争いから得るもの

2017年3月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 12章22-32節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」



科学が進んだことは特にすばらしい事ばかりではないけれど、物事が少しわかりかければ世の中は大きく変わります。2000年前はこのユダヤ地方だけではなく、わからないことの多くを人智を超えた力と思うことは多分にあったと思います。
21世紀の今日でも子どもたちは本気で妖怪ウォッチやゲゲゲの鬼太郎の中に出てくる妖怪がいると信じているだろうし、僕も子どもの頃見たウルトラQや妖怪人間、どろろと言った特撮やアニメが現実にあるもの(居るもの)と言う感じで怖かったです。心霊写真などの番組はあいもかわらずよくTVで流れているし、そこでは『○○の霊です』などまことしやかに大のおとなが言っています。要は2000年程度の時間の中では科学はさほど進歩しなかったのかも知れません。
ですから、統合失調や心の病などの方を見ても治療法や原因が探れない時代の人は悪霊のなせる業と思ったのかもしれませんし、がんや腫瘍が神経に触れていたがる姿をみても外から患部が見えないので同じように感じたかもしれないと思うのです。

そういう意味では、重要な一つの仕事として『悪魔祓い』はあったのでしょうし、ファリサイ派と言われる人の特権だったのだと思います。
今多くの人が医者に行くようにファリサイ派の人のところに行って調子の悪さを訴え、悪魔を追い出してもらい機嫌よく帰っていく姿は容易に想像できます。
そこにファリサイ派ではないイエスがやってきていとも簡単に病を治してしまった。
『おいおいおい、冗談じゃないよ』『いったい誰に断りをして俺の島で治療をしているんだよ』『好き勝手なことしてもらっちゃあ困るねぇ』
多くの民衆が見ている前で大勢の人が一人の若者に対して手荒なことは出来ないでしょう、何より群衆も奇跡を起こされているのを目撃しています。でも、黙っていたらおまんまの喰い上げだぁ、何かこいつは偽物だとしなければ俺たちの立場が無くなるとファリサイ派の人たちは危機感を覚えたのではないでしょうか?

そして言ったのは、こんな奇跡を起こせるのはお前は悪霊に乗っ取られているからだろう!? 滑稽な言いがかりです。だって自分たちと同じことをしているのを見てお前は悪霊だから出来ると言うのなら、じゃああなたもそうなんですね、と言い返されるのは当然です。
しかし売り言葉に買い言葉のそうした議論をイエスは不毛と思い、滑稽な言いがかりにも真摯に応えているのが今日の箇所です。

先ほど統合失調や目に見えないところの腫瘍などで苦しんでいる人が悪霊に取りつかれたと記しましたが、ただそれだけではなく、穢れの発想が多くあり、血や死体に触るとか、荒野で生活する羊飼いなども悪霊に取りつかれやすかったりします。そうした人は社会コミニュティの中で蔑視されています。もしかしたら極度の蔑視の中、優しい対応ができにくい人もいたかもしれません。
例えば野宿を余儀なくする方の中には、人として優しいけれど片付け事が全くできない人もいます。そうした1点のマイナス部分だけを大きく評価して「だからあいつは駄目なんだ」と言うレッテルを貼られやすい中、イエスの奇跡はそういう偏見・蔑視で見ないことで人として社会の中で生き易くする、それこそが福音であり、神はそうした福音を与えることを自分にもファリサイ派の人にも命じている。福音的な社会を共に作り上げよう、と語っている言葉だと思います。
イエスは誰もが福音、つまり神の愛の中平等に生きて人生を楽しむ権利をもっているのだからそういう社会を作り上げようではないか、と特権階級のファリサイ派の人に語りますが、ファリサイ派の人々は自分の地位を脅かす存在としか思えなかったのでしょう。

しかし、そう読み解く僕らはファリサイ派の人のように気付けているのでしょうか?
三浦綾子さんの「塩狩峠」で主人公は、友人が金を盗み社を追われる事を善きサマリア人の喩えに置き換えいまこそこの怪我をしている旅人を救うサマリア人になるのだとしますが、受け入れてもらえず苦しみ、そして実は自分がけがをして倒れている旅人であり、通りかかるイエスと言う名のサマリア人を待っていることに気付き、信仰を告白します。

