名探偵 かく生まれり

「勝ち組・負け組」という言葉が流行ったのは、友達を出し抜いても自分が有利になりたいとか、自分は騙されて貧乏くじを引きたくない…つまり騙しても騙されたくないという気質が日本の中に蔓延したからかもしれません。
日本人はそんなピリピリした気質じゃないと思ったのに残念な気もします。
そんな昨今ですが、実は騙されることに快感を持っている一面も持ち合わせています。

昨日本屋で見つけたこの一冊。帯にひかれて買っちゃいましたが、その帯に間違いなしでした。
短編4編、特にタイトルになった「そして名探偵は生まれた」は、まさに「してやられました」

関西の名コメディアン「アホの坂田」こと坂田利夫さんは、他人に「アホの坂田」と言われることはOKでしたが、「アホ」と言われることはいやがったと言われます。
「アホの坂田」というのはアホを演じているからで、「アホ」は天然のアホと言われているように思うからだと聞き及んでいます。
人に騙されることに非情な反応を示す僕らですが、騙されようと思った時にうまく騙されるとそれは快感になるのかもしれません。

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名探偵影浦速水はまるで密室の中を3Dで見ているように完璧に頭の中に浮かべ、そしてシャーロックホームズのように多彩な知識を駆使して犯人を捜しあてるのですが…
いやぁ、ここからが歌野晶午さんの真骨頂。しばらく前にはまった樋口有介さん以来久々に一番はまっている推理作家です。
もし本屋でご覧になったらぜひご覧になってみてください。

今日も嫌がらせ弁当

TVや映画のキャラクターをモチーフにした弁当をキャラ弁というのは、もう日本の中で周知されているかと思います。
まぁ、子どもが喜ぶからって昼に食べちゃうものに何でそんなに手間暇をかけるの?と少し反発していた僕ですが、この本を見てその作業もありかな?と少し心変わりをいたしております。

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嫌がらせ弁当? 何? と思う方に少し説明をすると、この弁当を作っているのは高校生の女の子のママさん。この高校生は少しクールで、キャラ弁?、そんなの恥ずかしくてみっともない、というような女の子。
そしてご多分に漏れずに親への反抗期中。
「親なんだしィ~」「弁当くらいつくるの当たり前だしィ~」
若気の至り、僕も高校生くらいの時は親の苦労とか考えもせずに自分勝手に、自分中心に物事を考えていたきらいはあります。権利ばかり主張して義務はたしてなかったです。
そんな母親がカチンと来て娘のために作ったキャラ弁が、キャラ弁嫌いの娘への嫌がらせ弁当という訳です。

本の内容は見開き完結。その日の弁当の写真と、その弁当にした理由の文章が1ページずつ。
こんなことが昨日あって頭に来たから今日のキャラ弁はこれ! って感じです。
一例をとると弁当箱出さなくって朝になってがびがびに乾いたものを洗ってそこに今日のお弁当を詰める時の「作品」

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ま、こんな感じの弁当が続くのですが、そのキャラ弁が上手のなんのって、芸術の域なんです。そして娘とのバトルも、うんうんとうなずけるものばかり。

・・・本の最期は娘からママへのお礼の言葉で締めくくられていました。
自分もそうですが、反抗期の子どもは決して親が嫌なわけではないのです。伝えられない苛立ち、感情を素直に出すことへの照れが「反抗」という形になるだけで、この娘も反抗期を終えママへの感謝の言葉がたっぷり書かれていました。

反抗期に頭ごなしに怒鳴っても、また冷静に注意しても、子どもはわかっていても従えなかったりします。
この本を読んで、いい感じで娘に注意を促せたな、という感がしました。
文章(キャラ弁)という形が程よく冷静に、しかもタイミングよく(叱るのもタイミングが悪いと、今更なぜ、って思ったりするじゃないですか)注意を促せたから良い関係が保てたのかな、と思います。
そういう意味では、母娘の交換日記だったのでしょう。「アッ、ママはこのことを注意しようとしているんだ」「悪かったかな」そんな気持ちを呼び起こしたのでしょうね。

ほのぼのとした弁当の写真集をまさかこの僕が買うとは思っていませんでしたが、なんかいい教育書を読んだような感じが致しました。

KANO・1931海の向こうの甲子園

遺憾千万とお叱りを受けるかもしれないけれど、もし日本のアジア侵略が残したもので「よいこと」があるとすれば、困窮の悲しみを省みながらも誤解を恐れずに言えば言葉を奪った結果の功績を鑑みれば、意思の疎通ができて仲間として一丸になれたことなのかもしれません。もちろん僕が語るのは薄っぺらな表面だけで、(言葉や文化を奪われる)深層の悲しみの厚さに比べれば、そんなのは複数語でもできる友情なのかもしれませんが…。
日本統治時代(日清戦争後から第二次世界大戦終了まで)に関わる映画「海角七号 君想う、国境の南」や「セデック・バレ」 を立て続けに発表された魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督が「セデック・バレ」と同じ時代の高校野球を題材にした映画のプロデュース作品が今回の「KANO・1931海の向こうの甲子園」です。

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勝ち負けよりも野球をプレーすることを楽しんでいる嘉儀農林の子どもたち。しかし何とか周囲の学校と同じくらいのレベルにしてあげたいという教師は、元松商の選手であり、その後同校の監督としても鳴らした近藤氏を招へいします。
氏のスパルタ指導の下、そして的確な適所的題を見出す目により、嘉儀農林(KANO)は力をつけ、台湾№1となり海を渡って甲子園にやってきます。
その間、嘉儀の町で、そして甲子園で日本人から民族蔑視の言葉を投げかけながらも生徒同士の友情も、近藤氏の教育もそこに差別はありません。

この時代の映画は支配者として入った日本人が、原住民や漢人と呼ばれる中国本土から移住してきた客家とどういう関係にあったかが、理解する一番のカギになるような気がします。

そして『いい人』も居たし『悪い人』も居た、という極めてありふれた結論にたどり着きます。
どこの学校にも校歌(学歌)があり、同時に応援歌があるところも多いかと思いますが、僕の出身校も多分に漏れません。大根を持って踊る応援歌で有名な「青山ほとり」もありますが、そのほかにも「団結節」という応援歌があります。
****
押忍、押忍、団結だ
押忍、意気だよ、その意気だ
北は樺太、北海道 南は九州、台湾の 猛者が集まる常盤松
(略)
****
果たしてKANO(1931年)、大先輩が青春を謳歌していた農大には人種差別はあったのか?は、その時代を検証したことのない僕にはわからないですが、そして身びいきかもしれませんが、縦社会には厳しかった学校ですが、「農民」という結の文化、協力する作業団体ゆえ人種差別はなかっただろう、きっと嘉儀農林のように和気あいあいとしていた中であの団結節が生まれたのかな、とは思います。嘉農に人種差別がなかったのは農業がベースにあるような気がします。
いいものを作りたいという情熱は、差別などしている余裕を生みません。
それゆえ八田氏は烏山頭ダムが作れ、近藤氏は強いチームが作れたのでしょう。

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札幌商業の錠者投手も同様の差別よりもライバルとしての尊敬を優先した人の一人です。彼も切磋琢磨して『いいもの(野球)』を作りたいと願う人だったのでしょう。呉投手の投球、嘉儀農林の野球に対する取り組みはその後も脳裏から消えなかったのでしょう。彼はその後フィリピンの戦場に赴く際に、嘉儀の町に立ち寄り嘉儀農林の練習場を見に行きます。こんなところであいつらは練習していたのか…・、粗末なグランドを見て衝撃を受けます。

今、中国や韓国との間に「不審」という空気が流れています。ヘイトスピーチが日本でなされたりする報道が流れます。
でも、日本に住んでいる僕らから見てヘイトスピーチをするもの、嫌韓のものはそんなにいないと思うのです。ただ、そこにスポットライトを当てた報道ばかり見ていると日本中ではそうした空気が流れているように見えてしまいます。
でも、占領・戦時中でも嘉農野球部や烏山頭ダムの八田氏のような出来事もありました。『人として』正しい人もたくさん活躍していたことは、不幸な戦争を起こした国の子孫として、反省をしつつも少し安堵の思いを起こさせます。
歴史を「水に流して」はいけないと思います。しかし過去の和解が未来の友好につながることも確かです。プロデューサーならびに監督はじめスタッフからはそうした気持ちを汲み取ることもできました。本当にありがたいことです。

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さて、映画の中で、嘉儀の町を再現されたセットが流されました。失礼ながら台中・台南のはざまの小街、玉山(真珠湾攻撃の暗号に使われた新高山)の登山口のイメージでしたが、その再現された1930年代の町はモダンでおしゃれな街でした。
セディクバレの舞台となった霧社、埔里には一度行ってみたいと思っておりますが、続いてこの嘉儀や烏山頭ダムにも興味津々です。

熱血スポーツドラマなら最後は優勝で終わるのでしょうが、神様はこのチームに優勝の二文字は送られませんでした。しかし、それゆえに仲間たちの団結力も周囲に与えるインパクトももっと大きなものが得れたような気がします。
天下のKANO、楽しませてもらいました。多謝。

2本の映画(2つの桜が繋ぐ日台の話)

KANOという台湾映画の公開を待ち遠しくしています。そんなワクワク感はFB(フェイスブック)の公式情報にリンクを張って情報を得ているわけですが、その情報の中で14日19時からラジオ文化放送で『霧社と嘉義』と題した特集番組をすると書かれていました。インターネット放送のラジコをインストールしてスタンバイ。

元西武ライオンズの渡辺久信氏はコーチ修行のために台湾のプロ野球チーム嘉南勇士に入団しますが、言葉の壁に阻まれ「なら実際投げて、見せて、教える」と現役復帰し、見事18勝をあげます。
そんな渡辺氏は、せっかく台湾に居るのだからと台湾の歴史や観光書籍を読み、霧社事件を知り、居てもたってもいられず霧社の地を訪れたそうです。

台湾は親日国です。だからと言って誰もが恨みを忘れられるはずもなく、霧社の地で夕食を食べていた時に「お前は日本人か?」と詰め寄られ、「この地がどんな地なのか知っているか?」と問われたと語られます。鎮魂のために花をささげに来た、と返答、そして台湾プロ野球で活躍の渡辺氏だという事もあって、逆にそこで豊かな交流をしたと語られました。真摯な渡辺さんのお人柄をしのばれるお話です。
最近隣国との摩擦が続いています。やはり忘れられない人もいます。逆に、忘れようとして、いい一面を語ってくれる人もいます。
僕らも渡辺さんのようにそうした相手と真摯に向き合い、謝罪と許しを乞うた上で新しい友好を築きあげたいものです。
渡辺氏の訪れた新春はこの地の名前を付けた白い霧社桜がきれいだったとも語っていました。

そんな霧社からさほど遠くない台中の嘉義の町に赴任をした近藤氏は、地元の高校生に野球を教えます。
「蛮族」と見下す記者に激怒し、平等にいいところを伸ばす手法で嘉義農林はみるみる力をつけて、甲子園に出場します。

今はこの高校は紆余曲折を受け鍵大学に編入されましたそうです。が、その校内には、ボールをかたどったモニュメントと陽光桜が植えてあると聞きました。
この陽光桜、実は四国で品種改良されたものです。
そこには、軍国主義で子どもたちを戦地に送った先生の懺悔と平和を願う意味があるのです。
そんな映画、その名も「陽光桜」が撮影されています

昨年は1本しか映画館で映画を見ませんでした。その映画がセディック・バレ、上述の霧社事件の映画です。
そして今年は1月24日から上映のこのKANOを25日にでも見に行こうかと思っています。
そして、引き続いて「陽光桜」、これも今のうちからcheck it out!

戦後70周年、多面的に学び、過ちを繰り返さないようにしたいものです。

更け行く夜のお楽しみ

いわゆるカレンダーの旗日と言われる祝日は僕の勤めている会社にはなく、カレンダーの色が赤かろうが青かろうが黒かろうが関係なく出勤(第1土曜と、毎週の日曜、そしてGWや夏休み・年末年始休みはあります)です。
が、体育の日と成人の日は、地元のお祭りの神輿の休憩所になったりどんど焼きの会場に関わったりするのでお休みになります。ただ、今年はありがたいことに仕事がボチボチと続き12日に全員一斉に休むわけにはいかず、僕は10日の日にお休みを頂くことになりました。
久々に何も予定のないお休み(^_^)/

そんな訳で年末島牧師よりお借りした漫画の一気読みをし始めました。

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ビックコミックに載ったのは知っていましたが、読むことなく過ごしていて先生から勧められなかったら読むことはなかった本ですが、1巻から数冊一気に読みました。
何か・・・そう知力・体力・気力の優れた主人公はゴルゴ13のようだな、と思ったらビンゴでした(^_^)/
原作者の勝鹿北星さんこと故きむらはじめ氏はゴルゴ13にも原作として関わっているそうで、歴史、国際情勢、文化人類学、動物行動学等を駆使して、問題提起をしそして相手を追い詰める内容はワクワクしますね。
また氏の友人(のちに絶交)の雁屋哲氏は、美味しんぼの「福島の真実」で社会派として論争を巻き起こしましたが、実は氏の男組という漫画は荒唐無稽な学園物ながら、最後にワルシャワ労働歌という社会主義的な側面が出たことで驚いたのは今もってよく覚えています。
そんな漫画家の仲間たちを見るとこの漫画が面白いのはわからなくないですね。お借りした漫画はまだ2/3残っています。冬の夜長読みふけたいと思います。

ペテロの葬列

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先日の主日の礼拝説教のインプレッションを記しましたが、実はその前段で、島牧師は宮部みゆきさんの『ペテロの葬列』に触れられました。
なにか読まないとこの説教は理解できないかもしれないと、アマゾンで中古本をぽちっと。
届きました。読みました。
説教のインプレッション2として書こうと思いましたが、少し様相が変わりましたのでレグザミネーション(考察)を(笑)


後ろめたいこと、言葉にやましいことがあると、人は逃げ道を探します。一番簡単な逃げ道は自分で戦わないこと。国会などでも多数決で解決を図ることを急ぐときは、その提案が国民の多くが納得していない時が多いです。
もう一つは、「ぬえ」を作り出すことです。『みんなお使いですよ』というCM、『他国もそうしているじゃないですか』という国会答弁。「主語」をあえて消して、やらなければならない「ぬえ」に脅えさせて、じゃあ自分も…、という気持ちにさせてしまいます。
ある意味多数決の延長戦です。噂になびくものは噂の味方になります。

この本の主たるストーリーは自己啓発セミナー・マルチ商法などの手法でした。そこに潜む罠を縦糸に「袖触れ合った」多くの人の翻弄を横糸に作品は紡がれていきます。
最近、マルチ商法の手法は、ネズミ講ではないと言われています。それは現在ではネズミ講に対する不信感が蔓延し、対策の充実しているので、広げることを目的とはせずに「洗脳」できるターゲット探しに代わっているからです。
ですから、入り口は質のいい安価な商品の販売から始まります。『いい商品ね』と不信感を払しょくするのが目的です。そして、その中のターゲットに「洗脳」というセミナーに誘い、販売員にしていきます。誘われた人は自分が使っている商品が『質が良かった』ことを知っているし、「ノルマがない」ことを力説されているので、「それなら普通の会社と同じ」と簡単に引き受けます。
マルチ商法と会社の違いは、「誰が利益を出すか?」という点です。通常の会社はノルマがきつく半強制的に自社商品を買わされない限り、利益は一般の消費者が出しますが、マルチ商法は一般の消費者からも利益を取りますが、同時に下部会員から『会費』を得ることで利益を出すというスタイルゆえに問題なのです。つまり会員獲得という「ねずみ講」は水面下に存在します。自分の知人・友人という大切な人が利益を得る『顧客』に成り下がってしまうのです。友人の懐をあてに生きるという業に陥ります。
そしてマインドコントロールされた会員の一番の恐ろしさは、自分が悪いことをしている実感がないこと。「ただ良い物を友達に紹介しているののどこが悪いの?」と友人が会費を払って入会していることを棚あげしている点です。マインドコントロールとはそうしたものでしょう。目に鱗を貼り目隠しするような作業なのでしょう。された人は目隠しされたことに気が付かないのです。
だからみんな騙される…。TVでこんな被害があった、と言っても自分の目には鱗が貼られているので自分自身と結びつかない。「何で騙されるのかねぇ~」という…。
本文中でさえ、被害を目のあたりにしているのに・・・というシーンがあります。(ゴメンナサイ、ネタバレです)

ですから、割り切って自分の消費する分だけ購入しているだけならマルチ商法はマルチにはなりません。育っていかないのです。しかし、宮部みゆき氏は、児童小説でもあり映画にもなった「ロード・オブ・リング」を例に挙げて語っています。
持ってしまった「邪悪」はなかなか捨てきれないのです。
それは、お金であり、権力であり、名誉であり、地位であります。

自己啓発などの席で講師が言う言葉は2種類あります。『世の中をよくするためにあなたの力が必要です』という社会善としてのスピリッツ。と同時にくすぐる言葉は『その結果、あなたの懐も豊かになります』という「欲望の意識」の増幅です。
そこにターゲットが染まっていくのをマルチ商法は待っているわけです。『いいものを売って、自分も金持ちになれるのなら…』という「邪悪な指輪」の虜になるのを待つのです。
それは若い人には「ハワイのコンドミニアムで仲間と過ごすパーティーができるような大金持ちになったら」と、そして高齢の人には「お孫さんにたまにはプレゼント買ってあげられるような小金持ち」と、相手の乗りそうな想像力を膨らませるのがマルチ商法なのでしょう。

お化け屋敷に1人で入った場合はさほど怖くないものです。それは頼る相手、比較する相手がいないから、自分自身の意思で歩き、自分自身だけの意識で恐怖と戦うからです。
でも、大勢がいると他人に頼ります。同時に誰かの悲鳴が恐怖を呼び起こします。恐怖が恐怖の連鎖を引き起こします。だからスピーカーで『キャァ~』という悲鳴を流すのです。恐怖という共感のきっかけを植え付けます。
歌手の谷村新司さんがアリス時代、幕が開き一曲目を歌い終わって最初のスピーチをするとき、会場の反応が悪いと緊張をほぐすために「緊張は伝染します。みんなが緊張するとこっちまで緊張しちゃう」と言っておりましたがまさにそうでしょう。
同じことが『欲』にも言えるのではないでしょうか?
みんなが儲けているのなら自分も儲けなきゃバカを見る…。
共鳴…。マルチ商法というのは仕掛け人が仕掛けても共鳴しないと鳴らないものでしょう。
実はマルチ商法の世界だけではなく、世の中みんなそんな「邪悪な指輪」の力に惑わされているように思います。
今日食える分だけ稼ごう、だった時代が、もっともっと…となってしまいました。

イエスがペテロに鶏が鳴く前に私のことを知らないという、という言葉。ある意味、自己を捨ててまでの社会正義を貫くという発言を妨げる自己防衛という『欲』を諭した言葉かもしれません。
知らず知らずに身に着いてしまった最低限の生きる力ではない欲の収入への執着への問いかけではないでしょうか?

****

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。 すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。
それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、
日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。
どうだい。すばらしいだろう」

****

滑稽話に見えますが、僕らの人生は『欲』という「邪悪な指輪」によってこうした滑稽な無駄をし続けているのでしょう。
自己啓発セミナーが今なお開催され、多くの方が様々な悪徳商法や詐欺事件の被害にあっている今、この本から僕らは何を得なければいけないのか?
宮部みゆき流の問題点のメスの入れ方に酔うだけではなく、口八丁で世渡りすることは要領よく生きることである、と自己啓発が『欲』と絡んでしまった「邪悪な指輪」の力の存在と、そして、時折その滑稽に義憤を生じた人が、自身のふがいなさと猛省によってこうした事件を起こしかねない、そんな「経済至上主義」時代にまかり通る時代からの脱却、21世紀のペテロに言ったイエスの言葉のような気がした読書でした。

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で、説教のインプレッションに戻ります。
僕は修行をした聖職者ではない限り人はそこまでストイックな生き方はできないと思います。
ほしいものはほしいし、おいしいものも食べたい。TVで素敵葉旅番組を見れば行きたくなるし、今流行の洋服だってほしい、というのが本音でしょう。持っているものは使おう、でも、持っていないものを無理して持ちたいと思うのはよそう、ケセラセラとなるようになると生きよう!!
だから、人に迷惑をかけない程度の贅沢はしましょうよ。
そして万が一、(本文内の)坂本さんのような状況に陥ったとしても、悔い改めは実行力ではなくただ告解と祈り、そして迷惑をかけた人への謝罪が大切だと思うのです。自己嫌悪に叩きのめされたそこに神の愛を感じる、その憐れみにひしがれて被害者のために誰の迷惑もかけないように尽力をする。本文中にある「悪の連鎖・伝染」を断ち切るのも神の御意志だと思います。
礼拝の説教に無事繋がりました。

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越前竹人形

昨年近しい2組の先輩友人とプチキャラバンを楽しみ、人生の第4コーナーを過ごす世代の僕らとしては、年に1度でも遊びに行きましょう、と約束してお別れしました。
この2組の友人の共通点は、福井にお住まいになったことがあるという事で、今年のプチキャラバンは福井に決定。10月30日-11月2日で休暇を取りその日を待っておりました。
ところがその矢先、1組(1人)の方から、旧に予定が入ってしまったとキャンセルのお話。
残念ですが、京都の町に行かないで名古屋経由でInするので、少し行程がゆったりになりました。
そんなことで、少し福井を検索したら・・・


さて、ここで質問です。
福井と言ったら…
あなたは何をあげますか?


(東尋坊はまぁ当然として)マイナーなものが気になる僕は、継体天皇とヨーロッパ軒をチョイスしましたが、時間の余裕が出てきたので、検索した結果、水上勉氏の「越前竹人形」を読んでみました。

20141011-01

行こうと思っている武生から山の中に入る場所でのお話なんですね。
食わず嫌いの水上勉氏でしたが、引き込まれて一気に読んでしまいました。
一昔前まで『裏日本』という蔑視された言い方だった日本海側は、鈍色の海の色のイメージと相まって、たとえば「夢千代日記」や「砂の器」などとあわせて、薄幸の結末が頭に浮かびますが、この「越前竹人形」も然りですね。
数年前、ジブリの「竹取物語」がヒットしました。この話で、かぐやは月で罪を犯したのでその罰として地球に来て、帰還が認められると同時に地球での思い出が消えてしまうという話。
芦原温泉という武生からも遠い場所から突然に現れた絶世の美女。その生業は遊郭での娼婦という昭和初期という時代にとってはまさに「罪(穢)人」、そして再度嫁いだ竹神でも過ちを犯してしまう、というこの世での性と死(月に行く)という浄化がオーバーラップしてしまいます。
そして、水上氏の竹林を描く美しさ。素晴らしい描写に感動しました。


そんな越前竹人形の里が、福井市から一乗谷の間の坂井市にあるようなのでここも観光の一つとして計画に入れたいところです。

神の子どもたちはみな踊る

夏休みの今日、のんびり起きてきて、さて何の予定もないとのんびり読書Timeに選んだのは

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1995年の阪神淡路大震災を受けて書かれた6編の黙示録…というキャッチフレーズにひかれて買ったまま置かれていた本。
黙示録、つまりはこの世に生きている僕らに激励と警告を与えてくれる神からの預言の言葉。

直接地震の話は全くないし、被災体験もない小説。でも、そこには安心・安全という日本においての生活を覆した大都市の崩壊に起因した「人生観」が描かれています。また、複線には同年のオウム真理教のサリン事件などがあります。
1995年は、そう見ると日本の近代史の変革の年なんでしょうね。

各小説を読んで、これのどこが、という部分と、なるほどと心の奥にシンクロする部分がありましたが、2011年の東北の震災の後、結婚という「明示された契約書」を証として必要に感じる人が増えたという事と合わせて後者の方が強かったです。
J.リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」の一節を本中で紹介していましたが、大きな災害などでたくさんの方が死傷した場合、その人たちは「人数」とでしか扱われない。
一人一人が、どう生きて、何を楽しんで、は全く表に出てこない訳です。
TVなどがその災害を「特集番組」として報じても、そこで紹介されるのはほんの一握り。やはり多くの方は「死者」という名の一括り。そのむなしさが、この短編の中のいくつかの作品に現れていたような気がします。

ただ、村上春樹氏の読みやすい文章。気楽に読めもする作品でもあります。

55歳からのハローライフ

キャンピングカー雑誌の編集長をなされている町田さんは、ちょくちょく僕の好奇心に火をつける題材を提供して売れる方。
昨日もこのような提供されたトピックスに食指を伸ばしました。

20140815-01

55歳、つまりは僕の年(ゴメンナサイ少しサバ読んでいますが^^;)
そろそろ定年という人生のターニングポイントが、おぼろげな形がしっかりとした姿になってくる年。
そして、人生の最期を意識し始めるときでもあるかもしれません。死にざまは生きざま、何をするために生まれてきて、それを自分は熟(こな)すことができたか? もし、できていないことがあるのなら何をどういう順番ですべきなのか?

さて、件の町田さんの紹介のキャンピングカーという作品。
車の前オーナー氏は、劇団ひとりさんかと思ったけれど、中古で1千万という価格からディブレイクブリテンではないので違う…ということは清水国明さんの車なんだなぁ~なんて思いながら読み続けます。
劇団ひとりさんも、お連れ合いさんがなかなかキャンピングカーの旅を一緒に楽しんでくれないと以前TVで嘆いていられたのを思い出します。
仕事に忙しいお二人だから…そして女性は日々食事の支度という「ケ(日常)」…旅行という「ハレ(非日常)」の時は高級ホテルと贅を尽くした食事をとりたい。そしてそれが取れるだけの仕事量と収入があればキャンピングカーの旅は色あせるかもしれませんね。
でも、僕らのような庶民にとって、旅好きなものにとっては、わずかな収入で数多くの旅をしようとすると、まず最初に切り詰めるのは宿代なのかもしれません。
町田さんもご自身のBlogで書かれているように1千万円のキャンピングカーを驚かせるために内緒で買える御仁には、やはりキャンピングカーの「不便」が残る旅は無理なのかな?と思います。

相手の事が理解できていない。自分のストーリーに相手の考えが入り込むすきがない、とすれば、相手にとっては有難迷惑、戸惑うばかりでしょう。
その時、お互いがどうすり寄れるか…

5つの話の中には、すり寄る隙間がないと再認識する話、自分がすり寄ればいいことがようやく発見できる話、困窮しつつもお互いに同じベクトルで歩いていることが分かる話と、さまざまな55歳の話が出てきます。

小説というフィクションとはいえ、55年も生きた人生において大なり小なりこうした葛藤を抱えるものでしょう。
そうした人生を考えるにもこの年齢層の人には考えさせられることが多いものだと思います。

お金持ちにならなくてもいい、必要な時にお金が通過してくれればいい…。そうした理にかなったことが怖くない社会福利が充実した社会になれば、キャンピングカーももっと売れるでしょうね。
そしてべたな〆ですが、最後は寄り添える連れ合い、もしくは異性・同性を問わずの親友・仲間の存在。つまりは、人生はひととの交わりの楽しさが一番大事なのでしょうね。

宮崎駿氏引退・・・

「紅の豚」ほど小さな飛行機じゃないけれど、プロペラ機の音と振動は好きだな。ジェット機にない飛んでる感がある。
でも、絵的に一番美しかったのは、フィレンツェからアムステルダムに向かう横4列シートの飛行機。朝一番のフライトになった理由は一言ではかけないし、その理由で昨晩は3時間も寝れていない。
そんな体調不良を吹っ飛ばしてくれたのは、ヨーロッパの中央に鎮座しているアルプス越え。

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それとP.E.I.(プリンスエドワード島)からモントリオールへ向かう朝一の便。

20101014-113

こちらも横5列シートの小さな飛行機だったな。風をひろって風によって僕らは飛べる、そんな当たり前のことがわかるのはこうした小さな飛行機。
小さいからこそ風景を独り占めにできる。

でもこの両者はジェット機。台北松山空港からの花蓮空港行きのプロペラ機はよかった。音と振動、目をつぶって耳をたてれば「飛行機野郎」を気取れる(爆)

20120225-107

風立ちぬにひかれ、紅の豚が再放送される所以か。宮崎さんお疲れ様。
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