暗闇から光へ

2017年1月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 4章12-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

メガネをはずすと目の前が見えなくなるだけではなく何か頭の中もぼんやりする様で思考が定まらない、そんな感覚に僕はなります。同時に話も雑談ならともかくきちんと聞く時はメモを取らないとどうも理路整然としないし、覚えている時間も短くなります。
先週は耳だけで説教を聞いていましたが、家に帰るころにはどんな説教だったか内容もあやふやでBlogにインプレッションを記載するどころではなく失礼をしてしまいました。


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



4つの福音書の著者は、書かれた背景、書いた時期、書きたい事、当然のことながらすべて違います。このマタイはきっと「正当な」王家系統者、つまりユダヤ最大の王であったダビデやソロモンのような強大な国家を作ってほしいという民衆の願いに対しての回答を書きたいという願いがあったのではないでしょうか?
ですから1章1節からは、初めて聖書を読む者にはただただ面白くもない名前の羅列を記し、今日の箇所もイザヤ書9章からの引用を書き、そこには正当な神に油注がれたイエスが神の名によって平和を作り出すことを書こうとしたのだと思います。
イザヤ書の中では異邦人のガリラヤと書かれていますが、長井牧師はこの地はマカバイ王家の地、熱心党の本拠地であり、異邦人の地ではないと語ります。では何ゆえに異邦人の地と記されたか?と言えば、イエスによる新しい解釈のユダヤ教つまりはキリスト教に対して異邦人の町と言う意味だったのでしょう。
そこでイエスは悔い改めよ、と伝道を始めたのです。
もちろん、2017年の日本と言う地も異邦人の町。2000年と言う月日、極東と言う洋の東西の違い、そんな辺境の地でも、イエスに出会い、イエスの悔い改めよという言葉によって教会は建てられ、この日僕らも礼拝の民として集いました。

悔い改めよ、よく日本でも一部の福音原理的なグループの金属板のプレートがあちこちに貼られていますが、何か大きく懺悔をして生き直さなければならないようなインパクトを与えます。
しかし長井牧師は、もう一度神を見よ、と言うニュアンスの発言だと語ります。

放蕩息子の喩えが聖書には載っています。乱れた生活の挙句日々の生活にも事欠いた息子が父の所へ行って謝ろう、と帰ると、遠くからその姿を見た父親は駆け寄ってよかったと涙流さんばかりに喜んで帰宅を歓迎した。と言う話です。
僕らが何かをきっかけに「神はいない」とか「もう信仰生活は疲れた」「勝手に生きたい」と神に背を向けて(放蕩息子の喩えでは放蕩生活をはじめても)、何かをきっかけに神の元に戻ろう(もう一度神を見よう=悔い改めよう)とすれば、神は喜んで遠くからでも駆け寄ってくれる、と言う話です。
大きな懺悔のような、「○○しなければならない」という条件は神は求めていない。ただ神の元に帰ろう、と言うだけで十分なのでしょう。

もちろん放蕩生活を進めているわけでもありません。でもこの放蕩息子の話には兄もいます。父親に仕え日々精進しながら仕事に明け暮れても質素な食事の毎日。遊ぶこともなく一生懸命の兄は、弟の帰宅に際して父親が歓迎の宴をしたことに腹を立てます。
ずっと自分は父に仕えたのに、何一つしてくれなかった。
わかるなぁ、その気持ち。僕には痛いほどよく解る。やっぱり一生懸命生きた人は放蕩の限りを尽くした人より目をかけてほしいよ。お前はよくやっていると言ってほしいんですよ。
と言う弟との比較。それ自身がお門違いなのでしょう。

僕の天国論は誰でも行ける場所だと思っています。地獄は永遠の場所ではないと。
じゃあ放蕩息子のようにこの世でも好き勝手やった方が得じゃん。悪い事して死刑になっても天国に行けるなら悪い事しようぜ。なのでしょうか?

