みんな違ってみんないい

安倍内閣の支持が落ちないのは僕の中では七不思議の一つです。国体護持のために個人の権利を押さえる、義務を強要する主張は、つまりは中国・北朝鮮のやっている共産主義にほかならないでしょう。
共産主義自身僕は多くの日本人が持っているほど嫌いではありません(支持政党ではありません、主義主張が合わない人の除籍率はたぶん日本の政党の中でもトップだと思います。話し合えない、トップダウンの姿は望ましいとは思えません。)
でも、ひとつの方向性しかもたずに一丸となってというのは危険です。個人の権利を度外視してお国のためにと言う生活は、放映される北朝鮮のそれであり、第二次正解大戦中の日本のそれです。
余剰なものを持っていない人と分かち合うならともかく、上記2例は持っていない人から絞り出させてでも国体護持のために使用したわけです。
そうした悪しき風習を当然とさせるために、自分では考えらせない、「しょうがないよ」とあきらめらせる洗脳・・・。
一つ方向に一丸となって進み、そして日本は敗戦を迎え、北朝鮮も現在は困窮の生活の中にいるように報じられています。

夢枕獏氏が著書の中でアンモナイトとオウムガイの違いを書かれていました。
アンモナイトは律儀に月齢を殻に刻みましたが、オウムガイはいい加減でした。
その結果アンモナイトは条件が外れた時に全滅をし、オウムガイは新たな条件に適合したいくつかの種のみですが生き延びました。

国家とは何か? といえば貝で言えば種。国民は個でしょう。
個がみな同じにされた時、国際ルールから外れたりすれば種自身は亡国となるように思えます。1か0か、というデジタルな思想は危険です。是々非々でみな意見を出し合い、論議し合うからこそ素晴らしい社会が育まれると思います。
本来優柔不断に変化が可能な融通性が求められている中、国体護持という道徳教育で思想を洗脳するがの如く同じ価値観のみにし、共謀罪で違う価値観の人を告発逮捕させる、それではアンモナイトになっちゃいます。

明らかに国体という共産社会の構築を進めているのではないでしょうか? 中国共産党、金一族の独裁国家、それと同じような日本になった時に国民の生きる喜びがかなり束縛されてしまうような気がしてなりません。
しかし、知ってか知らずか、声が上がることは少ないです。口をつぐんでいる人の姿が、北朝鮮の町行く人があれだけ困窮しながらも主席をほめたたえる言葉しか口にしないのとオーバーラップしてなりません。
その姿はマスコミにもあてはまります。表面は批判の報道がなされても、突っ込んだところまで報じる姿は少ないです。のど元過ぎればの喩の如くフェードアウトでニュースが消え去ります。政治が財界に、財界はスポンサーとしての圧力をかけている事が容易に推測されます。

フレキシブルなみんな違ってみんないい、これこそが国力を増進させるものだと思うのです。自分の理想の国家像を語り合いたいものです。

神の望むこと

先週のパトビラには、釜ヶ崎の本田神父の言葉を書かせてもらいましたが、実は自分自身でもしっくりいく文章ではなく、その後のコメントも納得いかないものでした。
そんなこんなで(「こんな」の方は7月に本田神父の教会で礼拝をさせてもらうのに今読み漁っている最中なので)ネットの読み歩いていたら、真宗大谷派円光寺さんのSiteがヒットしました。
ここに言いたかったことに非上に近い言葉があったので、許可を取らずに勝手にで大変失礼ですが抜き出させて頂きます。

助け合うことは大事です。しなきゃならない。だけど、それがすごくいいことをしているかのように勘違いしてしまう。聖書の中に勘違いさせる言葉があるんです。イエスが「人生の最後に、それぞれの生き方に応じて神さまの裁きを受けなきゃならないよ」みたいな話をするんですけど、その中でこんなことを言っています。

「私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」

 つまり、飢えている人に食べ物を与えること、これは神さまにしてさしあげていることなんだと思わせるような言い回しで聖書に書かれています。
 だけど、私が釜ヶ崎に行って労働者から気づかされたことは、「そんなことで得意顔をするな」ということでした。誰が好きこのんで人からものをもらって生活したいと思うか。どうして、にこやかに「ありがとう」と返事ができるか。そういう訴えだったわけですよね。

(中略)

原文でも日本語聖書と同じことを言っているのか、ということで調べ直したわけです。調べてみたら、なんと原文はちゃんと釜ヶ崎の仲間たちの思いにそうようなことが、きちんと書いてあった。
「私が飢えていた時、自分で食べていけるようにしてくれた。私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた」

 そうなんです、これが大事なんです。ない人には施してやれ、ということではなかったのです。やはり、痛みを知る人たちこそ、仏さまの心、神さまの心をもっているんですね。


そして前後しますが

「本田さん、ゆうべはありがとうな」と。夜回りのときことばを交わした顔見知りの野宿者でした。「ありがとう」といわれて、なんか報われた気持ちになったんですね。しかし、そのあと、しみじみとこう言うのです。「だけどなあ、ああいう姿、自分の娘にだけは見られたくないわなあ」。ずきんと胸に刺さりました。
 自分は大事なことを勘違いしていたことに気づかされたのです。私は「彼らのためにいいことをしている」としか考えていませんでした。その「いいこと」が、同時に彼らに「つらい思い」をさせてもいることに、考えが及ばなかったわけです。
「ああいう姿、娘にだけは見られたくないわなあ」という思いに、気づきませんでした。災害時の、一時的な緊急避難ならいざしらず、問題解決のめどもないまま人からものや食べ物をもらってしのがなきゃならない自分・・・。何年も前に別れた娘、ひそかに成長を思いえがいている自分の娘に、こんな姿は見せられない。そんな気持ちをあいてに起こさせる夜回りでもあるのだ、決して誇れるようなことではない。

 どんぶりを渡してるのに愛想がないからといって、文句を言えることではなかったんだ。そこそこ足りてる者同士とちがう。食べ物をもらって、「ありがとう」と言葉を返すことで人間が豊かになるという考えは、足りている者たちの発想でしかないんですね。むしろ仕事があれば、誰の世話にもならず、堂々と食堂ののれんをくぐって、自分のふところと相談して食べることができる。そういう状況を造り上げる支援、それだったら胸が張れるんじゃないですか。


僕らは僕らの活動を通して『ごめんな、こんなことしかできへんねん』が返事なのでしょう。
「ありがとう」は辛い気持ちになりながらも、僕らに頭を下げてくれる人に僕らが言う言葉なんですね。

良い言葉に巡り合えました。

5月25日のパトビラ(№979 - 居宅設定それは権利の行使の場でもある -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


国会議員は広く国民の平等たる権利を守るために代表として政府と対峙してくれる存在です。が、すべてを見切るには無理があります。同時にこの問題だけは絶対に叶えたいという強い意志をお持ちの方も多いでしょう。
山本孝史さんと言う議員がおりました。彼は3期目の任期中に「がん」であることが判明。そこからは日本人の約半数がかかるがんへの国家的な対策がなされていないことに気がつき、最後の任期は、その問題に取り組みます。
国会には酸素マスクを着け、医師の資格を持つ議員が党派を超え体調の急変に備えケアをしながらがん対策基本法を与野党全会一致で可決させました。
命を懸けた闘いは感動を呼びます。そして感動は真摯に考える力を生み出します。一つの政策は一人の議員の命を懸けた闘いによって生まれました。しかしさまざまな問題はそれ以外にも山積しています。いや、逆に国民の望まない法律ばかりいくつも上程しているのが現状かもしれません。国民の権利や生活を守る議員を誕生させ、育み、そして議員提案で法を作り可決させる、それは僕ら国民の責務なのかもしれません。
野宿生活からアパートへの入居、そこにはご自身の生活だけではなく「選挙権」と言う大事な権利もついてきます。


議員は「仕事」と思えば、「仕事」の効率が優先され、つまりは「選挙権」のある人の意見ばかりを聞くわけです。
が、社会正義でいえば、「選挙権」を持たない、または比較的マイナーな人々もいます。その代弁者としての議員は絶対に必要な存在です。
山本さんはご自分ががんになったことで、この国民病に立ち向かおうとしたのですが、残念ながらホームレスから議員になった人はいないようで、またあれだけ多くの大臣経験者の議員が失言を繰り返していることから、弱者の事を推測して何とかしようという方はきわめて少ないのでしょうね。
山本さんがご逝去されて国が対策を考えている最中にも拘らず大西英男衆院議員は『がん患者は働かなければいい』と言うは問題発言をしました。
こうした社会を変えるには支援者だけではなく、野宿生活をしている人が居宅設定をして1票でも可能性のある人に投じる事しかないでしょう。
そんなことでは世の中変わらない、と言われるかもしれませんが、僕らの一番のカードは「ハチドリの一滴」と言うカードです。

がんばれッ!日本国憲法 -わたしたちの憲法劇ー

久野の産廃処理施設の反対運動の弁護を引き受けてくださった岩橋弁護士がある日チケットを持ってきて「こんなイヴェントがあるから見に来ないか?」と言われたのは多分1993年ころだったと思います。お付き合いのつもりで見に行った憲法劇は思った以上楽しく、そして自分が様々なことを知らなかったことに気が付かされます。
特に思い出深いのは、下田判決。日本は唯一の被爆国、と反戦反核をいいながらも、こんな大きな判決を知らなかったこと、そしてそれをわかりやすく教えてくれたことは、いまでもその時の憲法劇の話を原点として話させて頂いているぐらいです。
しばらくお休みをしていましたが、今日日のおかしな方向に進んでいる政治を憂い昨年から再会。
Facebookで再開を知ったので早速見に行ってまいりました。

今年のテーマ1.海老名マネキンフラッシュモブ裁判

20170520-01

吉田美菜子海老名市議らが、安倍政治のおかしな方向性を憂い、海老名駅前の自由通路で、マネキンのように動くこともしゃべることもなくただ意見パネルを持ってポーズをしている行動が、市の海老名駅自由通路設置条例で禁止されている集会やデモに該当すると判断され今後のパフォーマンスの禁止を請求。これに対し条例自体が表現の自由を過剰に規制するもので、憲法に違反すると主張します。
市行政はマネキンフラッシュモブは、デモンストレーションを語源とするデモに当たると判断し、また多くの市民が迷惑を被ったと語りますが、一般的なデモの規定とは食い違い、何よりも市民の応援はあれども市側にクレームの問い合わせはないなど、言い分はまったくセコンドが無いまま裁判所も表現の自由を損なうと判決。

20170520-02

行政はそうした裏付けがないまま担当の自分の考えや上司の勝手な判断を検証することなく鵜呑みにして押し付けることは多分にあります。
小田原でもなりわい交流館を平和行進の休憩場所として申し込んでいたにも拘らず、当日平和に関するのぼりの存在を持って入居を拒否しようとして諍いがあったことがあります。もちろん、拒否できるよう件ではなく、市側の謝罪とともに入館はできましたが、勉強不足と勉強不足である認識が無いことは多分にあります。
今回小田原市で起こったジャンパー事件も、元をただせば保護課職員が法に乗っ取った正しい解釈をせずにアパートからの退去に手を貸し無低施設に入れようとしたことが問題であると「生活保護行政乃あり方検討会」の中で検討委員の森川弁護士が言われました。
法に乗っ取って粛々と手続きをしなければならない行政が時折おこす間違いは、残念ながら「面倒なことはごめんだ」と言う事なかれ主義の過ぎたるものが多いように見受けられます。面倒くさがらずにきちんと法文を読めばトラブルにならなかったことが多いように思います。

20170520-03

2.資生堂アンフィニ訴訟

20170520-04

アンフィニから資生堂に人材派遣された22名の方は過酷(危険)な仕事も黙々とこなし自分たちの作った製品に誇りと喜びを感じていましたが、契約更新直後に資生堂側からの契約中止を受け、派遣社員の明日を無視して派遣社員の解雇を飲みます。
解雇されたメンバーは団結し、自分たちを守らず解雇に同じたアンフィニだけではなく、直接解雇をした資生堂を訴えます。

20170520-05

バックボーンには人材を命ある人としてではなく、ただ企業の経営のための道具のように使われ経営があったしたら勝手に解雇するという平成になるころからの日本の経済の風土があります。
コンビニより多い人材派遣業。たとえば飲料水の販売やプールを主とした遊園地は夏忙しく冬が暇です。スキー場はその逆です。
そうした波の大きな仕事は人材派遣業で忙しい時バイトを雇い、暇な時に解雇することは分かります。しかし働きが良ければ来年の再雇用は企業としても望まれるものでしょう。派遣業者が自分のところを信頼してきてくれた応募者の人生を受け持つくらいの気迫で携わってくれれば大きな問題はないと思います。
それに対して一時的な増産を人材派遣で補うことはどういうことなのでしょうか?ただ単に、企業の収益率のアップだけで社会的には何のメリットはありません。
しかも資生堂。女性のための企業が女性を無慈悲に解雇をする姿はやはり企業イメージのダウンでしょう。
そんな裁判と勧告。解雇を受けた22名への全面勝訴で終わりました。

20170520-06

3.桜本ヘイト問題

20170520-07

憲法問題を川崎でやった時のことだそうです。
憲法の大切さを訴え、日本国民を守ろう! と言うと悲しそうにオモニが、憲法は私たちは守ってくれないんだね、とつぶやかれたとか。
確かに日本国憲法は、日本国籍を持っていない方の事は対象にしていません。
それ故にさまざまな差別を受けてきました。じっと歯を食いしばりながら、それでも今回の桜本で起こったヘイトスピーチは我慢ならなかった、と言います。

20170520-08

僕らもTVニュースで見るぐらいでしたが、「ヘイト(憎悪の籠った)という言論の自由」をたてに練り歩く手段には、人として哀れとしか思えませんでした。
町の人がまるでイエスのように「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」言わんが如くじっと耐え忍んでいるようにしか見えませんでした。
それは国会議員誰もも同じように感じたのではないでしょうか?ヘイトスピーチ対策法が与野党一致で可決されました。

桜本で生まれ育った人は差別という事を知らないそうです。中学まであらゆる違いに差別することなく育ち、そして高校に行くとき初めて差別を知るのだそうです。その最初は昨日まで韓国名だった友人が日本の苗字になっていること。15歳の心に刻まれるこの差別の話を聞き思わず目頭が熱くなります。

20170520-09

桜本のヘイトスピーチのデモには、住民や支援者が共に生きようというプラカードで抵抗したそうです。この問題の解決はただ共に生きる、隣人を自分のように愛す、と言う簡単なことの実践です。

さて、憲法劇は一つの舞台の中で様々な問題をピックアップします。
今年のメインは、「憲法の森を守ろう」です。

20170520-10

今日日山が荒れています。経済林としてスギ・ヒノキを里山に植えたため、そしてそうした樹木が海外の材木の価格に勝てず手が入らなくなったのでますます荒れてしまったという現実。
実は「憲法の森」も、大人たちがあの森は危険だよ、中には「さよく」と言う妖怪がいる、といったため山が荒れ、大事な各条がツタや下草で生命の危機になっている。そこで下草狩りに行くというシチェーションで始まりました。
憲法27条の木の下には、黒い桔梗が茂っています。それは新種のブラックきぎょうと言う下草です。刈らないと「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。」が枯れてしまいます。
そして25条の木の下は

20170520-11

なめんな!HOGO の草が!!
実はフラッシュモブや資生堂アンフィニ問題、ヘイトスピーチの前にこの話。開幕同時に小田原市民としてはイヤイヤイヤ…^^;と言う感じ。

今回も様々な問題が神奈川の中で起こったことを知りました。特に、表現・言論の自由をもって、右寄りの人は「権利ばかり主張し責任を果たさない。」「ヘイトスピーチには制約ばかりかけて自由が無い」と舞台の中で言わしています。
そう考える事こそが憲法の理念に従わない日本人なのでしょう。
憲法は理念です。僕らはこう生きるのだ、と広く世界に発信するものです。
その中で難しいことにぶつかった時、各条例で判断がつかない時は前文に戻ろう!

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


そこにある理念には個別の事案は書かれていません。しかし、理念を読めば進むべき方向は示されています。日本国籍のあるなしに関わらず、この国に住む者はこの精神でともに生きることが推奨されているのです。
あまりにも当たり前で手をかけることなく70年過ごした日本国憲法。でもやはり崇高で日本の宝です。
来年もまた5月に開催すると思います、よかったら一緒に見に行きましょう。

5月18日のパトビラ(№978 - 痛みを共感する -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

大阪釜ヶ崎の本田神父の「釜ヶ崎と福音」と言う本で、師が野宿の仲間の床屋をしていた時、仕事が見つからないとぼやかれたそうです。「なぁ、先生どうしたらいい?」と言う言葉に本田神父は返す言葉が見つからなかったそうですが、順番を待っている他の野宿の仲間が「兄ちゃん、みな一緒やで」と答えたことで、その人は納得し「しゃーないな、も少しがんばろか」と答えながら帰ったそうです。
本田神父は2500年前の聖書のイザヤ書という言葉の中に『慰めよ、私の民を慰めよ』と言う一節があるけれど、この慰めと言う言葉は『共有する』と言う言葉が語源だと言います。自分がたくさん持っているものの中の1,2をあげることは共有とは言いません。なけなしの物をあげることが共有でしょう。そしてその最たるものは自分自身です。自分の体験や思いが相手に伝わること、これこそまさに共有です。余裕がある時に余裕がない人にとか、健康で病にかかったことがない人が病人にとか、若者が足腰が弱くなった人に「頑張れ」と言うのは決して共有ではないのでしょうし、そのアドヴァイスは薄っぺらいもので相手に納得していただけるものではないかもしれません。僕らも相談を受けた時に『そうだな言うとおりだ』と納得してもらえるよう尽力したと思います。


たとえば、生活保護についての法律や解釈については、理屈ですから少し学べば答えることができますが、生きざまに関して、人生については答えが難しいです。
そう言う意味では牧会者は心理学や哲学まで学び、生き方を宗教を介して説くスペシャリストですので僕らよりよっぽどの納得して頂けるアドヴァイスができるのでしょうけれど、そんな本田神父がそう言っている訳です。
でももしその場で本田先生が「オッチャン、みんな一緒。頑張りましょ。」と言ったらきっとその野宿者は、神父という職業があるやつに俺の悩みなんてわからねぇだろうよ、と反発したでしょう。それが推測できたからこそ言葉に詰まったのでしょうね。同じ境遇の仲間の言葉故にあの回答は納得できた…。
そして聖書に立ち返ると、イザヤ書の文字が目に飛び込んできたというのです。
日本でも亀の甲より年の功、とか言います。いろいろな人生の経験が少しでも何かの役に立てるように生きたいものです。

4月下旬にとあるルートよりインスタントみそ汁を大量に頂けましたが、今日もまた別ルートから頂けました。
いろいろな方が小田原交流パトロールの存在を記憶して頂き、何かの際に思い起こして支援してくださることは本当に感謝です。

支援の意味するところ

支援、英語で言えばサポート。ごくありふれた言葉で日常茶飯事聞く言葉。
でも日本語の「支援」と言うと何か上から目線に感じるというご意見も聞く。もしかしたらボランティアという言葉も、日本人の脳内でイメージするのと欧米でイメージするものが違うかもしれないし、それはその国が文化をどう築きあげて来たかの差なのかもしれない。
やはり日本は仏教が主たる宗教(基本的な考え)の国だと思う。そこにあるのは「施し」という考え方。
一方キリスト教文化は、サポート(手伝い)であって分かち合うことや思わず手が出てしまうことだから「施し」とは違い横目線なのだろう。

この関係はギフトとプレゼントという類似の言葉のそれに似ている。
厳密な違いは分からないけれど、ギフトは上から目線のような気がするのに対し、プレゼントは横から目線のような気がする。
それはgiftの語源は「毒」という言葉であり、贈り物で油断をさせて攻めるという古き時代の策略から来ていて、それ故に貢物とかあるいは形式的に感じてしまうかもしれないのに対し、presentはやはり聖書の中のクリスマスの出来事「神様からのプレゼント」という側面があるだろう。
靴屋のマルチンという小説。明日お前のところに行くよ、という神の言葉に喜んで外を見続けたマルチンは様々な光景を目にします。そのたびサポート(手助け)をしなければなりませんでした。
しかし夜遅く神の声が聞こえ、その手助けをしたのはすべて神の化身であり、サポートして助かった相手の喜びの顔を思い浮かべ心が充実した事を思い出し、感謝します。
アメリカのRFL(リレーフォーライフ)に参加した時、物品の販売をしてチャリティーにしました。日本から初参加(?)なのでそこそこ売れましたが、それでもみんな大量の物品を持って行ったのでさばききれないほどでした。2日目にはディスカウント価格に変えるとお客さんは定価で買うと言います。「私はチャリティするために支払いをするの。」  「ラッキー!安く手に入った」ではない発想…。
釜ヶ崎で牧会とボランティアをしている本田神父が、自分たちが勝手に始めた炊き出しに多くの人が来てくれ支えてくれている、と言われました。
何かの番組で過酷な活動をしているボランティア団体の方にインタビューされていました。「あなたはなぜこんな大変なことを無償でなされているのですか?」するとそのボランティア氏「無償?僕は報酬をもらっているよ。(自分の活動によって助かった人の)笑顔という報酬をね」
うん、僕もそんなかっこいい言葉を言って見たい(笑) 支援する側がされる側に感謝する、これが支援なんだろう。

子どものホームレス

釜ヶ崎で生活している方の生活実態を知りたいとリサーチしたところ、こんなBlogに出会えました。
かなりディープな内容ですから、心してお読みいただきたいと思いますが、真のドヤ街の野宿生活に思えます。

大阪府西成区で過ごした28年

実親に捨てられた子どもたちが周囲の大人の愛情に育まれ、また心ない大人にひどい目に遭いながらも、必死に生きていく姿は心を打ちます。
数は多くないですがこうした事例は他にもあるのは、『歌舞伎町のこころちゃん』という4歳の野宿生活をしている女の子がのルポ写真集が出たり、小田原でも小学校の男の子を連れた家族の野宿者が通過した時に遭遇したことがあります。

あわせて・・・事情をよくわからないものの推測でお門違いな意見かもしれませんが、やはり性風俗店というのは最後の砦、つまりそこに集まる方はとても大きな苦しみや悲しみを抱えている人が多いのかな?と。
だからこそ人には優しい。
以前書いたトピックスを思い出しました

Diamond online の釜のレポ記事

標記に「路上生活者の「死」のリアル、無字の位牌に読経なしの無常」と題したフリージャーナリストの秋山謙一郎さんのレポートが載っている。
のっぴきならない「事情」を抱えて路上生活に転落した人も多い、大阪・西成「あいりん地区」。彼らの日々の生活はもちろん、「死」を取り巻く環境もまた、なかなかシビアだ。行政関係者や葬祭業者、そして路上生活者たちに聞いた、「あいりん地区の死」の現状をレポートする。(フリージャーナリスト 秋山謙一郎)

という前書きに次いで生活と死を綿密に取材した記事だ。この夏僕らは釜を題材にした映画を自主上映する。
主題はこの街に住む子どもたちで、大人は関係者以外ほとんど出てこない。
でも、この街で圧倒的に多いのは高齢化した男性だ。
それを無視して子どもの様子だけを釜だと思ってはいけないし、町から取得する教育(子どもたちの生きる知恵)は圧倒的にこのオッチャン達から得る。映画の中でSINGO★西成さんも「近所のおっちゃんに習った…ここではこうして生きなさい…」と歌う。
だから映画の実行委員さん、そして今後この映画を見ようとする人たちに長いけれど読んでもらいたい。知ってもらいたい。

【 路上生活者は死んだらゴミ扱い!? ささやかれる噂の真偽とは 】

 路上生活者が集う大阪・西成「あいりん地区」――ここで暮らす路上生活者たちは頑なに生活保護受給を拒む者も少なくない。なぜ彼らは行政によるセーフティネットを嫌うのか。

「死んで“ゴミ扱い”はないやろが!誰でも死んだら“仏様”とちゃうんかい?」長年、路上生活をしているというカツトシさん(本人によると70歳か71歳)はこう憤る。彼によると、身寄りのない者が生活保護受給中に死亡したら行政によりゴミ扱いされるのだという。だから生活保護を受けることなく70歳を過ぎても路上生活で頑張っているのだと話す。

 たしかに、ここ西成・あいりん地区で暮らす路上生活者たちの間では、「生活保護受給者が死亡した場合、ゴミ扱いされる」というまことしやかな噂を時折耳にする。

 しかしもちろん、これは路上生活者たちの誤解だ。

 大阪市では、身寄りのない生活保護受給者が亡くなった場合、火葬の後、その遺骨は大阪市設「南霊園」で斎場保管される。南霊園の管轄は大阪市環境局だ。その環境局では実際のゴミも扱っている。これが路上生活者たちに、「死んだらゴミ扱い」という誤った風聞となって伝わっていったようだ。

 路上で行き倒れて死亡した、身元の確認できない「行旅死亡人」も同じ扱いである。ただ、それではきっちり埋葬してほしいのかと言えば、そうでもないところが、路上生活者たちの複雑なところだ。

「手厚く葬ってくれとまでは言わん。ただ、そっと葬ってくれたらそれでええんや…」。カツトシさんが言う「そっと葬ってくれたら」というのは、もし自分が死んでも、行政による家族への連絡を控えてほしいという意味である。

 カツトシさん本人の言によると、10代でヤクザ組織入り、20代後半の頃、「下手を打って(失敗して)」、組織から逃げ出した。以来、この西成、山谷(東京)、寿町(横浜)といったドヤ街でずっと路上生活を続けきたという。彼は、いまだにヤクザ組織から「指名手配」がかかっていると信じている。

「地元には顔向けでけへん身や。死んだゆうたかて、わいの(自分の)存在がわかったら身内が迷惑するわな。せやから、いつ、どこで行き倒れても、わいは身元がわかるようなもんは持たへんのや!」

【 ヤクザ組織からカネを持ち逃げ 多額の現金を持つ路上生活者も 】

 あいりん地区には、カツトシさんのように、何らかの人に知られたくない事情でやって来た人が多い。彼らが自らの出自を頑なに明かさないのは、せめてもの尊厳を守りたいという切ない思いが背景にある。それは死後も同じ。せっかく恥ずかしい思いをしないように歯を食いしばって生きているのに、死後にうっかり尊厳を冒されるようなことは受け入れ難いのだ。

 カツトシさんは、「仲間には内緒やけどな…」と言いながら、普段、貸しロッカーに入れているという現金30万円程が入った布製の巾着袋を見せてくれた。もし、どこかで行き倒れたときに、「葬式代として使ってもらうため」だそうだ。

 事実、警察関係者や地元の葬祭業者らによると、あいりん地区を根城とする路上生活者のなかには、「10万円から50万円程度」の現金を常に持っている者が時々いるという。やはり「葬式代」目的である。

 さて、2016年9月には簡易宿泊所で約2000万円の現金を持った遺体が発見されるという事件があった。

 こうした現金は、路上生活者が日雇い労働や空き缶拾いなどで働いて、あるいは相続で得たカネだけではないようだ。地元警察関係者は言う。

「絶縁ヤクザが組織からカネを持ち逃げ、それをそのまま後生大事に持っているケースもある。数年のヤクザ修行の後、やっと一人前になってシノギを任され、多額の現金を目にしてついそのまま持って逃げてしまった…というわけ。急に羽振りがよくなると目立ってしまう。だからカネは使えない。結果的に、持ち逃げしたカネが葬式代となる」

 このようにあいりん地区で暮らす路上生活者がしばしば多額の現金を持っていることは、地元のワルの間では知られている。だから深夜、路上で寝ているとき襲撃対象となるのだ。警察に被害届を出さない理由は、「その出所を探られたくないカネなのでは」(警察関係者)という見方もある。

 たしかにカツトシさんも、「あんまり人には言えんカネやけどな」と言っていた。もしかすると、約30万円の現金も、何か“訳アリ”なのかもしれない。

「どんなカネでもカネには違いない。これだけあったら一心寺さんでも四天王寺さんでもや、わいを“仏さん”にしてくれるやろう?」

 欠けた歯をむき出しにして笑いながら、地元では「無縁仏」の納骨を受けつけているといわれている有名な寺院の名前を挙げた。だが、カツトシさんが亡くなった場合、事は本人が思うように進まないのが現実だ。

【 本人の希望通りに埋葬されない 路上生活者の処遇の難しさ 】

 まず路上生活者であるカツトシさんは、根城としている大阪市西成区に住民登録をしていない。それに「身元を示す」ようなモノは、日頃から持っていない。なので、もし死亡した場合、発見されると「行旅死亡人」として扱われる。

 現金を持っていた場合、これが葬祭費用に充当される。しかし火葬後、どこに埋葬してほしいかという希望は、たとえメモのようなものを残して身に着けていたとしても、「希望は叶えてあげられない」(大阪市関係者)のだという。

「行旅死亡人は火葬後、斎場保管されます。その間、官報で行旅死亡人の所持金や所持品も公告して、家族の引き取りを待ちますが、まず現れません。死亡後、1年の間に引き取り手がなければ、大阪市設『南霊園』にある『無縁堂』に埋葬されることになります」(前出・大阪市関係者)

 では、カツトシさんが希望する「一心寺」や「四天王寺」への納骨を実現するには、どうすればいいのか。あくまでも一私人の立場で前出・大阪市関係者が語ってくれた。

「親しい友人・知人、支援NPO関係者でもかまいません。遺体を引き取ってもらえる人がいれば希望を叶えることができます」

 この場合、本人がメモにして希望を残しておくことが大事だという。「遺言」の形を取るのである。

 あいりん地区にあるカトリック教会「西成 ふるさとの家」にも納骨堂がある。ここへの納骨を希望する場合は、「本人が生前、死後の納骨を願い出なければならない」(西成 ふるさとの家)という。ただし、もし亡くなってから家族が見つかった場合、その家族が「(遺骨を)連れて帰る」といえば家族の希望を優先することになる。

「どんな事情があれ、家族が引き取ってくれるというのは、ここあいりん地区では幸せな人なんですよ。行政や警察、それから病院やお寺に教会、亡くなった人のご家族を探しあてて連絡を取っても、多くの家族は、連絡そのものを嫌がりますから」(地元・葬祭業者)

 確かに、「関わりたくない」とばかりに避ける家族も少なくないなかで、「引き取りたい」と申し出る家族がいる人は幸せなのだろう。しかし当の本人には、家族に知られたくない事情があったりする。なかなか難しいものだ。

 一方、身寄りのない生活保護受給者はどうか。「孤独死」のケースでは、まず、なんらかの形で死亡の連絡が市に届くと、ケースワーカーがあらためて親族を探し出すことになる。

 親族を探し出すのは「死亡届」を出すためだ。これを出せるのは、親族、同居人、家主(地主や土地家屋の管理人を含む)に限られている。意外にも行政の立場であるケースワーカーは死亡届出人にはなれないのだ。多くは家主が善意で引き受けるという。

【 何も書かれていない位牌  読経が行われない葬式 】

 医師からの死亡診断書を添えて死亡届が市役所に提出されると、火葬、納骨という流れになる。

「ここから後は、市から委託を受けた葬祭業者にも手伝っていただきます。身寄りのない生活保護受給者を死亡地にお迎え、安置、納棺、火葬、骨上げ、骨壺に入れるまでです」(大阪市関係者)

 市から委託を受けた葬祭業者は「葬祭扶助」費を受け取る。その額は、「大阪市の場合だと20万1000円以内」(葬祭業者)だという。

「口さがない人は、葬祭業者はこの葬祭扶助費20万1000円のなかで儲けを出すために、遺体保存のためのドライアイスを使っていないとか、供物の花を造花にしているだとかいいます。しかし、そういうことはできないものです。信用に関わりますから」(前出・葬祭業者)

 大阪市関係者によると、この葬祭扶助費の範囲内で葬祭業者は「霊柩車を手配し、運転し、ご安置し、火葬場にお連れするとなると、葬祭業者の利益はほとんど出ていないのではないか」と話す。

 いわゆる「葬儀」は、葬祭業者により多少の違いがあるものの、概ね、火葬場に着いてから葬祭業者の社員たちの手で行われるという。「ただ、私たちが手を合わせて終わりです。祭壇はテーブルです。何も書かれていない位牌と供物を備えています」(葬祭業者社員)

 読経は行われないという。

 そうした葬儀の実態に大阪市関係者の1人は、「せめて(亡くなった)ご本人と縁のある信仰で送ってあげたいが、現状ではこれが精一杯」と語る。僧侶や神父を呼べば、その分、費用がかさむ。交通費だけを支給するにしても、その財源を捻出するには、さまざまな手続きを経なければならない。

「大阪市では、『行旅死亡人の救護及び埋火葬』費は28年度は1485万8000円、29年度には1340万6000円を。同様に『葬祭扶助』費は28年度は8億9274万円、29年度には8億7026万9000円を計上しています。これでもまだ足りないくらいなのです。予算的には、これ以上の手厚い葬儀の実施は難しいと言わざるを得ません」(大阪市関係者)

【 酒を呑んで寝込んだまま… 「意外にも安らかな死に顔の方が多い」 】

 あいりん地区での葬祭扶助の頻度は、週に1度、ないし2度。多いときで週に3度程度だという。地元葬祭業者が語る。

「西成区の死因で第1位はがん、2位は心疾患という大阪市の統計が出ていますね。でも、それは西成区全体の話ですよね?あいりん地区だけに限れば、がんというのはちょっと違うのではないかなと…。時に、どんな死因にでも用いられる『心疾患』のほうがしっくりくるのです。実際、お酒を呑んで寝込んだまま亡くなった方も、死因は『心疾患』とされることが多いと聞きますから」

 今月初旬、まだ肌寒い時期、西成界隈を朝早い時間に歩いていると、いつものように西成警察署近くの路上、西成の象徴「負けない」の看板の下で寝ていた年配の男性がいた。2時間経ってもまだ寝ている。見回りをしていた地元NPO関係者に声をかけた。

「もう寒くはないし、まだ暑くもないし…。もう少し寝かせてあげましょう。もう1度私が見回りしたときに寝ていたら起こします。消防には今から連絡しますので。きっと起きたときのほうが、お辛いのでしょうから」

 過去、死亡した路上生活者も何度か見たことがあるというこの地元NPO関係者は、あいりん地区で路上死する人は不思議に、死に顔が「とても安らか」なものだという。「路上といえども、人の気配がする中で旅立つのですから…。閉め切った部屋の中で孤独死するよりも、もしかすると幸せなのかもしれません」

 こう記者に話し終えると地元NPO関係者は言葉を繋ぐようにいった。

「でも、辛いですけどね。だから、彼らの居場所を社会がきちんとつくってあげなければならないのです」

【 再開発で変わりつつあるあいりん地区  路上生活者たちはどこへ行くのか 】

 あいりん地区は、再開発によって年々、その景観が変わりつつある。今ではかつてほどの混沌とした様子は薄れ、他の大阪の街並みに近づきつつあるくらいだ。これに伴い、「路上で亡くなる人の数も減ってきた」(警察関係者)という。
 
 4月24日、高級旅館を手掛ける「星野リゾート」(長野県軽井沢町)が、あいりん地区に隣接する南海・新今宮駅の市有地(浪速区)に高級ホテルを建設するという計画を発表した。2022年開業予定だという。

 この計画に対する地元民の声は、二分している。高級ホテルの建設により「あいりん地区住民の行き場所がなくなる」という心配の声、そしてもうひとつが、「住民が変わる」という期待の声だ。地元住民のひとりが言う。

「バックパッカーの若い外人さんも来るようになって、『あいりん』も変わったよ。緩やかながらでも、変わっていくよ。ずっと同じゆうわけにはいかんやろ」

 22年のホテル完成時、果たしてあいりん地区住民の「死」は、今とどう変わっているのだろうか。行政関係者やNPO、葬祭業者の話を聞くにつれ、路上生活者たちの現状を大きく改善できるような、抜本的な政策があるとは思えない。そんな中であいりん地区が再開発され、きれいになった街並みにそぐわない彼らが姿を消すのだとすれば…。それはそれで空恐ろしい気がする。

 ある路上生活者の男性は、記者が「あいりん地区で暮らす人の『死』について取材させてもろうてます」と告げると、勢い良くこう返してきた。

「死?死んだらやな、生き返るだけや!みんな、そうやって生きてるんや!!」

 カラ元気の裏に絶望が見え隠れするような大声。彼らの生活、そして死が少しでも改善されますように。祈るような気持ちになった。


若干違うと思うのは、野宿者支援をしている寺院教会の教役者に頼めばたぶん葬式に出席して祈りをあげてくださる先生は多いと思う。でも行政がやらない、若しくはやる時間が無い、という点。

そして僭越ながら知っている情報で付け加えると、
一つ目は家族と寄りが戻るのはとてもいいことだ。一番の幸せな事だろう。だからこそ怖い。最後の最後でどんでん返しがあったら頑張ったいままでの強がりの糸が切れてもう気力を失ってしまう。
小田原で野宿をしている人のご家族が長崎にいることが分かり、僕らが仲介して家族と連絡が取れた。そして帰って来るなら面倒を見たいとまで言ってくれた。小田原市に相談をしたら長崎までの特急での運賃を支給してくれた。贅沢か?いやそうじゃない。考える時間があれば、その不安に負けて大阪で降りて釜あたりに逃げ込んでしまうことも考えられることを市職員は知っていたからこその裁量だったのだと思う。安堵直前の不安ほど怖いものはない。

そして野宿生活者がアパートに入居して1年以内に亡くなることも多い。野宿をしている方と野宿を余儀なくしている方は違う。前者はその場所で生きる楽しみや喜び、また権利と義務を知ってそこでの生活に自己評価である程度の満足をしている方。後者はや諦めて生きている方やどうにかしてほしいというSOSを発信している方だ。
小田原でも現存野宿をしている方は前者であったり、無料低額宿泊所ではなく直接アパートへ居宅設定が出来れば望むという方がほとんどだ。
自分の常識に当てはめて居宅を強要するのは間違いでもある。

そしてこの長文のレポートですら、この街の一つの顔を描いたに過ぎないことを忘れてはならないが、それでもこれだけのレポートをまとめ上げてくれた秋山謙一郎さんとこの問題を広く世に広めてくれたDiamond onlineさんに感謝を申し上げたい。

久野の事件と籠池事件

いまさらですが、「籠池VS安倍」の問題について久野の事例に照らし合わせて書かせてもらいたいと思います。

何度も書いていますが、2000年に第1審判決が出た久野の民間産廃施設の行政訴訟。日本で初めて廃棄物処分場の許可に関する行政訴訟で行政(神奈川県)が負けたわけです。行政訴訟においての行政の敗訴は1%に満たないものですから、神奈川県はまさか負けないと思っていたのでしょう。
当然敗訴になれば、要求される訴訟代金は予算化されておらず、そもそも他事例に波及します。
そのような訳で神奈川県は「とある目的のため」に高裁に上告しました。

それは上告の間に些細な(?)別件で許可の申請を取り消すというミッション。なんとしても免許更新をさせないということ。
そのような仕打ちを受けて今後産廃業が出来なくなった業者は泣く泣く廃業してしまいました。

さて、僕らが神奈川県を訴えた理由は、法にそぐわない許可申請なのでこの許可申請を取り消しなさい、というもの。
許可書にはナンバーリングが振られていますが、廃業したことで僕らが取り消しを申請したナンバーが無くなってしまいました。
無くなった後高裁での審議が始まるのですが、裁判所は住民側が言うナンバーの業者がいないので裁判にならないと門前払いします。
そんな訳で1審住民勝訴、2審却下でした。ちなみに棄却ではありません。違いは「棄却_却下_違い」で検索すると分かると思います。
1審で負け、このまま2審をすれば、法的な争いでは負ける可能性が非常に高い。なら争いになる申請書をなくしてしまえ、争えないようにしちゃおう、と言うのが久野の闘いでした。
トカゲのしっぽ切り・・・。

今回外堀を埋められ、内堀まで埋められた中、今においても昭恵夫人のかかわりはない。籠池氏は妄言を言っている。・・・という。

もともとはバブル時の大量生産大量廃棄の世の中、行政としては産廃施設を作れるところはどこでもいいから作ってごみ問題をなくしてほしい、その一点でした。だから神奈川県副知事が業界の役員になっているという癒着をしていました。
それでも自ら火の粉が被りそうになれば、行政に従ってついて行った民間企業を潰してでも自分は残る、それが僕らの裁判の終焉事情でした。

籠池氏と昭恵氏も、戦前の世の中に戻す教育と言う意味では二人三脚でここまで来ましたが、安倍氏の延命のためには籠池氏は「泣いて馬謖を斬」ろうとしましたが、馬謖の反撃にあったのでしょう。

東京都の日の出の処分場の闘いで、東京都の職員から「行政の底力を見せてやる」と言われました。行政は自分のためにはどんな手でも使ってきます。勝つためには手段を選びません。
何よりも闘いの資金は潤沢です。それは自分のお金ではなく税金という「他人のふんどし」の利用であるからです。

籠池氏の思想は僕のそれとは全く違い、残念ながら応援しようとは思いませんが、そんな仲間を自分のために見捨てる安倍氏のそれに比べれば可愛いものでしょう。

蚊取り線香

人間用の蚊取り線香とペット用の蚊取り線香の違いをご存じでしょうか?詳細の違いは若干あれど、大きな違いは二点。所轄するお役所が違うのと大きさの違いです。
ペット用は農林水産省の許認可で、人間用は厚生労働省の許認可。
また、大きさは人間用なのが7時間に対して野外に居る(場合が多い)ペット用は10時間。

僕らが野宿を余儀なくされている方のところに持っていけるのは蚊取り線香においても数に限りがあります。1週間7日×24時間÷7時間=24巻が必要ですが、予算的にも厳しく1週間に5~7巻渡すだけです。
そんなこともあり、野宿を余儀なくされている方に、ペット用の方が持つのだが、と提案したことがあります。

結果は「でもなぁ」と言う難色。

何度か書いていますが関西お笑いの坂田利夫師匠が、自分がアホの坂田と言うのは抵抗がないが、周囲からあほと言われるのはむかつく、という話をされたのを聞いたことがあります。
琴線に触れる箇所は人それぞれですが、考えてみれば、一番大切、一番敏感な場所こそ琴線に触れやすいのかも知れません。

人権を意識することなく過ごしている自分にとって3時間の蚊のいない安楽な時間の確保は、意識していない人権と言うプライドより大きなものと思っていましたが、身を持って人権・プライドと闘いながら生きている野宿の方にとっては、それは琴線なのでしょう。これを捨ててしまったら人ではなくなってしまうような大きな大きな尊厳の部分だったのかもしれません。
こうして無知や人の気持ちが推し量れないものは、他人を傷めながら学び、そして懺悔し過ちを繰り返さないようにとしています。

今年も蚊取り線香を配り始める時期を迎えました。ささやかなものですが多少の安眠の支えとなりますように。
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