神を讃えて歩き出そう

2016年12月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 2章8-20節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。



聖書は一語一句間違いはない、とは僕は思っていません。やはり書く人は、自分の持っているスキル以上、知っている情報以上の事は出来ないと思います。
降誕物語も物語であることは間違いではなく、概ねは正しくても隅々まで見ればおかしいことが書かれていると思うのです。
じゃあ聖書は間違いか?といえばそうではないと思います。例えば奈良の大仏の高さはいくらか?と言う質問に15mくらい?というのは正しくありませんが、間違いでもないです。でも、何mか分からないけれど70cmと言うより正しいです。でも、数字だけ見れば14.7mは、おおよそ15mはあっていないですが、70cmはあっています。
それでも数字が違うおおよそ15mと言われれば僕らは想像ができますが、m以下は70cmですじゃあ100mなのか2mなのかわかりません。それじゃあ全く見当がつかない訳です。
聖書はおおよそ15mと言っているようなものです。少しの違いよりも、ベクトル(筋)が整うことが大切だと思います。
そしてその差異の部分は、当初書いたようにスキル不足(情報不足)の部分と、筆者が「あえて言いたい」とイエスの言動にプラスアルファさせた部分があることも確かです。

今日の降誕の場面も様々な背景があります。まずは僕らも歴史の中から当時を知ることでベースを知ってこの物語が僕らに何を語らんとしているかを推察する、考えてみる。そういう歴史の中イエスがキリスト(救い主)として何をしたかが大事なことだと思います。
そして自分の勝手な考え方を信じきらないこと、いつも他人と生き方を論議すること、社会を討議することの中でいろんな考えの違いを受け入れる。そこにキリスト教の隣人愛があり、それをイエスは望んだのだと思います。

長井牧師はこの物語は4部構成だと語ります。
① 蔑視されている羊飼いの所に現れた。
② ベツレヘムへ行こう! チームが一つになって行動を起こした。
③ 蔑視されたもののためにキリストが生まれた、事を告げ広げよ、と天使に言われた。
④ 賛美をして「仲間の所へ」帰って行った。

弱者である仲間たち。実は大金持ちでも権力者も誰もが「弱者」であるんでしょうけれど、得てして自分を弱者と認めようとできずに、弱者をいじめることで強者のつもりになっています。
でも、僕の周りには弱さを認める強い人がたくさんいます。当時の羊飼いもそうではなかったのではないでしょうか? 周囲の視線も跳ね返し歯を食いしばり頑張って生きる。
そんな頑張りはどこから生まれてきたのか?

それが③④ではないでしょうか? キリストは生まれた。そして賛美をして仲間の所に帰った。
これが羊飼いの目からみたクリスマスの出来事です。
仲間と過ごすクリスマス、そこに神の愛があります。それは何の仲間でもそうでしょう。がんの仲間、野宿の仲間、すべての仲間が仲間を信じ、神を信じ生きる。そんな新たな初めの日です。

クリスマスは教会で(^^)/

20161125-11

クリスマスの夜のオーヴァーブッキング

先日友人が海外からショートメール。
「ブッキングミスで泊まるところが無い」とのこと。石橋を叩いても渡れない僕は、日本にいるうちに全部の宿泊場所を押さえてからでないと出られないチキンなもので、その無謀ほどに自由な旅に心配とうらやましさを感じたものです。
事なきを得たのですが、それはまた感動の話なのです。トラブルとトラベルの語源は一緒といいますが、故に旅も障害も感動を呼び起こすものなのかもしれません。

ブッキングミスによる宿泊場所が無い話の最たるものはたぶんクリスマスの夜のお話なんでしょうね。
馬小屋で赤ちゃんを産まざるを得なかったいきさつは
皇帝アウグストが全ローマ帝国の住民登録をせよと命じた事に端を発します。
登録のため、国中の人がそれぞれ先祖の故郷へ帰りました。
ヨセフはガリラヤ地方のナザレから、ベツレヘムまで行った訳です。
つまり馬小屋のある場所はヨセフの生まれ故郷。
親戚も知り合いもいる場所。そこで宿にも知人・友人の家庭にも泊めてもらえなかった、というのは、旅人をもてなせという当時の極めて重く常識的な社会ルールに照らし合わせても腑に落ちないものです。