もしそうであってもイエスのみあとを歩んで人の目には兄のように要領の悪い生き方をしたとしてもそうあれ、と言うのがクリスチャンになるということなのでしょう。

悔い改めよという言葉は神が人に言う言葉。人と人との関係では愛し合いなさい。です。
隣人を愛しながら神を見ながら生きること。そしてそれがしんどくなったとしても神は何度でも赦してくれるからそれを信じて希望を持つこと。
今週も背伸びしすぎることなく身の丈に合った愛の中に生きていきたいものです。

イサンタシャワー

礼拝が終わり野宿を余儀なくされている仲間への炊き出しをしました。
例年は、正月も終えたこの時期は炊き出し会場に、本当に野宿をしている方だけではなく保護を受けている生活困窮者や様々な理由で孤独な生活を送られている方が会話を求めて来るなど多種多様な方の訪問がありますが、今年はそうした人は少なく木曜に出会っている野宿の方ばかりです。
でも、人数はその分減っており去年の半分程度しか集まっていません。
それでもこの場で「同じ釜の飯を食った仲間」、昨木曜日の訪問で回った時は皆で一つのテントで5人で談笑なされていました。

昨木曜日は寒波の到来で小田原のでも最低気温は0℃前後。寒さと心細さは加算されると情けなく惨めな気持ちになります。
そんな気持ちは仲間との団結、団らんが打開してくれます。
この5人は物腰が柔らかくまじめなのでなんとかこの困窮から抜け出してほしいものですが、まずは困窮の中の仲間がいることで仲間から勇気をもらいあいながら頑張ってほしいものです。

さて、そんな夜はイサンタシャワーと言う教会行事に参加。
祈りと賛美の時をまず持ちます。この祈りに関しては1個だけ決まりがあります。それはただ一つのことだけ祈るという事。
僕は今日は上記のことが一番の関心ごと。というか、この仲間の関係性がうれしくて元気をもらえてありがたい事でしたのでその時が与えられたこと、そして野宿の方々の健康を祈ります。
寒さの中、厳しく世知辛い中、希望を持って生きる唯一の力は仲間の存在です。そんな仲間と力強く生きていく彼らに絶大な応援ができればと思ってとりなしの祈りを捧げました。

祈りと賛美が終われば、ともに食卓を囲みます。

20170115-11

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老若男女鍋をつつき談笑できる豊かな時間。
僕らも野宿のコロニーと同じ仲間がいなければ生きていく元気が不足してしまいます。
豊かな時間に感謝します。

御心に適うもの

2017年1月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 3章13-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。



教会は洗礼を大切にしています。これは「神と自分」の部分ではまったくその通りだと思うのですが、「自分と他人」と言う人と人との間では僕は意味を感じないのです。ですから、教会に神を求めに来ることよりも受洗と言う儀式を大事にし、未受洗者をオミットする聖餐式にはどうも違和感があります。教会や牧師や信徒が「していい」、「してはいけない」というようなものではないような気がします。教会の敷居は高いのにそれを越えてきたところには神への依存があるのだからその人個人と神との関係なので僕ら人がとやかく言うのは神への越権行為、お門違いな気がします。
その考えのベースはこの場所で、イエスは正しいからと受洗をしたけれど、この後イエスは洗礼を授けた記述はないのです。イエスであっても神の前に正しい事として自分の信仰の表明をしましたが、それを他人には強要しなかったのでしょう。
そんな自分の考えのまま、今日の説教を聞きました。

長井牧師は、「イエスは教祖にならなかった」と語ります。先生のお考えはわからないけれど、「教祖」として上から目線で受洗をしなければクリスチャンではない、と言う「宗教」でないという意味であるのなら、僕としては心強い説教です。

神とイエスの関係で言えば、上に居る神と下から見上げるイエス。それはイエスと人の関係の相似のように見えます。そして下から上の神を見上げるイエスの生き方、つまりは一番下座に居るもののようにふるまえという生き方を倣えというイエスに従いたいのです。