今日の箇所も気付いていないファリサイ派の人々にイエスは神の国はあなたたちの所に来ていると言われます。
あなたの仲間たちは何の力によって・・・とも言われています。
僕らは2000年の間に然程進歩もなく、未知なるものに恐怖をし、隣人を疑心で見ながら国際紛争の中で不安に生きています。ファリサイ派の人も今を生きる僕らも変わりません。自分では歩けない傷ついた旅人のようなものです。そこに神の国は来ていると語ってくれる言葉の助け手に勇気をもっていたいです。
気付かない者、傷ついて倒れている者と言う自覚の中、それでも助け手が来ることに感謝をしてこの1週間も過ごしたいものです。

栄光、誉れ、平和

2017年3月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 2章1-11節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。


何度か書いていますが、例えば初詣や願掛けの祈りで、祈りが成就しないと、神も仏もあるものか、ここの神様は願いが叶わないとその神社神仏等々を批評します。それはまさにこの神は成就させてくれるか値踏みをして神を試したが如くです。
僕らはやはり人の祈りの成就ではなく、神の定めた身を歩ませてくれる、と言う部分をただただ感謝する立場であると思うのです。
それでも自分の願いを叶えたい不完全な人同士が生活するために律法が神から与えられました。しかし、律法を守ることを目的とし、根本を忘れ形式の完璧に走ります。
根本とは何か? それは隣人を愛し、神を愛すことです。
安息日は神のための日、だから目の前で交通事故があっても何もしないことがいいという律法原理的なのはただ形式的な律法を守っている姿でしょう。そこには愛がない。
そして自分の祈りの成就だけを考えれば、裁きを生むこともあります。共に同じベクトルを目指していても些細なことで差異が生じると、相手の行動で自分の祈りが成就できないと思ってしまうこともあるでしょう。自分の思いが成し遂げられるのが当たり前と思った所に、神の整えてくれた道を歩むのではなく、自分の望んだ道を歩んでいると思うようになり、それが成し遂げられないと呪うようになる。
パウロは裁きは神に委ねよ、と言います。

そういった話を聞きながら、不完全な僕らはどこまでが神の御心なのか?どこからが自分の傲慢なのか?を思います。「裁き」「批判」「否定」こうした言葉の違いは何か? 「頑な」と「忍耐強い」と言う行動は、どこで見極められるのか? 今頭に浮かんだ考え、口から出た言葉は「善」なのか「悪」なのか?
もちろんYesマンのように、相手の意見に従うだけではいけません。でも、裁きの言葉、頑なな自分の意見を通すための発言もいけないでしょう。
神の憐れみで救いに入れられているという喜びの中主の導きに従った行いが出来ますように、と祈りながらも、さてなかなかその判断は難しいぞ、と言う感じです。

それでも自分の祈りの成就ではなく、無心に神の定めた道と信じて歩めるように、祈り自分と向かい合える時を1日1回でも持てれば、上記の言葉の差のような部分が見えてくるのかもしれません。誤った裁きをしないように心を落ち着かせる時間を忘れないように祈りの時を持ちたいものです。

主の御心はどこに

2017年2月26日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 14章22-36節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。


この出来事の前後を聖書から見てみると、絵画や演劇・映画でも有名な「サロメ」と言う女性。ヘロデ王の娘でもありますが、大宴会の中で見事な舞を踊って見せ王は大いに喜び、何でも褒美をとらせようといった所、母親が(ヘロデとの結婚で律法違反だと言った)洗礼者ヨハネの首がほしいと言うように唆(そそのか)され、王に言ったところ二言は言えぬと断首をされ、盆の上の首を母親が不気味な冷笑をもって見ていると言う話は多くの方がご存知かもしれません。

自分に洗礼を授けてくれた預言者であるヨハネ。それが誰かの褒美として断首と言う形での不当な死刑を受けたことでイエスは大きなショックを受けたことでしょう。
つい先日も北朝鮮の金正男氏がクアラルンプールの空港で暗殺されました。推測の域を出てはいませんが、そこには「恨み」がある訳でもなく、単なる権力争い・保身のために異母兄弟の関与が多分にあったと言われています。
権力争いと言う理由で…しかし見ず知らずの人が殺されることであっても僕らは非常に憤りを感じる訳ですが、ゲームのような感覚で近しい人が殺されることは何にも替えがたい悲しい出来事だったのでしょう。

