、そしてもしかしたら帰るのではないかと毎日小高い山の上から探し求め、その通り帰って来た瞬間に抱きしめてくれる存在です。
愛していると言ってくれることに背を向ける必要はありません。申し訳ないと思うこともありません。
「ほめて伸ばす」と言う言葉に似ています。どんな人生をしていても励ましてくれる神。
励まされて伸びたいです。

正しい者はいない

2017年5月7日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章9-20節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、 彼らは舌で人を欺き、 その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。



先週からの続きになります今日の箇所、ユダヤ人もギリシア人(異邦人)も神の前で罪を犯し神の怒りを買った民族であると言います。民族と言うと僕ら日本人は特に他の日本人に押し付けて自分は関係ないと言いやすい観を感じますので、ここでは人と言うことにします。

先週の説教でもお話がありましたが、ユダヤ人は神に「選ばれた」民族と異邦人を卑下していました。そうしたユダヤ人の一人に、今日のローマの信徒への手紙を記したパウロがいます。
フィリピの信徒への手紙3章5節に、
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
と記しているように、選民の中でなお選ばれたものと言う自負。そんなパウロが神の前で正しくないと言います。
ですから他のユダヤ人たちもグゥの音が出ません。

正しいものは何か?をパウロは実体験を含めて語ります。前述のフィリピの信徒への手紙の直後、
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

神の座にありながら遜(へりくだ)って人となり、その遜った人生を示した生き方にパウロは「義」と言います。
人に仕える生き方、つまり特権と言う利権ではなく義務が生じたというのです。
「特権」と言って見下すのは決して義務ではなく、神の啓示に逆らった生き方だというのです。

3・11の時、世界中が感動をしたのは報道された被害者たちの共生でした。すべてを失った、第三者ではなくても弱者とみなす環境にありながら支え合って生きる姿に素晴らしさを感じたものです。連帯・分かち合いこそが神の啓示でしょう。それをその啓示から僕ら人間は見せてもらい感激をしたのです。

しかし感動は消えやすいものです。
イエスの弟子として最初から御後を歩いたシモンペテロに関する記事がルカによる福音書5:4-にあります。
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

イエスの奇跡を何度も見ていたはず、つまりはイエスが網を下せ、と言えばそこには魚がいるという意味であることを知りながら、無理ですよ、でもお言葉ですから致し方ありません、と言う投げやりな態度。

さまざまな事象からふりかえっても神の前で僕らは罪を犯しています。
「罪」と言うと、犯罪のように思いますが、神に従わないことが罪です。原語で言うと「的外れ」と言う意味です。
大きな「罪」を見て、ああ自分のやったことは些細な間違いだった、と言うかもしれません。
しかし牧師は語ります。
黒い壁に黒いしみがついても目立ちません。灰色の壁でもそんなに目立たないかもしれません。でも白い壁なら黒いしみは目立ちます。
罪は前提である壁の色、つまりは自分の立ち位置によって逃げることもできるのでしょう。
日本にも目くそ鼻くそを笑う、と言うことわざがあります。
自分の立ち位置を弁(わきま)えず、他人を誹謗、蔑視しても意味がありません。自分も罪人です、と言うことを自覚した上で、そんな自分をも愛して下さる神様。なら、他人を愛す神でもあります。
感謝をもって、神に選ばれた人であればこそ隣人にも仕えたいものです。

神の真実

2017年4月30日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。


日ユ同祖論、日本人とユダヤ人は文化的に似ているところがあるのは、同じ先祖だからだという考え方があります。が、よくよくその考え方の意見を聞けば、お互い優秀な民族と言う考えにたどり着かせるように見えてなりません。