そして牧師は続いてネルソン・マンデラ氏の
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

と言う名言を引き合いに語られます。
それは聖書に記載されたイエスの生きざま、行動や発言に従ったクリスチャンの考え方です。

受洗とは神への証。神の世界を作ることこそ人の平和と幸福が成し遂げられるという信頼。ゆえに自分の行動をもって神の愛を実践するのです。この一点に集中したいです。

聖書は生きている書物と言われます。それは聖書によって生き方を定めその生き方を全うする人が多いからでしょう。
日本キリスト教団は宣教基礎理論というものがあります。そのⅠの2の(4)ハのdの中に、「信徒は、この世の問題を自己の問題として神にとりなし、神の言葉を伝達し、また、礼拝に参与して神のみわざを証しすることである」と書かれています。
ネルソン・マンデラ氏は、聖書に従って神から愛を学び、愛を広げるというイエスのみあとを歩んだわけです。僕らもイエス→マンデラ氏→自分と言うつながりを大切にしたいものです。
受洗をして仲間になってくれることは何よりもうれしい事。でも、イエスはそれよりも隣人を愛すことをもっと重要視したのではないでしょうか。

流行と信仰

「そんな硬いこと今流じゃないよ」と若い子には言われちゃうかもしれませんが、やはりどうもハロウィン騒ぎにはついて行けないところがあります。
だからこそ僕は一神教であるクリスチャンに惹かれたのかもしれません。

ユダヤ教グループであるユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、ともにベースである旧約聖書を経典として持ちます。その最初の方にエジプトを逃げ出し新たな自分たちの国を目指すモーセ一族の話が載っています。
ウィキペディアにはその様子が簡略化されまとめていますのでコピーをさせてもらいます。モーセがシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。ハザルは同書の注釈において、このときサタンが現れ、雲の上に立つモーセの幻影をイスラエルの民に見せたとしている。不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。
これを知った神は、一刻も早く下山するようモーセに命じる。モーセが下山して宿営地に戻ったところ、民衆は宴に興じながら金の子牛を拝んでいた。怒りに満ちたモーセは十戒の石版を破壊するやいなや、金の子牛を破壊する

と言う話ですが、一神教とは他に神がいないわけではなく、自分が信じた神のみを浮気をせずにただひたすら信じることです。

信じるためには僕はある程度の内容理解が必要だと思っていて、ただわからないけれど楽しそう、とクリスマスを受け入れ、そして今度はハロウィンを受け入れ、その反面流行が過ぎ去ったがごとくに除夜の鐘はうるさいから鳴らさないでほしい。たき火は野焼きと同じだからドンド焼きはやめましょう、と言う風習への考え方はどうも苦手です。もう少し一つ一つの行事をしっかり学び、自分の宗教の行事は大切にしたいものだと思います。

これと決めたらまぁとにかく一生懸命それに従う、そんな馬鹿正直な人生の方が僕は似合っています。

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街行く皆さんは、クリスマスを過ぎた後まだ教会にリースやクリスマスの飾りつけが残っていて、忙しくて片づけ損なっていると思われるかもしれませんが、一般的に教会は公現日まで飾り付けはしていますし、東方教会の方は今日がクリスマスのお祝いの日です。
年末に銀座に行った際、購入したクリスマスツリーの飾り皿。小さな変形の飾り皿立てが見つからず飾ることもできませんでしたが、インターネットで見つけた清州の業者さんが持っていたので購入。送料込302円に、お手数や領収書用紙、封筒を入れたら赤字ではないかと思ってしまいます。せめてもの罪滅ぼしにお店の名刺を添付してPR
クリスマス最後に飾ることが叶いました。ありがとう\(^o^)/

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恵みの福音

2017年1月1日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章1-7節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20170101-01