イエスは舟で町から離れた場所に行き、一人静かに追悼し神に祈ろうと思っていましたが、そこに多くの民衆が押し寄せ、それどころではなくなります。悲しみをこらえながら5000人への給食を分け解散させ、今度こそ一人祈っているところが今日の箇所です。

祈り終わる頃には夜明けになっていました。夜が白々と明ける直前、一番暗い時間です。今と違い電気のない時代、天気はどうだったのかはわかりませんが、煌々とした月夜ではなく、強い風が吹いていたことでしょう。
そんな中、イエスは友である弟子たちが心配になり山から下りてきました。

僕のBlogでは何度も出てくるRFL(リレーフォーライフ)。
1985年にアメリカワシントン州シアトル郊外で、アメリカ対がん協会(ACS)のゴルディー・クラット医師が不安な夜を過ごす患者のために「がんは24時間眠らない」をテーマに階下のグランドをマラソンし、1週走るごとに自分と仲間の募金をささげたことが始まりです。
そして真っ黒な空が夜明けで紫に染まる、そんな紫色をシンボルカラーにしました。

「安心しなさい」と言う新共同訳で使用されている日本語は、別の聖書では「勇気を出しなさい」と訳されています。小舟が強風で揺れている暗闇。必死に転覆を避けようとする弟子たち。
そんなところに行ったイエスが言葉をかけるのなら「勇気を出しなさい」の方が近いかもしれません。
私が来たからもう安心、ではなく、さぁ一緒に困難に立ち向かおうに近いような感じをこの後すぐに強風がやまなかったことから感じるのです。
そしてそれは不安な夜を過ごすがんサバイバーさんへの声掛けにつながります。「勇気を出して闘いなさい。」一番不安で一人ぼっちの、一番暗い夜明け直前。
そんな言葉に顔をあげたらそこには真っ黒な闇をじわじわと侵食する朝日の赤によって紫色になっていく美しいグラデーション。
朝日を見ることなく死んじゃうかもしれない。このまま目を覚ますことが無いかもしれない、とまで思い込んでしまう押しつぶされそうな不安。そこに「おはよう、きれいな朝だよ」と言わんばかりの夜明け。そんなささやかな喜びに多くのサバイバーさんは、「安心しなさい」ではなく勇気をもらって闘病に向かったはずです。

弟子のペテロは言います。自分に歩けと命じてください。神の命令ならば自分も水の上を歩けるはずです。
イエスの言葉で湖の上を歩いたペテロは、自分が超人的なことをしていることに気付き恐れて沈みそうになります。
自分は人間であることが甦ったのです。自らの力では立てない、ゆえに主につながらなければならないことを悟ります。
限界(沈みそうになった時)、イエスは手を差し伸べます。
よくよく考えれば、神は万能です。ですので、イエスが愛してくれている弟子ならば、手を差し出さなくても天に召すことはないでしょう。それでもイエスは瞬発問わず手を差し出した、それはイエスの感受性と言うか人道的というか愛のなせる業でしょう。とっさに手が出たのでしょう。
がんサバイバーの人も決して一人での戦いではなかったはずです。お見舞いに来てくれた家族や友人、隣のベッドの人、一緒に頑張ろうと声をかけてくれる看護師さんや医者。そんな隣人もですが、先ほどから記した夜明けの紫のグラデーションのような自然の中からも知らない力をもらっているのではないでしょうか?

