釜訪問あらため大阪訪問記(4)

16日はまずふるさとの家に伺いカトリックの礼拝にお邪魔しました。
実は前夜深夜の街中を見てみたいと思っていたのですが、夜行バスに揺られ、暑い中早朝から歩き続けたので夜回りが終わって宿についたらシャワーだけ浴びてバタンキューと熟睡してしまい叶いませんでして、逆にそんなこともあり6時には目が覚めてしまいました。7時過ぎにはチェックアウトして朝食を食べ終わっても8時。どうしようかと思いましたが、昨日Mさんに街の中を案内してもらっている最中自転車に乗られた本田神父と出会い、Mさんから紹介をしてもらいご挨拶したので早めだけれどふるさとの家に行ってみようと出向いたわけです。
1時間前なのに既に門は開いていて中の通路横にはベンチが並びその一番奥で本田神父は座っておられ、僕を見つけられると挨拶をしてくださいました。そのまま神父のお隣に座ラさせてもらいおしゃべり。
いつもこの時間から皆さん来られているのですか?と問えば、7時に門を開けると来られ1週間の出来事や悩みや様々なことをここで神父に伝えてから皆さん中に入られるとのこと。

多くの教会は、礼拝前は心静かに落ちつけて、と言います。
でも生き死にの狭間と言う言葉が大げさでない毎日を過ごしている人にとっては、礼拝前に神父に一週間を話すことが心を落ち着けられるルーチンなのかもしれません。

20170716-01

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、 見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、 耳は遠くなり、 目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、 心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


本田神父はどんなところにも既に「神の種」はまかれているのだと語られます。しかし、世の多くのクリスチャンは宣教こそが種まきだとすでに神の種が撒かれた後の今も種まきに勤しみます。
第二バチカン公会議で「神の種は教会の外にも撒かれている」と語られたと話され、ではなぜこの御言葉が聖書に載っているかに追究されます。目的はなんなのでしょう?
それは種まきではなく刈り入れのための準備だ、と説かれます。

撒かれた神の種とは何でしょう? それは愛です。互いに愛しなさい、という事でしょう。
でもたとえば恋愛対象者に向けて誰彼かまわず「愛しています」などと言う人はいないように、愛と言う言葉ほど重たくない関係の人の方が圧倒的に多いものです。愛ほど重たくない言葉の好き、であっても好きになれない人はいます。
そんな人間関係で、撒かれた神の種の刈り入れをするという事はどういうことか? それは好きにならなくてもいいから相手を大切にしなさい、という事なのだろう、と語られます。

初めて出席したカトリックの礼拝。僕ら小田原教会と大きく違うのは、本田神父の説教以外はすべて式文に乗っ取った交読の祈りであること。
そしてこれはこのふるさとの家のみの主の祈り。
天におられる私たちの父よ
空のかなたではなく
万物を支える見えない世界「天」において
人の世の低みから働かれる
私たちの父である神様。
み名が聖とされますように
世の小さくされているものとはたらくあなたを
みんなが聖なる方と認めますように。
御国が来ますように
御国とは、「解放と平和と喜び」の世界です。
私たちが、不足を分かち合うだけではなく
抑圧された仲間の解放を目指して助け合い、
神と人を大切にする社会を作っていけますように。
以降不明のため省略

お題目のように唱える主の祈りではなく具体的に何をどう求めるのか鮮明に書かれ、祈りを自分自身も納得し隣人と分かち合ってそしてアーメン(そのとおり)と声をあわせられるものでした。

そして聖体拝領。多くのプロテスタント教会はオープン聖餐(洗礼を受けた人は教派を問わず聖餐に与れる)というスタンスが多いですが、カトリックはクローズ(カトリックの信者のみ)が多いという話を聞いたことがあります。
しかしふるさとの家はフリー聖餐(誰でも聖餐を与かることができる)ものでした。日本キリスト教団はこのフリー聖餐の牧師をターゲットにして排他的攻撃を仕掛けていますが、今日のみ言葉と合わせて撒かれた神の種としての僕らに神様の恵みが等しくあることに心から感謝をしてうけることができました。

20170716-02

この日の礼拝には釜ヶ崎以外から、3組の出席者があり促され一言挨拶をさせて頂きました。
次の予定があったのでゆっくりご挨拶する機会がありませんでしたが、昨晩の夜回りから上智福岡の学生さんと時を過ごせました。感謝の出会いです。

16日はM蓮さんが寿地区センターに来られたことでスケジュールがたちました。10時30分からはM蓮さんに釜ヶ崎伝道所に連れて行ってもらいます。
米加田牧師の教会です。
聖書は旧約の歴代誌下14:1-6、新約は使徒言行録19:28-40でした。説教のあとは御言葉のわかちあいがあり、礼拝のあとは軽食のわかちあいもありました。なか伝道所の礼拝に似ているかな?

1日2回の礼拝、そしてそれぞれの教会でのお交わりに感謝の一週間の始まりです。

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