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



2017年を迎えました。
1月1日、初めての日。そんなことで特別な日に思えます。でも、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という一休宗純師の歌。そして「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言うテサロニケの信徒への手紙の言葉。
特別視するかしないかは個々の気持ちひとつで、365日のただの1日に過ぎないのかもしれません。
様々なスポーツでも「練習は試合のように、試合は練習のように」といいます。特別な日を普段の日のように、ハレの日でもケの日のごとく過ごせることが大事なのかもしれません。

もう一つ、教会の暦ではまだクリスマスの時を過ごしています。アドヴェントと言う備えでもありウキウキと嬉しい時は社会・経済でもクリスマスを共有していますが降誕を期に社会・経済は一気に正月モードになってしまいます。でもクリスマス、つまり「救い主の誕生」は産まれるまでではなく産まれたことが大事なはなしで、救い主が生まれた喜びとキリストの光がこの世に輝きだすエピファニーまでが喜びあいたい時であります。

さて2017年中田牧師は小田原教会の礼拝説教をローマの信徒への手紙の連続講解を選びました。その1回目となりますが、あわせてパウロの人生についての話でもありました。3度の伝道旅行をしたパウロ。
でも考えてみれば僕らも人生と言う旅を歩んでいます。併せて礼拝のさいごに牧者から祝祷派遣の言葉をうけて礼拝を終え、各家庭に戻り、一週間家事を、仕事を続けます。

エピファニーは東方の博士たちが星に導かれイエスに会った日とも言われています。そんな博士たちはイエスに会った後、天使に道を変えて帰るように言われます。
牧師は、この事実と合わせて、このことは意味ある示しでもあるといわれます。つまりイエスに会ったことで人生の道が変わる、今まで歩いてきた道と違う道を歩むこと、と言われました。

博士たちも、救い主がどんな人かわからなかったはずです。占星術、星占いの結果、「何かがある」ことはわかっていてもそれがどんなことかわからなかった。それでも行くことは個人の成し遂げたいというわくわく感でありますが、そんなわくわく感は多くの占星術の博士が味わったと思います。それでも行った博士、行かなかった博士、そこには背後の神の呼びかけに応える、逆に言えば呼びかけられたことに従順な姿の大事さを感じます。

最初いつもと同じと書きました。でも、一年の計は元旦にありとも言います。背後の神の呼びかけに応えることをこの一年の目標に飄々と毎日を楽しみたいと思います。

神を讃えて歩き出そう

2016年12月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 2章8-20節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。



聖書は一語一句間違いはない、とは僕は思っていません。やはり書く人は、自分の持っているスキル以上、知っている情報以上の事は出来ないと思います。
降誕物語も物語であることは間違いではなく、概ねは正しくても隅々まで見ればおかしいことが書かれていると思うのです。
じゃあ聖書は間違いか?といえばそうではないと思います。例えば奈良の大仏の高さはいくらか?と言う質問に15mくらい?というのは正しくありませんが、間違いでもないです。でも、何mか分からないけれど70cmと言うより正しいです。でも、数字だけ見れば14.7mは、おおよそ15mはあっていないですが、70cmはあっています。
それでも数字が違うおおよそ15mと言われれば僕らは想像ができますが、m以下は70cmですじゃあ100mなのか2mなのかわかりません。それじゃあ全く見当がつかない訳です。
聖書はおおよそ15mと言っているようなものです。少しの違いよりも、ベクトル(筋)が整うことが大切だと思います。
そしてその差異の部分は、当初書いたようにスキル不足(情報不足)の部分と、筆者が「あえて言いたい」とイエスの言動にプラスアルファさせた部分があることも確かです。

今日の降誕の場面も様々な背景があります。まずは僕らも歴史の中から当時を知ることでベースを知ってこの物語が僕らに何を語らんとしているかを推察する、考えてみる。そういう歴史の中イエスがキリスト(救い主)として何をしたかが大事なことだと思います。
そして自分の勝手な考え方を信じきらないこと、いつも他人と生き方を論議すること、社会を討議することの中でいろんな考えの違いを受け入れる。そこにキリスト教の隣人愛があり、それをイエスは望んだのだと思います。