僕らも限界はあります。それはがんサバイバーの方も一緒です。でも差し出した手にすがりつけば日の目が見えることがあります。
今日の箇所は、ペテロが勇気を出して行動することに着点があると思います。

そして今日の最後の箇所は、イエスの服に触れさえすれば、と言うところです。
信じるものは救われるとは陳腐な言い古めた観の言葉。鰯の頭も信心からと言う言葉もあります。でも顔をあげた時の暗闇が赤と混じったパープルのグラデーションが美しくそこに何かを感じたら勇気をもって歩み出したいものです。
そこにはきっとしっかり握ってくれる手があるはずです。

創立130周年記念礼拝

2月17日 小田原教会では創立130周年記念礼拝をリンクの要領で執り行われます。

20170217-01

この地において130年の歴史、そこには耶蘇と言われのない蔑視を受けた時代や神に逆らい戦争に加担した歴史、そして人口減少と経済至上主義の現在とさまざまな時代の中に、その時その時の信仰の先達たちがもがくように信仰を守ってきた歴史でもあります。

この日、私たちは敬愛する関田寛雄牧師をお招きして礼拝を守ります。
先生は、まさに私たちの教会のベースであるメソディストの学校青山学院の神学部をご卒業後、川崎桜本教会を開拓伝道で起こしたあと戸手教会をお作りになられた方です。
戸手教会の孫牧師の就任式の時にご挨拶をしただけで説教をお聞きする機会が無いまま今日まで過ぎてしまったのでとても楽しみにしていましたが、拠り所のない大事な別件が起き残念ながら当日は礼拝に参加できません。
あとでテープを聞いて、弱者と寄り添う事を重視した関田先生のお話をお聞きしようと思っております。

教会は、どなたでも礼拝に参加できます。
ご不安な点がありましたら、教会についたら受付でその旨をお話し下さい。
聖書、賛美歌は教会に備え付けがございます。
心からお待ちしております。

消えるものと消えないもの

2017年2月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 5章17-20節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

天地が消える、つまりは地球上に住む僕ら「人間(と当時の人が思っていた)」の最期の時。言い換えればすべての人が神のもとに行く神の国の成就の時。その時と言うのは人間が人間のために作ったルールなど成り立たないであろうが、その時まで律法が無くなることはないとイエスは語ります。
人間の支配力がない時まで人間の作った律法に従う矛盾。それは何か?なぜ故に神は神の英知に比べれば取るに足りない人間の作ったルールをそこまで従ってくれるのか?
それは神が人を赦した故。自由をお与えになり、人間の態度を評価するためなのかもしれません。

聖書は福音書を通じてイエスを描いています。様々なルールの狭間をファリサイ派や律法学者から追及され、違反をしたら裁こうと虎視眈々と狙われていました。同時に貧しい民衆はだんだんと形骸化したルールに困窮し、ルールに迎合すれば民衆の支持を失うこともファリサイ派や律法学者も知っていました。
しかしイエスは、律法を守りながらも律法に従えない人への配慮も出来たため、ついには磔刑の死を迎える訳です。
イエスは律法は無用と言う社会革命を起こすわけではなく、律法の意義を純粋に守ることを言いたかったのではないでしょうか?

例えば僕らは車に乗ります。ゆえに交通ルールを守ります。世界四大文明で動物に乗ることや荷物を運ばせることはありましたが、17世紀になるとヨーロッパでは道路が整備され馬車で行き来をするのが当たり前になりました。そして馬車を超える自動車が発明され、交差点での事故が発生するようになります。
事故を防ぐにはどうしたらいいか? 人々は考え、交通ルールを作ります。信号が出来ました。青は進め、赤は止まれ、です。
ですが、赤になる直前進んでしまうと交差点の中で青になったばかりに進んできた車や馬車とぶつかる可能性が出てきました。
そこで、青が終わり赤になる前には黄色に変わるようになり、注意して進め、でも反対側はその間赤のままにする、と言うルールが出来ました。
それでも黄色の終わりにスピードを上げて交差点に入る車、交差点の反対側では相手の信号が黄色になったのを見るや否やアクセルをふかし変わると否や交差点に入る車が出来ました。

律法とはこういうものでしょう。しかし守らなければ大きな事故になる可能性もある。
そんな時イエスが語るのは、律法云々ではないのです。相手のことを思いやりましょう!
まさにコロンブスの卵、目からうろこが落ちた如くの正論。
つまりもし信号がなくても、交差点の前で「すべて」の車がいったん停止し、相手の道路をよく確認し、徐行をして走り抜けれることが出来るのなら、信号と言うルールは不要なのです。なくてもいいわけです。
これこそイエスの言う律法の完成ではないでしょうか?

長井牧師は、ファリサイ派や律法学者も辛い日々を過ごしたのかもしれない、と語ります。
交通事故を無くそうとするのなら、信号を作り、黄色信号を作り、と社会の流れに沿って変革をさせる事が大事だと必死になったのかもしれません。イエスの正論ではなく、目の前の事象に絞り込み、ただその1点だけの解決を試みたのでしょう。

しかしイエスは言います。「神を愛し、隣人を愛しなさい」この短い2センテンスの言葉が守られるのなら、世の中のすべてのルール法律は不要になる、そんな高度なテクニックを教えてくれたのでしょう。それこそルールの感性です。
世のルールは信号を例にとるまでもなく、複雑にすればするほど、その隙間が気になります。破る輩が出てきます。破られればもっと複雑にし破らせないように努力します。管理社会は、穏やかな人を精神的に追い込みます。権力者はその仕事上の力によって狼藉を働かせることもあります。
イエスの言うルールは難しいけれどシンプルで純粋な生き方です。誰もが平等な生き方です。事の大小を問わず、自分より隣人を誰もが優先した世界になりますように。

神を拝まない罪

2017年2月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章18-25節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。


神がいる。神の思いや考えをまとめた、それが聖書と言っても、そしてそれを書いた人は聖霊に満たされたとしても、もしそこに書き手の「意志」が全くなくすべて神だけのものなら、福音書が4つ必要になるはずもなく、4つあるのは書き手の「感動」があればこそ、大事な部分が人(弟子)それぞれで、それ故に少しずつ福音書の内容は違います。
そして読み手の僕らも同じです。以前遠藤周作氏が、大学の入試に自分の作品が出題され「以下の作品を読んで著者が言わんとしているのは次のA~Dのどれか?」と書かれていたので、Dだろうと解答を見たらAだった、という笑話のような話を書かれていました。大学の専門家の先生すら書かれているものの分析は難しいのですから、僕らが聖書の書かれているものをすべて間違いなく読み取れるとは限りません。
神の存在を信じることと聖書を吟味することはやはり違うことでしょう。
しかし、聖書を全否定することはありません。もしそうだとしたらキリスト教だはないでしょう。細かい一節、一句が書き手のスキル不足や時代が事象をゆがめていたり読み解けないことはあっても、全否定はない訳です。

神の怒りの啓示が書かれています。啓示とは本質を顕わにする、神が顕われることだと牧師は語られます。
顕われる・・・モーセの前に顕われてた神は「私はある」と言われました。「私はいる」ではなく「私はある」という言い方。ここに神は人間が理解できる「存在」ではないことが解るのではないかと僕は思います。
「ある」のは、物質的な存在ではなく、感覚的・精神的な存在だからではないでしょうか? デカルトは他者の絶対的な他者性を神と呼ばれた訳です。われ思う故にわれ有り、「ある」神を僕らは哲学的に知っているのです。
コミュニケーションを取り、喜怒哀楽をぶつけられる相手です。神には「思う」という事象に対して反応があるのです。しかし、絵画や書籍などを通じて僕らが意識の中に思い描く神の「姿」ではないと思うのです。

「ある」神とは、自分の存在自身を神に感謝しながら生きることでもあるのではないでしょうか?「思う」事象をぶつけるコミニュケーションの相手の存在があるこの世は有機質の世の中であることだと人生を謳歌できるのではないでしょうか?
それは安易な言葉で言えば「人は一人では生きられない」ことだと思います。社会の中で生きる生き物だということでしょう。
しかしその世の中において、絶対的他者の神にも隣人にも感謝を忘れ、不満だけを口にするようになった。このことが神の神の怒りの本質ではないでしょうか。

自分は神によってこの世に表された被造物と言う意識があれば、創造者に与えられた存在として感謝のみでしょう。不満と言う名の罪は存在しないはずです。
でも、自分の人生は自分自身のものとなれば、そこには罪(不満)が生じてしまいます。

ここ数回の中田牧師の説教は本質に近づいてインプレッションを上手に書けません。神学を学んでいない自分の限界を感じます。教会には、毎週の礼拝の様子がCDで取り置きしてあります。この拙いBlogを読んでよく解らないので、元説教を聞きたいという方はお気軽に教会まで(笑)

福音を恥としない(2)

