神の御心を行う人

2018年6月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 2章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)


このユダがイエスを裏切ったのである。

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」



日本キリスト教団小田原教会もそうでしたが、聖契キリスト教団松田教会も、違う教団資料によりますが、いずれも教団から与えられた聖書の箇所に従って礼拝をしております。
この日は、聖書を聞いている僕もそうでしたが、牧師も複数の箇所でまとまりのない風に聞こえるのではないか?と推察の言葉から始まりました、
何故、19節後半部分のみからなのか?20-21から始めてはいけないのは何故だったのか?
いわゆるベルゼベル戦争と言う22-30節の長い箇所に目が行って本質が見えにくくなっていないのではないか?
そうした中、この19b-35節という箇所に固執した教団の意味を考えながら何度も読んでの説教だ、と言われます。

この箇所の登場人物を見てみましょう、と清水牧師は語りかけます。
ユダ
イエスに癒してもらおうと集まった大衆
イエスの家族
律法学者
です。
清水牧師は、このメンバーの共通点として、イエスをよく知っている者、イエスの元に意として集まったものだと語ります。

しかし、よく知っているのと心の内を理解しているのとは違います。そして、理解しているのと賛同している、また協力するものも違います。
さまざまな事象への温度差。

イエスの家族もそうではないでしょうか? 聖書の中でイエスの父親のヨセフはイエスの幼児時代以外でてきません。推測の域を出ませんが、イエスが成人になるかどうかの時に死亡した可能性があります。するとイエスは弟妹の面倒を見ながら一家の主(あるじ)として切り盛りをしていたのだと思います。
そんなイエスがある日突然、家を捨ててバブテスマのヨハネのもとで洗礼を受け、公生涯となります。
家族としたら、「なぜに!」と言う思いがあるでしょう。
家族と言う時間も濃さも一番強い関係であっても、突然のイエスの公生涯化は驚きだったのでしょう。家族は、イエスがおかしくなっているからと言う周囲の言葉に、否定もせず同意し、イエスを呼び戻しにきたのでしょう。

5歳の女の子が虐待の末殺される事件がありました。
清水牧師は、この事件は「家族」故に起こった事件かも知れない、と言われました。
なるほど、と思いました。
トランプ大統領や安倍総理がおかしなことをしても、批判はしますが、そこには近しい人へへの「感情的な」怒りではないのです。
近しい人の犯した自分との意見違い、だからこそ、「可愛さ余って憎さ百倍」になることは、感覚的もよくわかるし、自身の経験上あります。

もしかしたら、5歳の女の子を殺めてしまったこの2人も、公園で遊んでいる同じ年恰好の子どもにはとても優しく接することができる人なのかもしれません。殺人鬼として無差別に殺すような人には見えませんですが、そんな人があのような悲しい陰湿な虐待をしてしまう、そこに人間の弱さ、悲しさを感じます。
痴呆や寝たきりの親に対して無碍な対応をする場合があります。対象者が家族だからと言う『甘え』があるのかもしれません。
他人には優しく言葉をかけられても、家族にはめんどくさいなと対応をすることはないでしょうか?

そしてイエスはこう言います、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてこう続けます、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
5歳の子どもを殺してしまった夫婦が極悪にとらえられる観がありますが、一つ間違えば僕らもそうなる危険ははらんでいるのかもしれません。隣人を自分のように愛しなさい、一番の隣人は家族でもあります。家族を愛せなければもう少し離れた隣人を愛せないです。

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