長井牧師はこの物語は4部構成だと語ります。
① 蔑視されている羊飼いの所に現れた。
② ベツレヘムへ行こう! チームが一つになって行動を起こした。
③ 蔑視されたもののためにキリストが生まれた、事を告げ広げよ、と天使に言われた。
④ 賛美をして「仲間の所へ」帰って行った。

弱者である仲間たち。実は大金持ちでも権力者も誰もが「弱者」であるんでしょうけれど、得てして自分を弱者と認めようとできずに、弱者をいじめることで強者のつもりになっています。
でも、僕の周りには弱さを認める強い人がたくさんいます。当時の羊飼いもそうではなかったのではないでしょうか? 周囲の視線も跳ね返し歯を食いしばり頑張って生きる。
そんな頑張りはどこから生まれてきたのか?

それが③④ではないでしょうか? キリストは生まれた。そして賛美をして仲間の所に帰った。
これが羊飼いの目からみたクリスマスの出来事です。
仲間と過ごすクリスマス、そこに神の愛があります。それは何の仲間でもそうでしょう。がんの仲間、野宿の仲間、すべての仲間が仲間を信じ、神を信じ生きる。そんな新たな初めの日です。

クリスマスは教会で(^^)/

20161125-11

クリスマスの夜のオーヴァーブッキング

先日友人が海外からショートメール。
「ブッキングミスで泊まるところが無い」とのこと。石橋を叩いても渡れない僕は、日本にいるうちに全部の宿泊場所を押さえてからでないと出られないチキンなもので、その無謀ほどに自由な旅に心配とうらやましさを感じたものです。
事なきを得たのですが、それはまた感動の話なのです。トラブルとトラベルの語源は一緒といいますが、故に旅も障害も感動を呼び起こすものなのかもしれません。

ブッキングミスによる宿泊場所が無い話の最たるものはたぶんクリスマスの夜のお話なんでしょうね。
馬小屋で赤ちゃんを産まざるを得なかったいきさつは
皇帝アウグストが全ローマ帝国の住民登録をせよと命じた事に端を発します。
登録のため、国中の人がそれぞれ先祖の故郷へ帰りました。
ヨセフはガリラヤ地方のナザレから、ベツレヘムまで行った訳です。
つまり馬小屋のある場所はヨセフの生まれ故郷。
親戚も知り合いもいる場所。そこで宿にも知人・友人の家庭にも泊めてもらえなかった、というのは、旅人をもてなせという当時の極めて重く常識的な社会ルールに照らし合わせても腑に落ちないものです。

それが「婚前にマリアのお腹に赤ちゃんがいる」と言う事でした。21世紀は、もう結婚と言うルールは希薄化して、結婚前に子どもがいても何ら不思議ではない訳ですが、2000年前は不謹慎の極み、律法から離れた冒涜者として、誰もが関わりを拒否したのが馬小屋で生まざるを得なかった原因なのでしょう。
「生憎と部屋はありません。」今にも生まれそうな大きなおなかの人に向かって言える言葉ではない、そんな拒否を受け続けた要因は、やはり偏見・蔑視によるものだと思います。
中には憐れみを覚えたとしても、泊めたらその後村八分のような仕打ちを受けるかもしれないという世間体を気にした人もいたでしょう。

ただ泊まれないのとは違い悪意があるのは、僕の友人のブッキングミスとの違いだと思います。
馬小屋を貸してくれた宿屋はある意味親切で情にあふれた方だったのかもしれません。地域の目があるから中に入れることは出来ないけれど、俺が精いっぱいみんなに反論できるのは「馬小屋でもダメだっていうのかい!!」と言うプロテストまでだ、それでいいならOKだぜ。

久野の地域を二分する産廃の闘争。その時仲間のリーダーが言いました。「『反対運動に加わる仲間以外は敵だ』、と言うのと、『敵対しない人以外は仲間だ』と言うのは似ているようで大きく違う。」
相手関連企業と取引のある商店主などは板挟み。表立って反対できるはずがありません。許可をした県、追従した市に勤めている公務員の方も同じです。反対運動に加わりたくても加われない。その黙する辛さは知ってあげなければいけないことでしょう。
僕はやはり弱虫のチキンだから出来ない事までやれと言われても難しいかもしれない。でも出来る事まで、そしてちょっとした背伸びまでは出来るかもしれない。そんなちょっとの勇気を振り絞る大事さ、それがクリスマスの出来事かもしれません。
そんな宿屋のおやじの立場でクリスマスを感じてみました。

以下のCMの女の子のように自分に忠実に声をあげれれば実はみんな同じ気もちだったことに気がつくかもしれませんね。



今日の日の入りは16:30ころ、あと6時間ほどで救い主イエスの誕生をお祝いする夜の始まりです。メリークリスマス。 
僕の集う 日本キリスト教団小田原教会の燭火礼拝は午後7時からです。どなたでもお気軽にお越しください。

12月15日のパトビラ(№9578- ハードルが高ければ潜ればいい -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

思いがけない行動を起こした動画を放映するTV番組があります。特に小さな子どもは僕らが思いつかないような行動を起こすものです。
聖書にも「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と書いてあります。
人生の中で障害に出合った時のことを陸上競技をモチーフに「ハードル」と言う言い方をするときがあります。八王子にある浄土真宗本願寺派延立寺の掲示板の「ハードルは 高ければ高いほど くぐりやすい 」と言う言葉が書かれていたそうでインターネットで話題になりました。聖書に記された子どもの柔らかな発想と相まってこの言葉が響きました。
乗り越えられないような高いハードル、陸上選手なら猛練習をして伸び越すことを考えるでしょうけれど、幼稚園に行くか行かないかの子どもを走らせればたぶん何の拘りもなく潜って走り抜けるでしょうね。あまり自分自身でがんじがらめに無理だと決め込まないこと。そこにヒントがあるような気がします。
さて、炊き出しも2週間徐々に参加者が増えてきました。次は18日、25日と午後の2時30分から行います。どうぞお越しください。


聖書と言えども、そこに聖霊が下って各人に書かせたと言えども、それは人の手によって書かれた書物。そしてそれを読むとなればそこには読み手の意志と好き嫌いが生じ、どうしても読み手の色がついてしまうものだと思います。
子どものように神の国を受け入れる、と言う事がここでは聖書学的にどうなのか?と言う難しい話は抜きにして、お寺さんのご住職の書かれた「ハードルは 高ければ高いほど くぐりやすい 」と言う言葉にこの聖書の箇所が頭に浮かぶました。

原発の再稼働とかTPPとか、僕の周囲の世論は反対者が圧倒的に多いです。
が、さまざまなしがらみで賛成の与党に投票する人がごまんといます。
なんだか自分たちで自分たちの社会を難しくしている気がします。
生きやすい世の中になりますように! クリスマスを前に生きやすい世の中を作れと願って独り子イエスを世に送ってくれた神様に感謝。

来たるべき方、主イエス

2016年12月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 11章2-10節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20161211-01

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。


ヨハネが牢獄にとらわれている話は、別途有名な話なので、ご関心ある方は検索してもらいたい。これより約30年ほど前にイエスが生まれたクリスマス直後ベツレヘム周辺のジェノサイトがあったこと、そしてヨハネの投獄とローマの権力者は僕らが想像する以上に救世主の誕生とその新興勢力によって自らが滅ぼされることを怖がったのだと思います。
そんな牢獄の中にいるヨハネの一番の関心ごとは、今街場で噂されているあちこちで奇跡を起こすイエスが本当にメシアなのか?と言うこと。自分で確認できればいいのだが出来ないもどかしさは、弟子たちをイエスのもとに送り込み本人から聞き出そうとした、と言うのが今日のシーンでしょう。

「あなたはメシアですか?」と言う直球のクエスチョンに対して、禅問答のように変化球の回答。
ヨハネ・クラスならそんな変化球でも理解できるけれど、弟子たちはこの答えをどう受け取ったのでしょうか?
しかし宗教(信仰)の大事な部分をここから読み取れる気がします。
宗教(信仰)は、言葉巧みに自分の宗教に呼び込むものではないという事。たまたまこの礼拝が終わり、午後の行事のわずかな間食事を作っている暇がなかったので、近所のファミレスに行ったところ、隣のテーブルでは中学生にも見えそうな若い女の子が二人1人の男の子を宗教の勧誘か何かで説得している最中でした。
始めはみんな不安だから、とか、みんなそう言うけれど結局は、と言う言葉がとぎれとぎれに聞こえてきました。
宗教(信仰)というものを現代人が必要としない風潮の中、まず言葉で説得することも大事かもしれないので、やみくもに否定はしませんが、僕ならその人の背中(日々の行動)を見て、その行動の源が宗教(信仰)であることを知ることでその宗教(信仰)に対して好意を持つので、行動無き言葉だけじゃなと言う気がしてしまいます。
言葉で説得させようとすると何か胡散臭さを感じてしまいます。それよりも自分の人生をかけた信条(理念)と行動の姿を見ればそこに共感を感じます。

イエスは、今までの奇跡を掻い摘んで語りました。そこから判断せよ、とヨハネに伝えなさいというのです。
そして(ここには記載がありませんが)その癒しの相手は誰彼かまわなかったことが「つまずき」と言う言葉から分かります。
イエスの癒しの相手は、社会的に差別を受けたり、偏見で見られている人が圧倒的に多かったです。ですから、癒しをすることで、社会の大衆から嘲りを受け、あいつらの仲間と言うレッテルを張られ、そして社会の権力者から圧力をかけられます。
迫害を受けてやがては十字架の死になることを知りながらイエスは癒しを続けています。
そんな迫害にも負けず神の愛を実践するものを神は愛すと言いますが、それは難しい事でしょう。

僕も今クリスチャンとしての人生を歩んでいます。が、今の日本は宗教への迫害はほぼなく、僕がこうしてBlogを書いても削除されることもありません。
2017年1月21日待ちに待った「沈黙」が公開されます。この映画の舞台は、クリスチャンを棄教させるために、自分ではなく、その人が一番大切にしている人を次々殺していくことで成就させようとします。
神への忠誠心と隣人愛との狭間で苦しむ姿と結論、時が違えばクリスチャンと言うだけでそうした人生を過ごさざるを得なかったかもしれません。
僕の家族や友人たちも、クリスチャンである“キャツ”の仲間として蔑視され危害を加えさえられるとしたら、たぶん多くの友人は僕のもとを離れていくでしょう。それでも信仰生活を続けられるか?

ヨハネも類様の罪で牢獄につながれています。
そんなヨハネは「荒れ野」で生活していました。
「荒れ野」と言う場所は現実にヨハネの居た場所でもあり、シンボリックな場所でもあると長井牧師は語ります。
それは旧約聖書出エジプト記でモーセら一行がエジプトを出たあと40余年さまよう場所です。
しかしその荒れ野の果てに祝福に満ちた約束の地カナンにたどり着きます。
その間には様々な誘惑が襲い掛かるのです。食事や異教といった誘惑を振り払った故にカナンにたどり着けるのです。
風に揺れる葦はローマ皇帝と言う権力の象徴、しなやかな服は財力の象徴。そんなものは「荒れ野」にはないと語ります。神の地へたどり着くには不要のものです。

そうしたこの言葉に隠されたイエスの言わんとしたことを聞き、ヨハネもその弟子たちも、そしてこの話を聞いた群衆の中にも(?)イエスをメシア=キリストと理解したのでしょう。
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