アブラハムの信仰

2017年7月2日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章13-25節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。



今日は2つの大学から5人もの十代の学生が礼拝に集われ、いつもに比べてぐっと若いメンバでの礼拝でした。新しい方が教会に足を運んでくれることはとてもうれしい事でした。
しかし、聖餐式の厳粛な雰囲気、牧師の『まだ洗礼を受けられていないもの…』の言葉に居心地が悪くなったのか、聖餐の時を共にすることなく退席をさせて帰られてしまったことはとても残念な事でした。
オープン聖餐(他教派での聖餐は認める)やクローズド聖餐(同一教派しか認めない)は本当に正しい解釈なのでしょうか? 誰をも救われる神を信じている僕にはどうしても礼拝出席者にさえ居心地の悪さを与えてしまう礼拝スタイルが納得のいかない出来事の一つです。


さて、今日の説教。
アブラハムはなぜ神の言葉を疑いもせずに信じたか? は、興味深い問題です。でも、僕はそれは高齢にもかかわらず子どもが出来たことに由来するのだと思います。(創世記17章)
しかしベースは、信仰心のある人だから、神がイサクの命を宿させたのかもしれません。安住の地に居ながら神の転居の命に従い、放浪の旅に出ます(創世記12章であるようにこちらの方が先に書かれているトピックスです。)
鶏が先か?卵が先か?的な議論になりますが、視線を変えて考えてみたいと思います。
逆さまならどうなのだろう?
神が高齢になってからの子を授けるという一つの奇跡を示されたら、その神を僕らは無条件で信じられるでしょうか? 特に創世記22章のイサクの燔祭と呼ばれるシーンは、その神の奇跡で生まれ、もう同じ奇跡はないと思われる一人息子を神にささげるという出来事。生半可な信心では、神を疑うか神に失望するのが当たり前の出来事です。

アブラハムは信じやすい人なのか?と言う僕の心を読んだかのように牧師は、創世記12章10節以降を示されました。飢饉を逃れエジプトの地に行った際、連れ合いのサラに自分の妹だと名乗れと言います。
妹なら求婚をする際にその兄に多大な貢物をするだろうけれど、妻なら主人を殺して寡婦とし自分の妻とするだろうという疑心によるものです。妻サラの墓の件もその人への不信心ぶりを示しています。アブラハムは決して信じやすい人ではなく、人に対しては徹底的に疑心の目をもち騙されないことを信条としたのかもしれません。
そんなアブラハムは神にはちっぽけな疑心もなかった・・・。

牧師はテモテの信徒への手紙1章15節を語ります。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

この言葉はパウロの信仰です。信仰は証明するためにあるのではなく、自身が信じるために存在します。
アブラハムも神の言葉の審議を立証できたからではなくそう信じたからこそ神の命に従ったのでしょう。
それゆえ義、つまりは神の目に正しいと認められたのだと思います。
人の目から見て正しい事ばかりしたのではなく、神を信じたということで神の目のベースでOKされたのです。

過日、小林麻央さんが逝去されました。子どもが小さいのに、とか、まだお若いのに、と言う哀悼の意の言葉も聞きます。
Histry(歴史)はHis+Story=彼の物語だといいます。二重予定説、既に神は歴史と言う大舞台の台本をすべて書かれているという意味です。
神の脚本で言う小林麻央さんの役柄は、その若くしての冒されたがんとの闘いを通して僕らに勇気を与えるという役だったのかもしれません。
それは、彼女やその祖先の業とかなにかではなく、与えられた神の役です。
僕らは歴史と言う大舞台をその役を演じるにすぎません。神の与えてくれた役を十分に演じること。それは「あるのまま」つまりは自分らしく、無理のない人生を過ごすことです。
ありのままで歴史の舞台の主人公を演じて神の義を得たいものです。

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