山口市内の小学校でいじめを受けた女児が不登校になった問題で、男性担任教諭が女児に「先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに」と発言していた。女児の父親への取材でわかった。女児は「加害者のことを伝えているのに、真剣に取り組んでもらえない」と受け止め、学校に行けなくなったという。

 市教委によると、「しんでよね」などと書かれたメモが女児の机の中に入れられるいじめは昨年1月下旬から約3カ月間続いた。父親の説明では、その後も夏ごろまで、同級生ににらみつけられるといったことがあった。

 担任と女児の家庭で交わされた「連絡帳」によると、担任は昨年11月16日、女児と個別に面談。女児は「担任に『なぜいじめられたと思う』と尋ねられ、『どうやったら加害者は見つかると思う』『先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに』と言われた」と親に伝え、親はそのことを記入した。

 翌17日から女児は不登校に。女児の母親は連絡帳に女児が「加害者の話も何度もしているのに、超能力の話だなんてありえない」と落ち込んでいると書いた。これに対し、担任は「気持ちがやわらぐといいなという思いで話をしていました。傷つけてしまったこと、とても申し訳なく思っています」と記した。

 ログイン前の続き12月2日の連絡帳には女児が自ら「私は先生に傷つけられたことは一生忘れません」と記入。担任は「苦しんでいる気持ちを考えないような幼稚な言い方をしてしまいました」と謝罪の言葉を書いた。

 学校は今月27日夜、緊急保護者会を開き、いじめや学校の対応の経緯を説明した。女児が不登校になった経緯について、市教委は26日に開いた記者会見で「担任との言葉の中で行き違いがあった」と説明。校長は朝日新聞の取材に対し「個別のことでお話しできない」と話した。
朝日新聞 2017年1月30日19時16分

昨日の今日なので、29日の説教はよく覚えている。そんな最中のこの文章に説教がオーヴァーラップした。
説教を聞いて僕は2つに分解した。
1つはキリスト教はドラえもんのポケットではないから「奇跡」を望んでも何も出てこない。→先生が超能力を使えたなら、という言葉は、失望以外の何物でもない。
もう1つはインマヌエル=神共にいまし、である。映画「沈黙」のインプレッション「サイレンスΩ」にも記したけれど、神という名詞を固定概念で思い込んでしまわないで、例えば聖書の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18章20節)という概念を外した人の心の中の神性を重視すれば、彼女に共に居ます神のなさ、つまり隣人不在が彼女を苦しめてしまったわけのように見える。

福音とは神という既成概念による「与えられる」存在ではなく、神性により隣人を愛す心を持った人の行為でもあるのではないか?
何の力もないような、ささやかな言葉や無言でいても寄り添える周囲の人。その存在はドラえもんのいかなる道具よりも光って見える。

福音を恥とせず

2017年1月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章16-17節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


聖書、特に新約聖書は「信仰の書物」です。だから読んだ人がそこから影響を受けどう生きるかというものですので、多様な読み方ができると思います。
しかし、聖書を信仰の書としながら、いわゆるカルトと呼ばれる原理主義的な指導者のエキスで聖書をコーティングする宗教グループもあります。
言い方はおかしいですが、過去の神学を鵜呑みにするのではなく、一つ一つの御言葉は私にどう語りかけているのか、この言葉は正しいのか正しくないのかまで、自分の力で吟味する上で聖書は輝きを増してくれます。

福音を恥としない、というショッキングな御言葉で始まる今日与えられた聖句。中田牧師はこのローマ書のポイント、もっと言えばパウロ神学の中心思想だと言われます。
恥ではないとあえて公言する裏には、恥だという考えがあったことでしょう。それはアテネ伝道の際にあざ笑われたことなどに端を発するでしょうし、言葉になっていなくても雰囲気で感じることもあります。2017年生きている僕らも『宗教なんて何も役に立たない』とか『信仰をもっていい事あるの?』というような疑問を投げられることもあるので、人は2000年経った今でもこの問題に直面しているのでしょう。

そもそも福音を信じて人は何の得があるのか?を考えてみましょう。
金持ちになるのでもなく、頭がよくなるわけではないし、永遠の命がこの世で与えられるわけではなく、信仰をもっても病にかかる時はかかるし、年を取って出来ていた事がだんだん出来なくなっていきます。
そもそも十字架にかかって殺されたものが神の訳はないという考え方もあります。

福音を恥とする考えはきっとそうした人の望みがかなえられないことからくるのでしょう。自分のしてほしい事をしてくれる「ご都合のいい神」を望むのならキリスト教の神は神ではないでしょう。それよりも壺を買えば運が開けるような神に託すべきでしょう。しかし「この壺を買えばきっと…」という言葉に心揺らぐことはあっても購入に至る人は少ないのは、例えば金持ちの人は一生懸命働いた人であり、良い学校に行った人はまじめに勉学をした人であるにもかかわらず、その努力なくして叶ってはいけない道理であることを多くの人は知っているのです。でも、そんなものがあったらいいな、と言う妄想がご利益宗教を生むと思うのです。まさにドラえもんがいたらなぁ的な無邪気な羨望でしかないと思うのです。

福音を恥としない、福音を信じて何になるんだ。そういう意味ではキリスト教は何もならない宗教です。
しかし聖書の神は一つだけ「何かになる」ものをくれます。それは神共にいます事、癒してくれることです。しかし、こんなことは世間は歓迎しないです。自分の生活にプラスになることだけを追い求めたら神共にいることが何の得になるか、と思うから。
でも、それはじつは信じる者信じない者、すべての人を神が寄り添ってくれているからです。空気があることは誰もありたがらないのはあまりにも当たり前のことだからでしょう。
そしてよくよく考えれば、金や頭や健康も人生を楽しく過ごすには大事な要素かもしれませんが、なくても十分楽しめます。しかし、本当に苦しい時共に居てくれる信頼をおけるものの存在は無ければとても苦しい人生になってしまいます。

しかしキリスト教は2000年もの間続いています。それは実感がないままの人も多いですが、空気のありがたさを実感している人もいるからです。
日本は水はタダだと思ったのが最近は有料で買う習慣が増えました。当たり前をありがたい事と認識しなければならない時もあります。

暗闇から光へ

2017年1月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 4章12-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

メガネをはずすと目の前が見えなくなるだけではなく何か頭の中もぼんやりする様で思考が定まらない、そんな感覚に僕はなります。同時に話も雑談ならともかくきちんと聞く時はメモを取らないとどうも理路整然としないし、覚えている時間も短くなります。
先週は耳だけで説教を聞いていましたが、家に帰るころにはどんな説教だったか内容もあやふやでBlogにインプレッションを記載するどころではなく失礼をしてしまいました。


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



4つの福音書の著者は、書かれた背景、書いた時期、書きたい事、当然のことながらすべて違います。このマタイはきっと「正当な」王家系統者、つまりユダヤ最大の王であったダビデやソロモンのような強大な国家を作ってほしいという民衆の願いに対しての回答を書きたいという願いがあったのではないでしょうか?
ですから1章1節からは、初めて聖書を読む者にはただただ面白くもない名前の羅列を記し、今日の箇所もイザヤ書9章からの引用を書き、そこには正当な神に油注がれたイエスが神の名によって平和を作り出すことを書こうとしたのだと思います。
イザヤ書の中では異邦人のガリラヤと書かれていますが、長井牧師はこの地はマカバイ王家の地、熱心党の本拠地であり、異邦人の地ではないと語ります。では何ゆえに異邦人の地と記されたか?と言えば、イエスによる新しい解釈のユダヤ教つまりはキリスト教に対して異邦人の町と言う意味だったのでしょう。
そこでイエスは悔い改めよ、と伝道を始めたのです。
もちろん、2017年の日本と言う地も異邦人の町。2000年と言う月日、極東と言う洋の東西の違い、そんな辺境の地でも、イエスに出会い、イエスの悔い改めよという言葉によって教会は建てられ、この日僕らも礼拝の民として集いました。

悔い改めよ、よく日本でも一部の福音原理的なグループの金属板のプレートがあちこちに貼られていますが、何か大きく懺悔をして生き直さなければならないようなインパクトを与えます。
しかし長井牧師は、もう一度神を見よ、と言うニュアンスの発言だと語ります。