ユダヤ人は優れているのはどこか? と言うことは日ユ同祖論者の言葉を借りれば、日本人の優れたところにも匹敵致します。
パウロはユダヤ人の優れたところは『神の言葉を委ねられた』点だと語るのです。
キリスト教は『啓示宗教』と中田牧師は語ります。人間の側から神を知ることはできない、と。よしんばそうしたところで、自分の都合に合わせた「神の考え」を本当の神の考えのように思いこむだけだと。
だから神は自らの意志を「何か」を通じて人間にお示しになる。その役割を仰せつかったのがユダヤ人だということです。
だからユダヤ人は神に忠実に生きなければならないのですが、何かのたびに他の神々を見れば浮気をしその神々を拝む…。それに対してユダヤの神は立ち返るように啓示をします。が、滅ぼすこともなく、預言者を通じ「あなたがたが大切」と言うメッセージを送ってくれています。
イエスの時代でも神に頼らず王に頼り、拝金・物質主義に陥りました。イエスを通じて悔い改めを告げられますが、神のみに立ち返ることなくイエスやその弟子ステファノの死と言う局面を迎えます。

イエスより1000年ほど前ダビデ王の時代もそうでした。ダビデ王は、部下の妻に横恋慕し、部下を戦前に送り殺し、その妻を手に入れます。が預言者を通してその罪を神から啓示され、悔い改めます。
心からの懺悔に神は赦し真実を得るのです。真実とは何か? それは神のみにより頼めば失望に終わらない、と言うのが元の意味です。

時代があちこち飛びましたが、神と人の経緯はいつも一緒です。人が神を裏切り悔い改めるように神から啓示され、従ったり従わなかったり…。
神の言葉に委ねられた…。これは他人より偉いとか選民と威張れることではありません。それはユダヤ人も日本人もみんな同じです。神との関係をユダヤの民がすることで他人が見れるようにしたただそれだけのことです。優れているから選ばれたのではなく、もしかしたらだめだから反面教師のように選ばれたのかもしれません。

今の日本を見ているとそう思います。日ユ同祖かどうかはわかりませんが、日本の政治もイスラエルの政治も何も威張れるような優れたことはしていません。戦争の道を進み、手におえない原発事故を犯したにもかかわらず神を恐れず拝金主義の中俣再稼働をし、国民の多くは生活弱者と呼ばれながらも助け合うよりも自分より弱者の受ける生活保護にクレームをつける。
ただ、今から2000年前、3000年前、イスラエルにはきちんと神により頼んだ人がいたことは事実です。間違いを悔い改めた人がいたことも事実です。
1000年後、神の言葉に従ったことが優れた点だと言われるように真摯に聖書に従いたいものです。

4月27日のパトビラ(№975 - シンポジウムにご参加を -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


ジャンパー問題では「人権派」の有識者が意見をまとめ小田原市に18ページにもわたる提言書を提出しました。それを受け小田原市は市民にその提言内容を公表し、市の方針を説明するシンポジウムを下記要領で開催することになりました。
日にち:4月30日(日曜日)
時間:午後2時~3時45分
場所:市民会館大ホール
基調講演 『「私たち」の再生~人間の誇りを大事にする小田原~』井手英策(検討委員会座長)
パネルディスカッション  コーディネーター:井手英策、パネラー:和久井みちる・渡辺潤・加藤憲一(市長)

入場は無料です。話を聞いて疑問な点、またここは変えてほしい、などがありましたら5月4日にお伺いした時にでもお聞かせください。夏前には福祉課との意見交換会をする予定です。その時にでも市側に伝えさせていただきます。
この問題に対して有識者の方々も1年後の実績を見極めることで小田原市の取り組みを評価したい、と言っています。有識者の方に小田原市よく頑張った!と言ってもらうためには、市に任せるのではなく自分たちも意見を伝えていきたいと思います。


生活弱者とは「選択の自由」が無い人だと言われました。
そう言う意味では、生活保護を受けている人、受けたくても受けられない人、保護ではない形で労働と言う形でできるだけ生きていきたいが厳しい人、はそれぞれみんな弱者でしょう。
そうした弱者が生きやすい町にするためには、政策を弱者が見聞きし、自分の意見を真摯に発し、それを救い上げるという作業が大事になるでしょう。
と言っても、1日1生一生懸命生きている人にはその時間を作り出すことも難しいかもしれませんが、できる限り参加してくれるとうれしいものです。

イエスの生(せい)を記念する教会

2017年4月23日、横浜市中区にありますなか伝道所で礼拝を守りました。同教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章13-35節。表記のタイトルの説教を北口沙弥香牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


20170423-01
(個人名にはモザイクをかけさえてもらいました)

教会によって礼拝の方法が少しずつ違います。なか伝道所の礼拝の特徴の一つは、「説教」ではなく「使信」と称し、メッセージの後に会衆の質疑やインプレッションの共有をする点です。
この日もまず北口牧師よりメッセージを受けました。

弟子たちは「暗い顔」をしていた、つまり肉体的にも精神的にもヘトヘトになりながら失意の元60スタディオン(11km)・・・だから3時間ほどの道のりを歩いて居た訳です。普通ならこの倍以上の道を歩くのですから、スピードが遅かったのか、出発時間が遅かったのかどちらかなのでしょう。それでも暗い顔をしていた、ことに注視しなければいけないのでしょう。
同時に行間を読め、と言う考えもあります。イエスが「先を急いで」いたのを引きとめた、のはもう少し自分たちのスキルに会った十分な説明を2人が欲したのかも知れません。同じレベルまでイエスは遜って合わせ、懇切丁寧に話したゆえに2人は十分納得し、熱意が戻りエルサレムに踵を返したとも読めます。

この話はルカによる福音書にしかないと北口牧師は語ります。ルカは4福音書一番最後にかかれた福音書の記載。どこまでが見聞きしたことなのか、どこからがルカが手を加えたものかは明確にはわかりませんが、ルカは、イエスがパンを感謝し裂いたところで、弟子たちはイエスだと分かりイエスの姿が見えなくなった、と書いています。
このルカのオリジナルな記事は、聖餐式を通じてイエスに出会ったことを強調しています。
そしてそれを大事にした後世の教会はもっとデフォルメして教会こそがイエスに出会える場所=教会でしかイエスに出会えないと形を変えていきます。
しかし聖餐式と言う儀式が正しいのか?は、イエスのその前の5000人の給食の記事や最後の晩餐の記事のような聖餐の場面が、儀式の聖餐ではなくともに食事をする聖餐の場面から疑問視されます。2000年経った今イエスの居場所は本当にピンポイントな場所にまで狭められているわけです。
イエスは週一度の数時間の礼拝と言う非日常の場ではなく、いつでもどこでも隣に居てくれるという日常の存在なのです。


と言うようなメッセージの感想を受けた話のあと、会衆からいくつかの質疑とインプレッションがありました。その中で1つ。
パンを裂いた後姿が見えなくなった、と言うのは霊的なものか? 疑似的な象徴か? というのがありました。
北口先生や渡辺英俊先生から、また他の信徒からお考えが発言されました。
その中で、精神的な病や障碍を抱えている人の中には幻視体験をする人がいる。病や障碍を持った人は、それによって非情な苦しみを負っているが、そうした中、強烈な出来事にであったあと、心や頭に痛烈な影響があると幻視が見れることがあり、ご本人はそれが幻視か真実かの判別が出来ない、と言う話がでました。
先週小田原教会の説教の中でも、ヘタレな弟子たちが挙って殉教の死を遂げるほどの人生改革があったという話がありました。
イエスの復活に出会う、ことは、どういう事なのかは僕らの能力では分析できかねることなのかもしれませんが、殉教の死を厭わない勇気が与えられるほど大きな出来事だとしたら、残念ながら僕はまだ復活のイエスに出会えていないのかもしれません。が、逆に言えば出会えるその日をワクワクしながら生きれるということでしょう。
トルストイの「靴屋のマルチン」は「明日お前に会いに行くよ」と言う神の声にわくわくしながらの一日を過ごしましたが、あと何年(何十年)のこの世での生の中、復活のイエスにお会いできるのを楽しみにしながら生きたいものです。

20170423-02

さて、礼拝が終われば、愛餐の時。1つのパンを裂いて共に食し、パン以外もマカロニサラダとコーヒーを食させて頂きました。初めてお会いする人たちが多い中、中心にイエス様がいてくれる食卓。楽しいひと時でした。
なか伝道所の皆さん恵みのひと時の共有ありがとうございました。

恐れながらも大いに喜び

2017年4月16日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 28章1-10節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」



『死からの復活』を証明できる人はいないし、逆に説明を受けずに受け入れる人もいません。
パウロもアテネの教会においての記載に『死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。』(使徒言行録17:32)と書いています。
まぁ常識的に突然出会った人がいくら「先生」と呼ばれるような偉大な人でも、「死者の復活」を語ったところでそう簡単に信じることはできないと「イエスの死からの復活」を前提にしている宗教書である聖書にすら書いています。

立証はできませんが証言はあります。今日の箇所もその一つです。
聖書を読む僕らは、復活を前提に物語を読みますが、日曜の朝イエスの墓に出向いた婦人たちはどんな気持ちでいたでしょうか?
心の片隅には、イエスの死が嘘であってほしい。信じられない。もしかしたら、と言う気持ちがあったでしょう。でもその気持ちはあきらめの中で、でも諦めきれないという感情でしょう。
3・11や熊本地震に際して、家族がつぶれた家の下敷きになり2日経ったとか、津波にのみ込まれて1週間経っても、家族は期待を消しきらない、そんなかんじでしょう。非常につらい葛藤・・・。
でも、そうは言いながらも無理だ、と言う諦めも感じています。だから遺体が腐敗して異臭を放っているだろうからと香油をもって出かけたのでしょう。生きている前提なら遺体処理を想定していないでしょう。

しかし彼女らはイエスを見た訳ではありません。「空の墓」を見ただけです。
ですから、当時のローマの人たちは民衆が騒がないように必死に収集を図ります。曰く誰かに遺体を盗まれた。しかしローマ兵が見張っていたはずだし、自分の職務を放棄すればそれなりの罰をうけます。自分の命を懸けて、また家族や親族まで影響が及ぶことがあるかもしれなければ、イエスの遺体を盗む必然性は全くなくなります。

イエスは本当に甦ったのか?と言われればわかりません。が、自分や家族親族までの影響を考えれば、本当に甦ったことはなくはないと言っても過言ではありません。
この後弟子たちの前にもイエスは現れます。それまではイエスの事を知らないと言ったり、もうこのままエルサレムに居ては自分の身が危ないと故郷に帰ろうとした弟子たち。彼らはみなイエスの弟子として殉教の死を遂げます。なぜ弟子たちは急変したのでしょう?
殉教できる勇気(?)はどこから出てきたのでしょう? 人生をひっくり返すような出来事があった故ではないでしょうか?
命を懸けるような人生の衝撃事件。僕は残念ながらまだ出会っていませんが、それだけの大きな出来事には科学では解決できないほどの驚きがあるのかもしれません。
それがただ一人ではなく10余人。すごい事件があったことは推測易いです。10余人が人生を変える事件を今推測したところで推測の域を出ませんからこれ以上言いませんが・・・。

では僕らはイエスの復活、イースターの出来事から何を考えなければならないのでしょうか?

もし誰かが、イエスの復活を科学的に立証したとして、また信じたところで、「ああ、2000年前にそんなことがあったのだね」と感嘆で終わってしまったら…それが自分の人生に何の影響もないものだったら、復活したところで何にも意味がないでしょう。
僕らはイエスの復活からイエスのみあとを歩む必然性を感じます。併せて死に打ち勝ったということを知り不安を払しょくすることです。
イエスの歩みのみあとを歩めば死さえも怖くないということを信じる事が復活の出来事です。

さて、イエスは婦人たちにガリラヤへ行くよう伝えよ、と言います。ガリラヤとはなんでしょう。それは弟子らの故郷、生活の場です。特別な場所でなければイエスに会えないのではなく、毎日の生活の中でイエスはいつも隣に寄り添ってくれています。

イースターおめでとうございます。

僕となられた主

2017年4月13日、洗足木曜日の小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 13章1-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


TVで「モニタリング」と言う番組があります。常識を超えたシチュエーションを隠しカメラでとらえどのような対応をするのか?を観察するという番組です。
もしその番組で、「私はクリスチャンです。今日は聖書で大切に教えている『洗足の木曜日』です。あなたの足を洗わせてくれませんか?」と言ったら何人が足を洗わせてくれるでしょう?100人頼んで99人は訝しげにNoと答えるでしょう。
そして番組では身分を明かして「何故そうなったか?」を聞きますが、そのように聞かれれば、「理由はわかりましたが、足を洗われるのは恥ずかしいです」と答えるのではないでしょうか?
たぶんこのBlogを読まれている人も、次回僕と会った時に「では足を洗わせてください。」と言われたら同様の理由でお断わりになられるでしょう。
なぜ足を洗われるのは恥ずかしいのでしょうか?足を洗われるだけでなく訳もなく人にしてもらうことは心苦しかったりします。

さて、そんなことを頭の片隅に入れて頂き、話をこの最後の晩餐の場面に戻します。通常は食事を前にして、土埃の舞う外から部屋に帰ってきた客人をもてなすために奴隷が足を洗います。が、今日の箇所を読むと食事の最中であります。そんな時にイエスはわざわざ立ち上がって弟子の足を洗おうとしたので弟子たちはことさらびっくりしたのでしょう。普段の作法ではないのです。既に食事の最中なのです、意図があることは弟子にも伝わったでしょう。
そんなシモンペテロとイエスの会話に話を戻したいと思います。
このシモンペテロは一生懸命な純な人ではありますが、知慮に足りなかったり冷静さに掛けたりする愛すべき御仁です。
何か意図があってイエスが自分の足を洗おうとしたので思わずNoを言ったところ、イエスに諌められます。
すると全身をと突拍子もない返しを語ります。
しかしイエスは全身は清いからと語ります。
意味のつかみ難い言葉ですが、長井牧師はヨハネによる福音書1章29-34節
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

イエスの前で神の子であるという証しをしたことによる「聖霊による洗礼」を受けたから清いと言われたと語ります。
水によるバブテスマを弟子たちが皆授かったかどうかは記載がないので不明ですが、「足を洗われる」ことで霊によるバブテスマを受けた事をシンボリックに示したのでしょう。
ではなぜ足を洗うのでしょう?またあなたたちも互いに足を洗い合えと言われたのでしょう?
そこにはただ隣人愛を伝えるだけではなく、当初の足を洗われることが恥ずかしかったり、申し訳なく思ったりするだけでなく、その恥ずかしさを超えるだけの愛の存在が大切だと言いたいのではないでしょうか?
寝たきりの家族の介護、そこには足を洗う行為、洗われる行為は当然のごとく存在します。互いに寝たきりの方サバイバーさんとケアギバーさんになること、そこに恥ずかしさすら超えた愛の本質があるのではないでしょうか?
もしモニタリングで「足を洗ってくれませんか?」だったらもしかしたら半分は洗ってくれるかもしれません。そこにあるのは洗ってあげたという優位性ではないでしょうか?
野宿を余儀なくされている人におにぎりを届ける活動は、もしかしたら”優位性”に浸った行動かもしれないけれど、野宿の人との関係が正常化すると、入れて頂いたコーヒー(野宿の方がなけなしのお金で買ってくれたものでしょう)や家のそばで取れた山草などの漬物をご相伴にあずかりながら会話する中から、より一層親密さが増したりもします。

RFL(リレーフォーライフ)ではサバイバーズラップ(がんと闘っている患者さんのみのウォーク)と共にケアギバーズラップという介護者(家族友人仲間病院関係者)のみがサバイバーの拍手の中歩く時があります。特別な何かを連れ合いにしているわけでもないし、気恥ずかしくて僕は歩いたことがありませんでしたが、これこそ互いに足を洗う関係。大いに堂々と笑顔で歩くことをこの洗足の木曜の出来事は教えているのだと思います。
何もしていないよ、でも共にいる、それこそ互いに愛する姿の基本なのでしょう。「これが愛だ」ではなくよくわからないが最期の時、死をも祝福だと思われる人生を過ごし過ごさせる関係。足を洗うに代表された愛し合う姿を覚えつつ、イースターの良き日を待ち望みたいものです。
プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター