イエスその御名は

2018年5月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 4章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


不遜ながら『神』と言う言葉は手垢がついた言葉かもしれません。
(*手垢がついた:すでに多く使用され陳腐化しているさまなどを意味する表現。)
先週も記しましたが、どうしても擬人化した白髭で杖を持ったおじいさんのように、人間に神を似せて考えてしまう故に、矛盾する側面が生じてしまうと思うのです。
怪しく眉唾ものとして感じてしまい、宗教は胡散臭いと言われてしまうのだと思います。
人の延長では神をとらえることはできないと思うのです。だからあまり擬人化をしすぎる解釈は僕は好きじゃあないです(笑)

例えば今日の箇所も、神の霊を『考え』に置き換えると、僕らが日々すべての事をしていることにつながります。
何をするにも考えて判断をする、これはクリスチャンであろうがブッディストであろうが宗教を信じない人たちであろうがそうやって生きています。
命令形ロボットのようにすべての事を「ゴシュジンサマ、ナニヲシマスカ?」と尋ね、言われたことだけのみをする人はまずいないと思います。

考えて行動を起こす。
今日の箇所の最初は、神を知るために神(聖霊)と私たちは一体になると書かれています。自分で考えて行動を起こしているようですが、そうではなく、聖霊の働きが導いてくれていることは否めない、と言う考え方。これをクリスチャンは信じているわけです。
自分でしているようだけれど、神の導きがある。つまりは、行動のベースは自分ではない、謙虚になりなさい。
そして一つ一つの行動が、神の導きであるかどうか吟味しなさい=つまりは祈りなさい、というものです。

何か成功した、やったぁ!と喜ぶ時、何かしくじった、アーアと凹む時、すべてそこに神の意志が働いているのなら、その成功も失敗もすべて理由がある訳です。

連れ合いが15年ほど前にがんになりました。ご存知の通りがんと言う病は異形化して淘汰されなければいけない細胞が、間違って増え続ける病気です。ですからどんながんも最初は1個の細胞からなります。細胞分裂によって1個が2個に、2個が4個に、4個が8個になり、機械の分析や触手で解るようになるのは数年から5年経ってからです。
様々なきっかけがありますが、大きなストレスがあった、と言うのはがんになるファクターの中でも大きなものです。
がんになった時5年前を思い出すと、その時大きな生活の変化があったりしますが、それは前述の喜怒哀楽の時神の意志が働いていることを思い出す時、というのとリンクします。
その時理由は明確じゃないのかもしれません。
でもアクションがあった訳で、それを分析するのは、明日かも知れないし、数年先かも知れないし、死の床に臥せてからかもしれません。


神は最後に目に見えない自分を理解し愛するためには隣人を愛せよ、と言います。全ての行動は神の導きで行われていること。一つ一つに感謝の心をもって、そしてしくじった時でも、そのしくじりの悲しさ辛さを神が共に担ってくれることをも喜んで隣人と共に生きることができればと思います。

互いに愛し合うべきです

2018年5月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 4章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。



「神は愛なり」 クリスチャンになりたての頃、教会の友人から「不要になったものだけれど要るか?」と言われてもらった壁飾り。
今でも理解は全然できていないけれど、今より信仰理解のない時代、「神は愛する者」ではなく、「神」と言う「存在」が、「愛」と言う「抽象」「被物体」とイコールで結ばれていることに、何か違和感を感じたものでした。

20180506-01

今は、その信仰理解が正しいかどうかは別として、「神」を「物体」とか「存在」としてとらえることなく、「神」は「愛」のような「抽象の存在」「概念の存在」が僕の信仰理解なので、この言葉はとても好きな聖句の一つです。
「愛」と言う形ないものを、もし形にしたのなら、それが「神」だと思うのです。決して白いひげを生やしたおじいさんではありません。「アッバ(父)」とイエスが言った言葉、でも、その言葉は別に「父親」と言う意味ではなく、アガペー的に愛を注いでくれる親からあふれ出るその愛を言わんとしたのではないでしょうか?「父親」と言う存在ではなく、「親が無条件でそそいでくれる愛」「何も疑うことのない自分を愛してくれるもの」と言う抽象概念がこの言葉になった、その方が僕にはピンときます。

今日のこの箇所で、使徒ヨハネは神はその一人子を十字架の死と言う形をとり、人の罪を負わせたので、その神の愛に従ってお互い愛し合いなさい、と言われている。が、それを聞いて「はい、そうですか」言えるほど実は人間はピュアーではないと牧師は語ります。
イエス死後2000年の間、どこの地でかは戦争が繰り広げられ、いやこの日本でも2000年の間殺人がない日は一日もなかったのかもしれません。
殺されなくても、暴行を受けた人は後を絶ちませんし、その人に暴行をした人を許しなさい、と言うのは酷なことで、許せないと言うのが人間としての普通の感情でしょう。
今まで人を憎んだことなどないなんて言う人は誰も知り得ませんし、たぶん今後もいないでしょう。
愛し合いなさい、と言いながら、それは絶対出来切れない難解な業(ごう)の問題だと思います。

しかし前提をもう一度読むと、神は愛だと書かれています。だから愛し合えと言っているのです。前提は「神は愛」である(過去形)のだから、互いに愛し切れなくても、神はもうあなたを愛してくれているというのです。神は人とそう言う契約を結んだというのです。
その証拠がキリストが命をなげうって示した愛だというのです。
僕らが、「もっともっと」と神様に愛されるように努力するのなら、ではないのです。そのままでいいと言っているのです。

極端な言い方をすれば、どんな極悪人でもあなたや僕と同じように神様は愛されるのです。
鎌倉時代の僧侶親鸞の記した歎異抄には「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とあります。善人だって極楽に行けるのだから悪人が行けない訳はない、と言う一節。
罪の赦しを乞う、神の前に額ずき懺悔し悔い改める、それは人前で出来なくても神と一対一の場でそうすることが出来れば、人は許せなくても神は赦したもう、ということでしょう。
人には出来ないことも神には出来るのです。

じゃあ、何もしないでいいのか?と言えば僕は違うと思います。
なぜクリスチャンになったのか?と問われれば、誰もがイエスのみあとを歩むため、と答えるのではないでしょうか?
数学で習う「ベクトル」、これは文学でも社会でも使える考え方です。ベクトルは「方向」と「大きさ」によって成り立ちます。
「方向」はイエスのみ後です。つまりは「互いに愛し合いなさい」です。難解な業(ごう)の道です。
そしてそこに「大きさ」があります。言い換えれば出来高があります。100%が神の望んだものであるのなら、10%かもしれない。8%かもしれない。それでもいいじゃあありませんか! 神はそんな劣等生の僕らも見捨てずに救いを約束しているのなら、出来るだけの隣人を愛して生きていきたいものです。方向だけは間違えたくないです。

わたしにとどまりなさい

2018年4月29日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 15章1-8節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


説教の初めに清水牧師はぶどうに関する2か所の聖書を紹介されました。

イザヤ書5:1-7
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。

マルコによる福音書12:1-8
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

こうした聖書の御言葉から
神は正義を重んじる人々(甘いぶどう)を望んだのに、正義を踏みにじる人々(酸いぶどう)が出てしまったと語り、また、預言者(マルコの喩えの僕)を軽視し侮蔑し殺し、そして神の子(マルコの喩えの息子)を十字架に付けて殺したという、当時のイスラエルの農業の中ではわかりやすい農作物を喩えに使っていることがわかります。

そして今日の箇所も十字架の死を待つイエスの喩えなので、それはのんきに読むような箇所ではなく、この世の悪(人の心に入り込む)ものがいることを示し、それとの闘いを命ずるイエスの言葉として聞きたいものです。

清水牧師はこの箇所に「とどまる」が何度も使われていることに注視します。ぶどうの枝として幹と繋がって居れるようにとどまれ、と聖書は言うのです。

よくアクション映画で、主人公と敵役が高所で戦うシーンがあります。得てしてそういう時はどちらかが足を滑らして落ちそうになるのですが、仲間か相手が手を伸ばし必死に落ちるのを防ぎます。
いろいろなパターンがあります。落ちそうな人が落ちたくないと相手の腕をしっかりつかむ場合、助ける側が相手を落とすまいと必死に相手の手を握る場合、敵役が今までの自分の行動を恥じて相手の出した手を振りほどいて落ちていく場合。
今日の聖書は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と書かれています。僕らが何かの理由でキリスト教に希望が持てなくなっても、イエスは「わたしもあなたがたにつながっている。」と言ってくれています。
アクション映画で言えば「いいか、俺が絶対お前を助けるからな」と何とか落ちかけている人を引き上げる手はずを考えてくれているのです。落ちかけている僕らは、その手を振りほどかない限り助かるエンドが待っています。あなたがしっかりつかんでくれている手を振りほどかない限り落ちることはないのです。
「とどまる」とはただ神を信じてぶら下がっているだけでいいのではないでしょうか?
そもそもそんなシチュエーションで落ちかけている人が自ら何か出来る術はありません。ただ信じるだけ、ただ相手にすべてを委ねるだけです。
ぶどうの枝である僕らはそうやって生きることで救われることに希望があります。

「水を抜く」ダメージ

昨説教の話に通じるものもあるけれど、「突き詰める」「ピンポイントの真理の追求」は、「(キリスト教の言う)罪人」である人間には不可能なことなのかもしれません。
昨主日に与えられた聖書が語る「ピンポイント」は着ている衣服1枚は財産なのか?でありましたが、その晩見た「池の水全部抜く大作戦」でも、同様なことを感じました。

この番組に関わった方から、水の抜き方が生態系にやさしくない、という疑問を投げられたことがインターネットに載りました。
大勢の人が一斉に池に入り踏みつけながら歩くので逃げ遅れた魚が犠牲になる、等の意見は一理はあります。
沖縄の基地問題で「ジュゴンの生息地だから」という反対運動がありますが、僕は希少生物が居ようが居まいが同じだと思うのです。希少生物が居てもそこでしかできないことでどうしてもやらなければいけないのなら致し方ないし、たとえ何も生物が居なくともやる必然がなければやっちゃあいけないと思うのです。闘いの戦法としては「ジュゴン」を使うのは悪くはないかもしれませんが、僕は「希少生物の生息地だからほかに作れ」ではありません。基地自身の存在にNoなのです。

しかし、誰もが庭の落ち葉を拾い集める時、箒によって昆虫にダメージを与えているかとは考えなく、ましてやアリなどを踏みながら掃除していることに無頓着なはずです。
害虫防除の薬を撒く人もいますし、捕まえて駆除する人もいます。もっと言えば、雑草は大半の人が抜いて駆除するのは当たり前だと思っているでしょう。
極論から言えば、コレラなど危険な病原菌は絶滅させようと人類共通の願いとしてやってきました。

生命の重さに、明らかに違いがあり、池の魚や沖縄のジュゴンは守られるべきものであるけれど、雑草やコレラ菌はあってはいけない命なのです・・・と思われていると思うのです。

でも、僕の人間として生活している中、その考えはおかしい、とは言い切れません。蚊が血を吸ってかゆくなれば恨めしく思うし、草むしりが終わるとすがすがしくなります。
里山が荒れ居所を失った動物が人里に下りたニュースには恐怖を覚え自分の近隣に来なければいいと思いますし、海難事故で油まみれになった海鳥や大量のプラスチックが胃の中から見つかった大型海獣の話を見聞きすれば悲しく思うものの、残念ながら自分の生活から石油製品を皆無にする不自由さは考えられません。
「環境」という言葉は人間が作り出した言葉です。人間がいないところには、自然や植生などはあっても環境はありません。環境は人間が住みやすいように変化させるゆえに環境です。
ですから環境的に考えれば、コレラ菌の管理ですらも公衆衛生的な環境問題ですし、至極当然な管理だと思います。

エゴイストである自覚は持っています。それは、イエスに問うた若者と同じ悲しみを抱えたものです。
が、ストイックに生きたところで、完璧は出来ないでしょう。
一休禅師は、蚊帳から片足だけ外に出して寝たという言い伝えが残っています。それは手足が両方出ていると思わずつぶしてしまうのでたたけないように手は蚊帳の中、とのこと。僕には脅威のストイックな発想ですが、それでも完全ではないわけです。
それを言い続ければ、イエスすら完全ではなかった訳です。イチジクも枯らしたり、アリを踏まないように歩いた話はありませんし…。
聖書の言う罪とは「神の意志」に背くということなので、聖書から得るものは「哲学的や倫理的な側面でありどう生きるか?」の追求のように思えます。
今の科学のように自然界や生物界をもコントロールし始めている中、2000年前には考えることもなかった目に見えない生物の存在やたとえ同じ人間でありながらも性差が色濃く残る時代において動物や昆虫への愛情などは、聖書ですら語られなかった、事も確かだと思います。

そう考えると、宗教は自分の生きる時代時代で自身の持ち得る知識を加味してなるべくBestに近づくことが大切なのかもしれませんし、逆に今の僕らも「せいぜい21世紀の知恵」レベルなので、全治の神に全てを委ね、無理する毎日ではなくただ神により頼むだけが大切なことかもしれません。
ただどちらにしても確かなものは「完全な人はいない」「誰もが罪人」であることの自覚なのでしょうね。

池の水を抜く時にどれだけ十分を尽くしてもダメージを与えることは確かで、水を抜かなくても生きていることだけで地球にダメージを与えています。それでも神は生きることをよしとしてくださったことに感謝をもって生きたいです。
この最後の言葉が先日の説教の大事な部分でした。

神のみに信頼を寄せて

2018年4月22日、日本キリスト教団平塚中原教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 10章23-31節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(島牧師の説教はこちらで読めます

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


小田原教会前任の島牧師が、平塚の小さな無牧の教会で説教のご奉仕をなされると言うので伺って来ました。
小田原、聖契松田、そして旅先での様々な教会に伺い、それぞれの礼拝スタイルを見るとその教会の色と言いますか、大切にしているものが見えて興味深いものです。
特に聖契松田と平塚中原は、礼拝中「立つ」ことが少なく、また式文に従った唱和もない点で類似しています。ともに10人前後の群れだからかもしれませんが、礼拝自体自然体な点も似ていました。

20180422-01

さて、今日教わったお話をば。
有名な金持ちの青年のお話は、少しずつの違いはあれどどの福音書にも載っている話です。

島牧師は、過去から講解されている2点をまず挙げられました。1つは、財産は悪、と言う発想。そしてもう一つはイエスに従うこと、と言う点。
1点目のことから言えば、イエスの着ている衣類は財産なのか?と言う議論が中世のカトリック教会の中で本気に取り上げられたことがあると語られます。
そして併せて、2本の映画を紹介されました。1つは、ブラザーサン・シスタームーン。もう1本は薔薇の名前と言う作品。
後者は名前すら知らない映画でしたので、このBlogを書く前にぜひ見ておきたいと、Amazonプライムで翌日着を見つけてポチリ、としてただ今観終わって書き始めた訳です。

20180423-01

中世カトリックは、財をなし巨大化していく訳です。力を持てば、支配欲がまし、魔女狩りや免罪符と言った、祈りの場としての教会は形骸化してしまう訳ですが、同時に清貧を求める考え方も広がった時代でしょう。
修道会などはそうですし、そこから派遣された日本への伝道をした師たちの部屋は誠に質素であることが、今も長崎を始め見ることができます。
嘘か誠かはわかりませんが、千利休も茶道を確立した時の躙り口や詫寂は、その清貧を旨に日本に訪れた宣教師たちからヒントを得たと言われていますが、僕はその意見は興味深く思っています。秀吉の成金主義を諌めるにはこの清貧の精神は使えると思ったのではないでしょうか?
同様に中世ヨーロッパの各修道会もイエスのこうした言葉を実体験しようとし、中央のカトリック教会とのベクトルの差を感じていたのかもしれません。
ベクトルの違いは、カトリック教会自身も持っていて、権力を未来永劫持ち続けるためには、財産的に貧しい庶民の敵意が教会に向かわないように考えていたのかもしれません。
映画「薔薇の名前」の中にも、異端宗派のドルティーノ派は、この修道会の中でも小さくなって過ごしており、財産を持つことに寛容なフランシスコ派の主人公に敵意を持ったりもします。
同じ清貧であればこそ、些細な違いが許せないのは、聖書の世界でもつい先日までの日本の学生運動や、いやもっと最近でも選挙のたびに話題になるのは、野党共闘ができるか否かと言う話と同じなのかもしれません。(まぁ日本の2つは単なる権力争いだけなのかもしれませんが)

しかし歴史を見ればこの後宗教改革が起こる訳です。ルターやカルヴァンが清貧を柱としてカトリック教会にプロテストします。

しかし、この時イエスが言いたかったことは何なのでしょうか?
逆に、青年が教わりたかったこと、問答を聞いた弟子たちが思ったことは何でしょう?
この直前青年は、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と書かれています。ペテロはすべてを捨てて従ってきたので大丈夫ですよね?と不安がるのです。
救われる「ために」何をするか? の回答をイエスに求めているのですが、イエスは『自分が何も持たなくなった時に神の従って生きられるか?』を問うていたわけです。
インマヌエル、神共にさえいれば(財産などなくても大丈夫)恐れずに足りない。

見方が逆さま故に、青年側からの見方だけだから、この聖書の箇所はストイックな薄い服1枚も財産なのか?と言う議論を生んでしまうのかもしれません。
イエスの言わんとした側からの神への帰依、すでに救わられている感謝、財産よりももっと確かな神の大きな愛、に安心していきたいものです

cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~)

第2回目の会合。
今日のコーヒー当番は僕、という事で、スマトラマンデリン中挽きを持っていそいそと(^_^)/

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まずは忘備録。コーヒー豆を計量スプーンで入れると、中挽きより少し多めになるみたいです。15スプーン引いたら少し(約05スプーン)余りました。
その量でも、濃い目が好きな僕にはちょうどよかったですが、少し苦いと言われた方もいました。
何よりも、今の世は10人居たらコーヒー3~4人、紅茶6~7人と言う感じで、意外とコーヒーは人気無いようです。

E姉のケーキ。甘さが抑えられて、レーズンの酸味と塩梅ばっちし\(^o^)/

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今日は講師として来ていただくはずだったTさんは、ご家庭の事情で叶わず。
そんな訳で集まった人で雑談となりましたが、新しく来られたHさんやNさんやお久しぶりの名前失念氏ともおしゃべりできてそれはそれでよかったかな、と。
次回に合わせて、ネパールコーヒーを購入して次会に備えます。

イエスその御名は

2018年4月15日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉はルカによる福音書 24章36-49節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


このBlogを読まれた方で、キリスト教の考え方っていいですよね、と言ってくださる方はたくさんいても、キリスト教を信じます、と言う方に出会ったことは本当に稀です。と言うよりそういう方は僕のBlogから信仰の道に入った訳ではなく、Blogの文字は単に神様が与えてくれたきっかけの一つだったのにすぎません。
「信じる」と言う事柄は「事実」ではない訳で、「証明」は出来ないものです。逆に「証明」できるものは「信じる」必要性はなく、信じなくてもそうなっちゃうのです。そうなるかどうかわからないから「信じる」必要があるのです。
ですから「信じる」ことは、このBlogの文字のようなもので他の人がどうこうできるものではないのです、人の力によって信じるように見えたとしてもそれはすべて神の力なのです。
神の力、つまり今日の御言葉で言えば、神の力で「心を開いた」ら、信じれるのです。他人が「信じなさい」と言ってどうなるものじゃあありません。
イエスの弟子たちが、復活のイエスに出会ってでさえ、幽霊を見たのだと恐れおののくのです。21世紀を生きる僕たちが、神の力なくして信じることは不可能なことなのでしょう。

そして今日最後の「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と言う御言葉。これはペンテコステへの預言でしょう。イエスに出会った弟子たちはこの言葉の意味は理解できたかできなかったかはわかりませんが、この後もイエス一派とわからないように隠れ震えながら生活を続けます。
そしてペンテコステを境にキリスト教は変わります。
イエスと言う神の子の誕生と復活。これが記念すべき日だと言うのは重々理解できますが、ペンテコステの大事さは僕はいまいち理解できてなかったと思います。しかし人目を避けていた人たちが、死を恐れず自己主張すると言うのは、神の力のほか何もないのでしょう。
イエスと言うメシアの誕生と復活だけでは、宗教として成立しなかったわけで、それが今日多くの人が神の力を信じ、イエスのみあとを歩むことをよしとしているのは、信徒の宣教の力があると思います。
『あまねく告げ知らせよ』、困難にあってもそれを実行した「人間の力」、これが3つ目のキリスト教の大きな喜びの日、ペンテコステなのでしょう。ただイエスのみを讃える集団ではいけないのでしょう、神から頂いたタラントを生かす生き方をしなさいということを思い起こし奮える日がペンテコステなのでしょう
そういう意味では、「信じる」という行動の奇跡の本質を教わった気がいたします。

さて、途中不可思議な一文が挿入されています。それは復活のイエスが焼き魚を食べた、と言う記載。なぜ魚を食べると信じれなかったものが信じれるようになるのかは不思議な感じがしますが、エマオに行く途中の2人も同行者が誰だかわからなかったもののパンを裂いた瞬間にイエスだと分かったという記述があります。
パンと魚は5000人の給食の奇跡で出てくる食物。そして食事を共にするという、生きるための最大要因を一緒にする中で信仰も共有できるのかもしれません。
教会の仲間(兄弟姉妹)であったり、クリスチャン以外の友人であったり、親交を深めるのは食事の場であったりするとなるほどと思わず納得してしまいます。

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神によって生まれた者

2018年4月8日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-6節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。



3つの事柄が書いてあるのだと思います。
1つは、新生。神によって新たな命に生きる。
次は、神によって生まれたものは神の命令を守る。
そして3つ目に勝利の約束。この世との戦いとは何か? が今日の主点だったような気がします。

この世との戦い、とは何か?を考える時に、まずではイエスは何故十字架につけられたか?があると思います。イエスを十字架につけたのは、特定の誰れ彼れではなく「この世」だと思うのです。
イエスの行動は律法を破ってまで人を愛しました。
昨日舞鶴での地方巡業中に挨拶の市長が倒れ、その心臓マッサージをしようとした女性隊員に「女性だから土俵から降りるように」というアナウンスがあったことで、世論は大きく紛糾しました。まさにこの話は現代のイエスの行動です。
では、悪いのはアナウンスをした行司さんなのでしょうか? 僕はそうは言いきれないと思います。(推測ですが)彼は相撲の業界に「入社」した時から女性は土俵に上げてはいけないと言い聞かされ、それを堅実に守っただけです。 
しかし、彼は「何故女性は駄目なのか?」を疑問にもたずに盲信したのだと思います。その結果、偏見・蔑視から生じた差別が人命を上回ってしまった、故の発言なのではないでしょうか?
イエスもそうした盲信に近い偏見と闘った訳です。

世論の危うさも、イエスを十字架につけた事由の一つです。あれだけイエス、イエスと言っていた民衆の離反。極悪人バラバよりも悪いと言うイエスはいったい何をしたのでしょう?
何もしていないことは民衆誰もが知っています。それでもイエスを十字架につけろ、と騒ぐのは民衆でした。
「平成」になったあたりからの選挙を見ると、大勝大敗を繰り返しています。もちろん小選挙区制と言う悪しき選挙制度がそうさせていることは確かですが、国民が我慢できなくなっているのもその一因だと思います。
たとえば、政権交代をした民主党は具体的に何もさせてもらえないまま3・11が起きて、国民は「何もしない」と政権を見捨てました。まさに当時の民衆の愚行を再現したようにすら思えます。

こうしてみると、人の大きな悪行は無知なのかもしれません。考えようとしない姿なのかもしれません。自分の意見を押し殺す弱さなのかもしれません。ただ大勢と言う世論に流されているだけが、イエスの十字架の大きな理由のように思えます。

そしてそうした中、イエスはただ神のみに委ねて十字架につかれました。その人たちを許してほしい、と言う願いが最期の祈りでした。
その十字架の死を神は御心としたのです。それ故に、「復活(甦り)」をしたのでしょう。

僕らがどう頑張ってもイエスのまねはできません。例えば自分の家族がひどい目に遭わされたら無条件に相手を許せない訳です。イエスのように自分の命すら無条件に捧げることなどできないのです。

しかし、今日の聖書の箇所は、イエスをメシアと信じるものは世に打ち勝てる、と書いてあります。完全にはイエスに追いつけないかもしれませんが、イエスを十字架につけた「何者」かを知って闘いを挑もうとしているだけで大きな前進であり、神の御心に近づいたのではないでしょうか? 
讃美歌21 372『幾千万の母たちの』の4番の歌詞中の
こころに合わせ いまいのる
自分の中の 敵だけを
おそれるものと なるように

と言う歌詞のように、悪魔と自身との闘いに信仰の力で打ち勝ちたいものです。

そこでお会いできます(2)

1か月ほど前見つけたイスラエル旅行の募集広告の詳細。ヴィア・ドロローサ、イエスの十字架への道の中にヴェロニカ教会という文字を見つけました。
そう、昔教科書の中に、遠藤周作氏の作品の「ヴェロニカ」が取り上げられていたのを思い起こします。
しかし、40余年内容はすっかり忘れてしまっており・・・。なぜか急に読みたくなってインターネットでポチリ。

20180403-01

イースター礼拝の説教で、イエスは墓にはいない、という聖書の講解を受けました。
何が大切なのか再考せよ、という大事な話。
まさに、このヴェロニカの聖骸布を本物かどうか?という話でもあるのではないでしょうか。それは偽物でも構わない、いやどう考えても「本物」ではない!!
しかし・・・、
遠藤周作氏は一度は肯定したヴェロニカと言う女性の正体。イエスが大恩人だというお説。
いや、それも否定しましょう。
イエスを全く知らないけれど、目の前に息も絶え絶えに重い十字架を背負って歩く人を見た女性がいて、思わずヴェールでその人の額の血がにじんだ汗を拭いてあげようとした行動があったのかもしれません。
いや、これも再度否定しましょう。
ローマ兵や興奮した市民が見ている前で、その行動も気後れしてできないけれど心の中で「かわいそう」と思う女性がいたとしたのなら、その気持ちを汲むためにシンボリックな聖骸布が生まれる意味はあったと思うのです。

本「ヴェロニカ」は、後半第二次世界大戦時に傷ついた敵国ドイツ兵をかくまったフランス人に言及します。見つかった敵国兵はもとよりかくまったその女性も嬲(なぶ)り殺されました。
同じキリスト教を信じる者同士、憎しみあい戦うことはナンセンスという考え方は、国家と言う権力の前には無力化されていましたが、その中でもテゼ共同体という修道会を生み出しました。その働きは彼女の生活には間に合いませんでしたが、静かに愛を広げていきました。殺された女性の墓には「あなたは我々より本当のフランス人だった。人間だった…」の文字があると言います。
まさにドイツ兵と言う形に変えた聖骸布、ここに神様の愛の働きを実践する女性を通して、僕らは墓でないところにイエスを知りました。

盲人象をなぜる、ということわざがあります。全体が見えなければ撫ぜた部分が全てと思い、足を触った者は象とは太い柱のようなもの、鼻を触ったものは長いひものようなものと思うということわざですが、返せば触った人はその一部分でも知ることはできますが、触らないものは全くどんなものかは全くわからないのでしょう。
誤解を恐れずに言えば、神の存在も信仰に触れたものはほんのささやかでも神を知ることができ、その媒体がたとえ先人が作った聖骸布からでも神の愛を知れればよいと思うのです。
イースターの出来事。それはそこから僕らが何を読み取って感じ、自分のモノにするかなのでしょう。
宗教学・教義とか宗教の組織論ではそうでないのでしょうけれど、個人が神を見上げることにとっては、難しい話は不要ではないでしょうか?

感動や希望を感じ、神の愛に触れることは、100%ノンフィクションでなくてもいいのではないでしょうか?
どの宗教も、粛々とフィクションである創造の物語を信じているのは、そこに感動と希望と愛があるからだと思います。
それがフィクションかノンフィクションかを議論するのはまさに墓場の話、学者に任せましょう。そして僕らは出来事の本質である感動と希望と愛を実感し、その上にある人生を感謝と謳歌できればいいのではないでしょうか。信じるものとは希望と愛なのではないでしょうか。

午後は愛餐会

日本キリスト教団小田原教会では、クリスマスの時のみ愛餐会を開催していましたが、松田教会では今日イースターも愛餐会をし、教会における家族みんなでイエス様の復活をお祝いします。
20人にも満たない出席者数ですが、御馳走が並び、催し物を楽しませてもらいました。

20180401-01
教会員の皆さんありがとうございます、どれもおいしかった\(^o^)/

20180401-02
E姉の腹話術。当たり前なのかもしれないけれど本当に口が動かない(笑)
しみじみと見て思ったのは、腹話という口を動かさないことはもちろんだけれど、人形をどう動かすかが大きな要素なんですね。真剣に見ちゃいました(^_^)/

20180401-03
E姉、Tk姉、Te姉による人形劇。お三人はCSの教師をなさっているだけあって流石です。しかしなんで権兵衛さんなんだろう?

20180401-04
R兄、A姉によるライブ。
お二人は目にハンディがありますが、素晴らしい演奏。迫力ある!!
ちなみにR兄は礼拝の奏楽もなさいます。

御殿場線上りは13:05のあとは14:17。会が終わったのは13:15、約1時間ありましたが、M姉や牧師と雑談が出来てそれも恵みでした。感謝。
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