放蕩息子の喩えが聖書には載っています。乱れた生活の挙句日々の生活にも事欠いた息子が父の所へ行って謝ろう、と帰ると、遠くからその姿を見た父親は駆け寄ってよかったと涙流さんばかりに喜んで帰宅を歓迎した。と言う話です。
僕らが何かをきっかけに「神はいない」とか「もう信仰生活は疲れた」「勝手に生きたい」と神に背を向けて(放蕩息子の喩えでは放蕩生活をはじめても)、何かをきっかけに神の元に戻ろう(もう一度神を見よう=悔い改めよう)とすれば、神は喜んで遠くからでも駆け寄ってくれる、と言う話です。
大きな懺悔のような、「○○しなければならない」という条件は神は求めていない。ただ神の元に帰ろう、と言うだけで十分なのでしょう。

もちろん放蕩生活を進めているわけでもありません。でもこの放蕩息子の話には兄もいます。父親に仕え日々精進しながら仕事に明け暮れても質素な食事の毎日。遊ぶこともなく一生懸命の兄は、弟の帰宅に際して父親が歓迎の宴をしたことに腹を立てます。
ずっと自分は父に仕えたのに、何一つしてくれなかった。
わかるなぁ、その気持ち。僕には痛いほどよく解る。やっぱり一生懸命生きた人は放蕩の限りを尽くした人より目をかけてほしいよ。お前はよくやっていると言ってほしいんですよ。
と言う弟との比較。それ自身がお門違いなのでしょう。

僕の天国論は誰でも行ける場所だと思っています。地獄は永遠の場所ではないと。
じゃあ放蕩息子のようにこの世でも好き勝手やった方が得じゃん。悪い事して死刑になっても天国に行けるなら悪い事しようぜ。なのでしょうか?

もしそうであってもイエスのみあとを歩んで人の目には兄のように要領の悪い生き方をしたとしてもそうあれ、と言うのがクリスチャンになるということなのでしょう。

悔い改めよという言葉は神が人に言う言葉。人と人との関係では愛し合いなさい。です。
隣人を愛しながら神を見ながら生きること。そしてそれがしんどくなったとしても神は何度でも赦してくれるからそれを信じて希望を持つこと。
今週も背伸びしすぎることなく身の丈に合った愛の中に生きていきたいものです。

イサンタシャワー

礼拝が終わり野宿を余儀なくされている仲間への炊き出しをしました。
例年は、正月も終えたこの時期は炊き出し会場に、本当に野宿をしている方だけではなく保護を受けている生活困窮者や様々な理由で孤独な生活を送られている方が会話を求めて来るなど多種多様な方の訪問がありますが、今年はそうした人は少なく木曜に出会っている野宿の方ばかりです。
でも、人数はその分減っており去年の半分程度しか集まっていません。
それでもこの場で「同じ釜の飯を食った仲間」、昨木曜日の訪問で回った時は皆で一つのテントで5人で談笑なされていました。

昨木曜日は寒波の到来で小田原のでも最低気温は0℃前後。寒さと心細さは加算されると情けなく惨めな気持ちになります。
そんな気持ちは仲間との団結、団らんが打開してくれます。
この5人は物腰が柔らかくまじめなのでなんとかこの困窮から抜け出してほしいものですが、まずは困窮の中の仲間がいることで仲間から勇気をもらいあいながら頑張ってほしいものです。

さて、そんな夜はイサンタシャワーと言う教会行事に参加。
祈りと賛美の時をまず持ちます。この祈りに関しては1個だけ決まりがあります。それはただ一つのことだけ祈るという事。
僕は今日は上記のことが一番の関心ごと。というか、この仲間の関係性がうれしくて元気をもらえてありがたい事でしたのでその時が与えられたこと、そして野宿の方々の健康を祈ります。
寒さの中、厳しく世知辛い中、希望を持って生きる唯一の力は仲間の存在です。そんな仲間と力強く生きていく彼らに絶大な応援ができればと思ってとりなしの祈りを捧げました。

祈りと賛美が終われば、ともに食卓を囲みます。

20170115-11

20170115-12

老若男女鍋をつつき談笑できる豊かな時間。
僕らも野宿のコロニーと同じ仲間がいなければ生きていく元気が不足してしまいます。
豊かな時間に感謝します。
プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター