安息日の主

2018年6月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 2章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」



【聖書交読】
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

牧師の説教もさながら今日与えられた聖書の箇所「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と併せて今日は交読した聖書の一節申命記5章14節が一番頭に残りました。

以前良い街づくりをするには、「前例主義」「法律主義」「予算主義」をなくさなければならない、と言う話を聞いたことがあります。
市民から提案を聞いて「今までそんなことしたことがないから」=前例主義、「法律ではできない決まりになっています」=法律主義、「いやぁお金がないですから」=予算主義 を崩さないとなかなか革新的な事業は出来ないという話でした。
前例主義の何が問題なのでしょう? それは自ら最善の解決策の知恵を絞ろうとしない事なかれ主義であることでないのはないでしょうか?
ファリサイ派の人々は何を以て麦摘みを非難したのでしょうか? それは、安息日に仕事をしてはいけないと言う十戒の掟を守れ、と言うことだからでしょう。たとえそれが空腹と言う生理的な現象であっても頑なに厳格に守れと言うのです。
神がなぜそうしろと言ったのかを考えることもせずに「前例主義」で、代々そう言い伝えられたからそれを守っているのでしょう。
ミレーの書いた落穂ひろいのように空腹な人が自分の食する程度のものを他人の畑からとることは現在の社会より寛容です。ですから安息日に空腹をいやすために出会っても麦の穂をつまんだことが問題視されたことがわかります。
神の意を問わずに「守れ」と言うのは表向きの自身の誇示です。
政治家の方々も、遠くから駆け寄って「先生どうも」と笑顔でヘコヘコされるのが好きなように、ファリサイ派の人々も「先生どうも」と言われるのがお好きだったようで、そこがこの後のイエスとの溝が深まる理由になります。

安息日は人のために定められた、の意味を考えながら、申命記の「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」を読めば、階級の低い人が主人に気兼ねなく休みを取るためには、働いてはいけない、と定めることが最短の方策であると読めます。
ブラック企業と言う言葉、過労死と言う言葉が世で使われて幾久しいですが、相変わらずその手の会社は存続し、体調を崩しながら働いている人もいます。
しかし、神の言葉(現在の社会に置き換えれば法律)で破ったら会社をつぶす、と言われれば大半はやめるでしょう。潰されるリスクと適正な労働条件にするリスクを天秤に掛ければそうする人が多いと思います。

それが安息日を守れ、と言う神の教えであり、私たちを愛してくれる神の恵みだと思います。

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