それが「婚前にマリアのお腹に赤ちゃんがいる」と言う事でした。21世紀は、もう結婚と言うルールは希薄化して、結婚前に子どもがいても何ら不思議ではない訳ですが、2000年前は不謹慎の極み、律法から離れた冒涜者として、誰もが関わりを拒否したのが馬小屋で生まざるを得なかった原因なのでしょう。
「生憎と部屋はありません。」今にも生まれそうな大きなおなかの人に向かって言える言葉ではない、そんな拒否を受け続けた要因は、やはり偏見・蔑視によるものだと思います。
中には憐れみを覚えたとしても、泊めたらその後村八分のような仕打ちを受けるかもしれないという世間体を気にした人もいたでしょう。

ただ泊まれないのとは違い悪意があるのは、僕の友人のブッキングミスとの違いだと思います。
馬小屋を貸してくれた宿屋はある意味親切で情にあふれた方だったのかもしれません。地域の目があるから中に入れることは出来ないけれど、俺が精いっぱいみんなに反論できるのは「馬小屋でもダメだっていうのかい!!」と言うプロテストまでだ、それでいいならOKだぜ。

久野の地域を二分する産廃の闘争。その時仲間のリーダーが言いました。「『反対運動に加わる仲間以外は敵だ』、と言うのと、『敵対しない人以外は仲間だ』と言うのは似ているようで大きく違う。」
相手関連企業と取引のある商店主などは板挟み。表立って反対できるはずがありません。許可をした県、追従した市に勤めている公務員の方も同じです。反対運動に加わりたくても加われない。その黙する辛さは知ってあげなければいけないことでしょう。
僕はやはり弱虫のチキンだから出来ない事までやれと言われても難しいかもしれない。でも出来る事まで、そしてちょっとした背伸びまでは出来るかもしれない。そんなちょっとの勇気を振り絞る大事さ、それがクリスマスの出来事かもしれません。
そんな宿屋のおやじの立場でクリスマスを感じてみました。

以下のCMの女の子のように自分に忠実に声をあげれれば実はみんな同じ気もちだったことに気がつくかもしれませんね。



今日の日の入りは16:30ころ、あと6時間ほどで救い主イエスの誕生をお祝いする夜の始まりです。メリークリスマス。 
僕の集う 日本キリスト教団小田原教会の燭火礼拝は午後7時からです。どなたでもお気軽にお越しください。

12月15日のパトビラ(№9578- ハードルが高ければ潜ればいい -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

思いがけない行動を起こした動画を放映するTV番組があります。特に小さな子どもは僕らが思いつかないような行動を起こすものです。
聖書にも「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と書いてあります。
人生の中で障害に出合った時のことを陸上競技をモチーフに「ハードル」と言う言い方をするときがあります。八王子にある浄土真宗本願寺派延立寺の掲示板の「ハードルは 高ければ高いほど くぐりやすい 」と言う言葉が書かれていたそうでインターネットで話題になりました。聖書に記された子どもの柔らかな発想と相まってこの言葉が響きました。
乗り越えられないような高いハードル、陸上選手なら猛練習をして伸び越すことを考えるでしょうけれど、幼稚園に行くか行かないかの子どもを走らせればたぶん何の拘りもなく潜って走り抜けるでしょうね。あまり自分自身でがんじがらめに無理だと決め込まないこと。そこにヒントがあるような気がします。
さて、炊き出しも2週間徐々に参加者が増えてきました。次は18日、25日と午後の2時30分から行います。どうぞお越しください。


聖書と言えども、そこに聖霊が下って各人に書かせたと言えども、それは人の手によって書かれた書物。そしてそれを読むとなればそこには読み手の意志と好き嫌いが生じ、どうしても読み手の色がついてしまうものだと思います。
子どものように神の国を受け入れる、と言う事がここでは聖書学的にどうなのか?と言う難しい話は抜きにして、お寺さんのご住職の書かれた「ハードルは 高ければ高いほど くぐりやすい 」と言う言葉にこの聖書の箇所が頭に浮かぶました。

原発の再稼働とかTPPとか、僕の周囲の世論は反対者が圧倒的に多いです。
が、さまざまなしがらみで賛成の与党に投票する人がごまんといます。
なんだか自分たちで自分たちの社会を難しくしている気がします。
生きやすい世の中になりますように! クリスマスを前に生きやすい世の中を作れと願って独り子イエスを世に送ってくれた神様に感謝。

来たるべき方、主イエス

2016年12月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 11章2-10節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20161211-01

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。


ヨハネが牢獄にとらわれている話は、別途有名な話なので、ご関心ある方は検索してもらいたい。これより約30年ほど前にイエスが生まれたクリスマス直後ベツレヘム周辺のジェノサイトがあったこと、そしてヨハネの投獄とローマの権力者は僕らが想像する以上に救世主の誕生とその新興勢力によって自らが滅ぼされることを怖がったのだと思います。
そんな牢獄の中にいるヨハネの一番の関心ごとは、今街場で噂されているあちこちで奇跡を起こすイエスが本当にメシアなのか?と言うこと。自分で確認できればいいのだが出来ないもどかしさは、弟子たちをイエスのもとに送り込み本人から聞き出そうとした、と言うのが今日のシーンでしょう。

「あなたはメシアですか?」と言う直球のクエスチョンに対して、禅問答のように変化球の回答。
ヨハネ・クラスならそんな変化球でも理解できるけれど、弟子たちはこの答えをどう受け取ったのでしょうか?
しかし宗教(信仰)の大事な部分をここから読み取れる気がします。
宗教(信仰)は、言葉巧みに自分の宗教に呼び込むものではないという事。たまたまこの礼拝が終わり、午後の行事のわずかな間食事を作っている暇がなかったので、近所のファミレスに行ったところ、隣のテーブルでは中学生にも見えそうな若い女の子が二人1人の男の子を宗教の勧誘か何かで説得している最中でした。
始めはみんな不安だから、とか、みんなそう言うけれど結局は、と言う言葉がとぎれとぎれに聞こえてきました。
宗教(信仰)というものを現代人が必要としない風潮の中、まず言葉で説得することも大事かもしれないので、やみくもに否定はしませんが、僕ならその人の背中(日々の行動)を見て、その行動の源が宗教(信仰)であることを知ることでその宗教(信仰)に対して好意を持つので、行動無き言葉だけじゃなと言う気がしてしまいます。
言葉で説得させようとすると何か胡散臭さを感じてしまいます。それよりも自分の人生をかけた信条(理念)と行動の姿を見ればそこに共感を感じます。

イエスは、今までの奇跡を掻い摘んで語りました。そこから判断せよ、とヨハネに伝えなさいというのです。
そして(ここには記載がありませんが)その癒しの相手は誰彼かまわなかったことが「つまずき」と言う言葉から分かります。
イエスの癒しの相手は、社会的に差別を受けたり、偏見で見られている人が圧倒的に多かったです。ですから、癒しをすることで、社会の大衆から嘲りを受け、あいつらの仲間と言うレッテルを張られ、そして社会の権力者から圧力をかけられます。
迫害を受けてやがては十字架の死になることを知りながらイエスは癒しを続けています。
そんな迫害にも負けず神の愛を実践するものを神は愛すと言いますが、それは難しい事でしょう。

僕も今クリスチャンとしての人生を歩んでいます。が、今の日本は宗教への迫害はほぼなく、僕がこうしてBlogを書いても削除されることもありません。
2017年1月21日待ちに待った「沈黙」が公開されます。この映画の舞台は、クリスチャンを棄教させるために、自分ではなく、その人が一番大切にしている人を次々殺していくことで成就させようとします。
神への忠誠心と隣人愛との狭間で苦しむ姿と結論、時が違えばクリスチャンと言うだけでそうした人生を過ごさざるを得なかったかもしれません。
僕の家族や友人たちも、クリスチャンである“キャツ”の仲間として蔑視され危害を加えさえられるとしたら、たぶん多くの友人は僕のもとを離れていくでしょう。それでも信仰生活を続けられるか?

ヨハネも類様の罪で牢獄につながれています。
そんなヨハネは「荒れ野」で生活していました。
「荒れ野」と言う場所は現実にヨハネの居た場所でもあり、シンボリックな場所でもあると長井牧師は語ります。
それは旧約聖書出エジプト記でモーセら一行がエジプトを出たあと40余年さまよう場所です。
しかしその荒れ野の果てに祝福に満ちた約束の地カナンにたどり着きます。
その間には様々な誘惑が襲い掛かるのです。食事や異教といった誘惑を振り払った故にカナンにたどり着けるのです。
風に揺れる葦はローマ皇帝と言う権力の象徴、しなやかな服は財力の象徴。そんなものは「荒れ野」にはないと語ります。神の地へたどり着くには不要のものです。

そうしたこの言葉に隠されたイエスの言わんとしたことを聞き、ヨハネもその弟子たちも、そしてこの話を聞いた群衆の中にも(?)イエスをメシア=キリストと理解したのでしょう。

栄光の到来

2016年12月4日、小田原教会に与えられたみ言葉は、イザヤ書 59章15b-21節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20161204-01


それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。主は恵みの御業を鎧としてまとい 救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい 熱情を上着として身を包まれた。主は人の業に従って報い 刃向かう者の仇に憤りを表し 敵に報い、島々に報いを返される。西では主の御名を畏れ 東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み 主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる。これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると 主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに 離れることはない、と主は言われる。

旧約のイザヤ書、高等批評と言う学問的ジャンルでは3つの書物が一つのイザヤ書と呼ばれているらしい。その第3イザヤ書と言うところが今日の御言葉。書かれたのは紀元前538年~500年にかけたあたり。
バビロン捕囚から解放されて嬉々としてユダヤに戻ってきた人たちがエルサレムのあまりにもの荒廃に絶望し放心状態で虚無的になった時の預言。
希望を望んだが暗黒の中にいるというむごたらしい現実。そしてそのやるせなさから人々の心も荒廃していくスパイラル。
しかし、それに対して、神が「正義と平和」のために立ち上がる、と言う預言。

神の贖いとは何か? どう贖うのか?
贖いとは敵の手に渡ったものを「買い戻す」という語源。
「買い戻す」と言うことはそれだけの価値があるという意味。
エジプトの奴隷の身から贖われ、そしてイザヤの時バビロニアから贖われ、そして500年。今ローマ帝国の支配の中、3度目の贖いがあるという預言。それがイエスだ。

贖いの語源の「買い戻し」のため代償が神自身が傷つくという形でのひとりごイエスの誕生。皆の苦しみと原罪を背負われて死す運命のために生まれてきた御子。「買い戻す」代償としてはあまりにも大きな対価。
将来の死までが意味づけられた過酷な人生の中、その御心になろうと必死に生きるイエス。

昨今、天皇の退位の発言がニュースになっている。イエスのそれとはまた様相が違うことは確かだが、自分でリタイヤすることも許されない環境と言うのはおかしい。
イエスはすべての人に「神の正義と平和」を与えるために来たのであれば、老体に鞭を打ちながらも真摯に象徴としての仕事を死ぬまで続けなければならないという過酷さからも抜け出せなければ「神の正義」ではなくなってしまう。
僕らは誰もが生きるためにはしたくないこともしなければならないことはあるかもしれないけれど、それでもそれが体を壊したり、心が悲鳴をあげたりするまですることではないはずだ。
ブラック企業と呼ばれる会社以外でも多くの会社でたくさんの人が残業をしたり休日に出勤したりしている。でもそこでの違いは、会社からの絶対命令か、仕事が楽しくて充実していて苦労なんてないとかまたは上司がしっかりとケアーしてくれる会社かの違いだろう。
象徴としての天皇のこの発言は、「体を壊してまで勤める必然性」に疑問を持って自死してしまったブラック企業に勤めた若者たちの代弁だったのかもしれない。
神は何を購うのか? は人間らしく生きるのが当然と言う真理。
天皇の退位問題には法律を盾にNoを言う学者もいるようだ。ファリサイ人を思い出す。イエスは法を守る大切さを説きながらそれは愛によるものと語った。相手の言葉を熟考し何を望んでいるかを理解した上で対応するのが愛。

エジプトやバビロンの奴隷の生活は、帰りたいという強い意志を無視したブラック企業のそれだったのだろう。たとえその地で安楽な生活が出来ても、大きな望みがかなわなければその生活では満足できない。
そうした不満が爆発しないように贖ってくれる神の誕生。インマヌエル、いつも共にいますと言ってくれるサポート。それを感謝しながら今週も生きたいです。

気づきの時

2016年11月27日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 24章36-44節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20161127-01

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

キリスト教とは何なのだろう? 
イエスの生涯とはなんなのだろう? 実はそれがキリスト教なのだと思う。
イエスは唯一『死ぬことを目的として生まれた人』なわけで、受難の時を得るためにこの世に生まれた。つまりクリスマスの喜びは、死のために生まれるイエスを祝うことである訳です。
それを後世の僕らは聖書と言う書物で知っています。すべてを知ってクリスマスを祝う、つまりは受難のイエスの苦しみがなければクリスマスの喜びがないこと、そうでなければただ一人の男の子の誕生に過ぎないわけであることを知りながら、このアドベントを過ごしています。
誰でも成し遂げられる人の誕生ではなく、救世主の誕生故に皆で喜ぶのです。


イエス程に大きな仕事をする人はいませんが、僕らも神から与えられた仕事をこなす毎日です。それを終末と言う言い方で聖書は言っています。終末、それは絵画で有名な「最後の審判」など特定な日のみを想像しますが、マタイの福音書はイエスから上記のように語られていると言っています。

でも、このことは僕やRFL(リレーフォーライフ)のチーム・がんでもいいじゃん♪のメンバーはよく解る話ではないかと思います。
ある日突然医者から「あなたはがんです」と告知された日。そんな日は、神から世界を滅ぼすと言われたノアと同じだけの驚嘆を受けたでしょう。大げさかもしれませんが、初めてがんを告知された時はそのくらいのショックを受けるものだと思います。
長井牧師は創世記の7-8章でノアは神の言葉にひと言も言葉を発していないと語ります。黙ってただ黙々と神の言われた通り箱舟を作り乗り組み水が引くのを待ちます。
それは神にすべてを委ね神の通りにこの世がなりますようにと言う祈りの御自分の祈りにした生き方でしょう。
がんでもいいじゃん♪…、いやがんなんて嫌ですよ。って言われる病ですが、なっちゃった以上この病気と生涯付き合うんだ、がんになったからと言っても今までの私と何ら変わらないという信念。これを僕はノアの祈りの人生とオーバーラップさせました。自分の力じゃあどうにもならない部分は委ねるとしても、出来る事はBestを尽くす。それはノアもがんでもいいじゃん♪も同じベクトルの人生。

今日の聖書の箇所は言います。誰もが突然「その時」を迎える。2人いれば一人は連れて行かれる。まさに今がんにかかる人は1/2とも言われていることからすればその通りで、だから「がんでもいいじゃん♪」と今を一生懸命生きること、今日しなければいけない楽しいことを明日に廻さない、悔いを残さないと生きること。
毎日のささやかな出来事も、よくよく深く考えれば選択(セレクト)の連続です。その選びは祈りと神の御心に添うようにと、そして神よ願わくば楽しく平安で充実した時が過ごせますようにと言う祈りの中で選ばれた道が歩めますようにと願います。

がんでもいいじゃん♪と言うチームは当然のことながらクリスチャンのチームではありません。
でもがんになった時、目の前が真っ暗になり、どこに向かって歩いたらいいのか?と不安になるものです。
真っ暗な中、自分だけを信じて手探りで歩くこともいいでしょう。
でも、クリスチャンと言うのは、イエスと言うろうそく、聖書と言うろうそくを灯して歩くものです。ささやかな灯りでも安堵できるものです。
そして違う灯りを歩む異教の友もいます。その灯りでもいいでしょう。
そうした灯りの一つであるイエスの誕生の意義が伝われば至福の事であります。

