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互いに愛し合うべきです

2018年5月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 4章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。



「神は愛なり」 クリスチャンになりたての頃、教会の友人から「不要になったものだけれど要るか?」と言われてもらった壁飾り。
今でも理解は全然できていないけれど、今より信仰理解のない時代、「神は愛する者」ではなく、「神」と言う「存在」が、「愛」と言う「抽象」「被物体」とイコールで結ばれていることに、何か違和感を感じたものでした。

20180506-01

今は、その信仰理解が正しいかどうかは別として、「神」を「物体」とか「存在」としてとらえることなく、「神」は「愛」のような「抽象の存在」「概念の存在」が僕の信仰理解なので、この言葉はとても好きな聖句の一つです。
「愛」と言う形ないものを、もし形にしたのなら、それが「神」だと思うのです。決して白いひげを生やしたおじいさんではありません。「アッバ(父)」とイエスが言った言葉、でも、その言葉は別に「父親」と言う意味ではなく、アガペー的に愛を注いでくれる親からあふれ出るその愛を言わんとしたのではないでしょうか?「父親」と言う存在ではなく、「親が無条件でそそいでくれる愛」「何も疑うことのない自分を愛してくれるもの」と言う抽象概念がこの言葉になった、その方が僕にはピンときます。

今日のこの箇所で、使徒ヨハネは神はその一人子を十字架の死と言う形をとり、人の罪を負わせたので、その神の愛に従ってお互い愛し合いなさい、と言われている。が、それを聞いて「はい、そうですか」言えるほど実は人間はピュアーではないと牧師は語ります。
イエス死後2000年の間、どこの地でかは戦争が繰り広げられ、いやこの日本でも2000年の間殺人がない日は一日もなかったのかもしれません。
殺されなくても、暴行を受けた人は後を絶ちませんし、その人に暴行をした人を許しなさい、と言うのは酷なことで、許せないと言うのが人間としての普通の感情でしょう。
今まで人を憎んだことなどないなんて言う人は誰も知り得ませんし、たぶん今後もいないでしょう。
愛し合いなさい、と言いながら、それは絶対出来切れない難解な業(ごう)の問題だと思います。

しかし前提をもう一度読むと、神は愛だと書かれています。だから愛し合えと言っているのです。前提は「神は愛」である(過去形)のだから、互いに愛し切れなくても、神はもうあなたを愛してくれているというのです。神は人とそう言う契約を結んだというのです。
その証拠がキリストが命をなげうって示した愛だというのです。
僕らが、「もっともっと」と神様に愛されるように努力するのなら、ではないのです。そのままでいいと言っているのです。

極端な言い方をすれば、どんな極悪人でもあなたや僕と同じように神様は愛されるのです。
鎌倉時代の僧侶親鸞の記した歎異抄には「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とあります。善人だって極楽に行けるのだから悪人が行けない訳はない、と言う一節。
罪の赦しを乞う、神の前に額ずき懺悔し悔い改める、それは人前で出来なくても神と一対一の場でそうすることが出来れば、人は許せなくても神は赦したもう、ということでしょう。
人には出来ないことも神には出来るのです。

じゃあ、何もしないでいいのか?と言えば僕は違うと思います。
なぜクリスチャンになったのか?と問われれば、誰もがイエスのみあとを歩むため、と答えるのではないでしょうか?
数学で習う「ベクトル」、これは文学でも社会でも使える考え方です。ベクトルは「方向」と「大きさ」によって成り立ちます。
「方向」はイエスのみ後です。つまりは「互いに愛し合いなさい」です。難解な業(ごう)の道です。
そしてそこに「大きさ」があります。言い換えれば出来高があります。100%が神の望んだものであるのなら、10%かもしれない。8%かもしれない。それでもいいじゃあありませんか! 神はそんな劣等生の僕らも見捨てずに救いを約束しているのなら、出来るだけの隣人を愛して生きていきたいものです。方向だけは間違えたくないです。

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