あと4週間でクリスマスです。クリスチャンであろうがなかろうが、すべての教会は門戸を広く開けています。お時間がありましたら是非『クリスマスは教会で』

尊厳の回復

2016年11月20日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 25章31-46節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」



この聖書の箇所を見聞きすると、思い出すのは『くつやのマルチン』

昔、ある国にマルチンという働きもののくつやさんがいました。マルチンは、家族みんなで楽しく暮らしていましたが、ある日奥さんが病気で死んでしまい、とても悲しく思っていました。
いまは十才になるピーターと二人きりで住んでいました。ピーターはマルチンのお手伝いをよくするしっかりした子だったので、マルチンはピーターをとてもかわいがっていました。
ところが、ある日ピーターが病気になってしまい、高い熱が何日も続きました。マルチンは、神様に一生懸命お祈りをしました。
「神様、私の家族はもうピーターしかいません。お願いですから病気を治して下さい」
でも、とうとうピーターも死んでしまいました。
マルチンはとても悲しみました。マルチンはひとりぼっちになってしまったのです。
「たった一人私のそばにいてくれたピーターまで死なせてしまうなんて、神様はどうして私にばかりこんな悲しい思いをさせるのだろう」
と、マルチンはだんだん仕事をするのもいやになり、毎日お酒ばかり飲んでいました。

ある日、そんなマルチンを心配して友だちが訪ねてきました。そしてマルチンに「仕事もしないでお酒ばかり飲んでいて、天国にいるピーターが喜ぶと思うか。聖書を読んでごらんよ。神様のお考えや、君のしなければいけない事がきっとかいてあるから」
といいました。マルチンは言われたとおり聖書を読んでみました。ひとつひとつの言葉を大切に読んでいきました。そのうちいつのまにか疲れて眠ってしまいました。

「マルチン!マルチン!」
誰かが呼ぶ声に目を覚ましました。
「私はあしたおまえの家に遊びに行くよ」
姿は見えませんでしたが、たしかに神様の声です。マルチンは夢をみているのか、本当なのかわかりませんでした。
つぎの日、朝早く目を覚まし一生懸命お部屋を掃除し、いつ神様がいらっしゃるのだろうと楽しみに待っていました。

ふと窓から外を見ると、道の雪をとるお仕事をしている人がとても疲れたようすでしゃがみ込んでいました。かわいそうに思ったマルチンは、その男の人を部屋の中にいれてあげて暖かいお茶を飲ませてあげました。男の人はとても喜んで帰っていきました。
「神様はまだいらっしゃらないのかな・・・・」
そう思いながらまた外を見てみると、今度は赤ちゃんを抱いた女の人が寒さに震えながら立っていました。
マルチンはとてもかわいそうになり、二人を部屋に入れてあげました。そして、赤ちゃんには温かいミルクを飲ませてあげました。
女の人はとても喜んでマルチンに何度もお礼を言って帰っていきました。
もうお昼もすぎました。神様はまだいらっしゃいません。すると、
「こら、まちなさい」
女の人の大きな声が外から聞こえてきました。マルチンは驚いて窓の外を見ると、ひとりの男の子がおばさんからひどく叱られていました。 男の子はお店から黙ってリンゴを盗んでしまったのです。それを見たマルチンは急いで外に出ると、男の子に言いました。
「ぼうや、私がかわりにリンゴのお金を払ってあげよう。でもこれからは人の物を盗んではいけないよ」
男の子はマルチンに、 「どうもありがとう。これからはもうしないよ」 「おばさん、ごめんなさい」とお礼とお詫びを言って帰っていきました。

外がだんだん暗くなってきました。マルチンは今日一日のことを考えてみました。
そして、その夜お祈りをしました。
「神様、今日は三人の人のために私は出来る限りの事をしてあげたら、みんなとても喜んでくれて、私も嬉しくなりました。でも神様、今日はどうしておいでにならなかったのですか。私はとても楽しみにしていましたのに・・・」

するとその時、「マルチン!マルチン!」と声が聞こえてきました。たしかに神様のお声です。
「マルチン、私は今日あなたに会いましたよ。あなたは雪かきをしていた男の人を部屋にいれてあげたり、寒さに震えている女の人と赤ちゃんにミルクを飲ませてあげたり、リンゴを盗んだ男の子のかわりにお金を払ってあげましたね。それは、実はみんな私だったのですよ」
「えっ!では神様は私のところへ来て下さったのですか」
マルチンはとても驚きました。自分が世界で一番かわいそうな人だと思っていたけれど、もっとかわいそうな人がいることを知りました。
そして、自分のような者でも、人に優しくしてあげられることがわかり、何だか心の中がとても温かくなってきました。
マルチンは、神様はいつも私の事を見ていてくださるのだということがよくわかり、とても嬉しい気持ちになりました。



トルストイ氏はこの御言葉をわかりやすく文学作品にしたのだなと思えます。

礼拝では中田牧師が教訓めいた箇所だが教訓として味わうだけではいけない、と語ります。
そして、王が羊と山羊に分ける時の項目を再度確認されました。一つは食であり、一つは住であり、一つは衣であります。そのほかに健康と自由を以てその時にどうしたかを考えています。
旧約外伝のトビト記には、
シャルマナサルの存命中、わたしは同族の者たちに慈善の業を行った。
飢えた人々に食べ物を与え、裸の人々には着物を着せ、
また同族のだれかの死体がニネベの町の城外に放置されているのを見れば、埋葬した。

と記されています。それがマタイによれば埋葬の記述が無くなり、牢に訪問するという自由からの解放の祈りが書かれているようになりました。つまり、キリスト教が死者はすべて神に委ね、生きている者のための宗教になったことがわかります。
生きている者が必要なもの、生きている者同士相互相憐れむ関係性についてどうしたのかが、この王の区分けとなっているのではないでしょうか?
私たちは生き社会生活をする上において大切に思いたいものが、食・住・居・健康・自由の5項目でしょう。この5項目について自分がしてほしいように他人にしてあげれているかが今日の問題点だと思います。
サンクスギビングスディの時助けてくれたネイティブアメリカンに対してその後移民白人たちのしたこと、江戸時代や明治初期に北海道に渡って人たちがアイヌ民族にしたこと、終戦直前切り離して命乞いした沖縄の人たちには今もって僕らは極めてひどい礼遇を続けています。居、食、住、健康は目に見えやすいですが自由と言う尊厳は見ようとしなければ見えない差異です。山羊グループの人もその場を逃げようとして命乞いをしているのではなく、本当に自分が差別をしていることを理解していなかったのかもしれません。自分の行動が聖書の評価委にあっているのかはいつも確認しなければならないことでしょう。
単なる教訓ではない、日々の実践の言葉として味わいたい言葉で、この週もそうありながら生きたいものです。

神の平等

2016年11月13日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 5章38-48節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



改憲論議が日本でもなされています。憲法だけではなく、所詮人間が作った文字の取り決め、いくら頑張ったところで完璧にはなりません。そんな律法に対してイエスは後ろ向きではなく、前向きに「完成させる」と言います。

そんな持論をいくつかの言葉で裏付けます。
まずはハンムラビ法典の「目には目を」の定め。これは目を痛めつけられたとしても目以外を攻撃してはいけない、と言う意味だと昔教わった記憶がありますが、長井牧師は今日の説教の中で加害者の目で見てみることを薦められました。
右の頬を打つなら左の頬を差し出せ、と言うのも相手と向かい合わせて右利きの人から右の頬を叩かれる時は、右手の甲になってしまう訳で、それは当時の解釈では屈辱的な叩かれ方になります。ですから屈辱を受ける前に左の頬を出すことで、肉体の痛みだけで心の痛みは受けずに済みます。

ここで書かれていることは、加害者と被害者の関係性です。人間同士、何かトラブルが生じ、諍いがあるかもしれません。でも、そんな時でも被害者と加害者、弱者と強者、そうしたものが相手の立場に立つこと、それが本当の「定めの完成形」だというのです。
技術による「定め」で人間を牛耳るのではなく、人の感性・心・愛・情で、相手の気持ちに立つことで、お互いが生きることが律法の感性でなのしょう。

交差点で自動車事故が起こった、だから信号が出来た。でも信号が変わりそうな時に加速して事故を起こす人も出た、だから黄色信号を作った。作れば作るほど新たに破ることを考える。
なら文章でではなく、人の良心を高めること。イエスの言わんとするところはそこでしょう。

そしてイエスはあなたの敵を祈れ、と言います。
敵とはだれでしょう?
自分が正しい、だから自分の意見とは違う人は排他する。そうした自分を絶対視したら、他人は許せないし、失敗を願うことはあっても祈れないでしょう。
昔、神奈川県西の寒村に神奈川県内のごみをもってきて処分をしようと言う動きがありました。神奈川県が推し進める施設なので、力の差は歴然で計画が進んでいる最中、長をしていた方のご家族が落雷によってお亡くなりになりました。
そうした中、悪態をついた言葉も聞きました。神罰だという言葉も聞きました。
でもそうじゃない。誰もが幸せに住むために、自分たちが幸せに生きたければ、相手や相手のご家族も幸せに祈ることが大事ではないですか。
そしてその結果が自分の意見と同じであっても、たとえ違ってしまった結果であっても、その結果は神の御心と思うことが大事でしょう。
精一杯することと結果は違うのです。相手の言う形になるのは残念かもしれませんが、加害者と被害者が平等であることを悟りたいです。精一杯やったうえで『御心のままになりますように』と祈りたいです。

イエスと一緒に導かれる

2016年11月6日、小田原教会に与えられたみ言葉は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13-14節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

日本キリスト教団では11月第1週の主日を「聖徒の日」と呼びます。先達の方々を覚えて、でもキリスト教は仏教と違ってお亡くなりになった本人が「仏=神化」しません。あくまでもその聖徒をこの世に送り出してくれた、そしてそれに連なる私たちを教会に招いてくれた神を賛美する日です。
そしてこの日は教会によって「永眠者記念礼拝」とか「召天日」と呼ばれたりします。永眠と言う何となく後ろ向きな言葉よりも召天=神に天国に招かれたというほうが好きだと言う牧師のご意見には大いに賛同します。
人は誰でも必ず死を迎えます。これは例外がありません。ならば、この世において全力で走り切って、神様に「よくやった」と言うお褒めの言葉とともに天国に行けることが最高の最期ではないでしょうか?

今日の聖書の箇所を原語で読むと「知らずにいてほしくない」と言う書き出しです。
つまり、こんな大切なことなのに案外この世の人は知らない、と言うことがこの箇所の言葉です。

死に対して希望を持て、と書いています。
ふっと、がんサバイバーでシンガーソングトーカーの杉浦貴之さんのコメントを思い出しました。
がんと闘うことを決意したら、「絶対治す」と宣言しない。絶対とすると荷が重くなる。だから「治るに決まっている」と自分の体を信頼する。その希望が闘病につながるという旨のコメント。
人間は己のみに頼ると意外に弱いものかもしれません。もっと大きな力(ここで言う神)が加護してくれている信頼、これが大事であり、拡大解釈すると今日のこのみ言葉に通じるように思えます。

キリストはすべての人に救いをもたらすのです。それはクリスチャンでもブッディストなどノンクリスチャンでも同じです。そこで違うのは(受け手である人間が)イエスを信じて救われると思うかです。極端な言い方をすれば、それはキリスト教でなくてもいいのかもしれません。絶望をしないこと、信じること。それをしやすくするのが聖書です、悩んだときくじけそうになった時、希望を思い出させる本です。
クリスチャンになることが人生の目標ではなく、希望を忘れずに生き、そして最期の時は神のお招きをもって天国に行き、そしてそうした人生を過ごした先人に喜びを感じ出会い得たことを神に感謝することが目標でしょう。その信頼を忘れないこと。
今日は多くの方々と一緒に礼拝を共にしました。その方々がその信頼を持ちながら笑顔で生きられますように。
プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター