神の恵みと憐れみよって

2017年6月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、 幸いである。主から罪があると見なされない人は、 幸いである。」


パウロは、旧約のアブラハムとかダビデを例題として信仰義認を説きます。
しかし、ではアブラハムも何もしないで尊敬を受けたのか? ダビデはユダヤ一の王と言われたのは何も行動がなかったからなのか?と言えばそうではないでしょう。
神の戒めと教えによって故郷を離れカナの地に移動をする決意と行動。神の命によって一人息子のイサクをささげようとした実行力。そうした行動を民衆は称賛したのでしょう。ダビデも然りです。

信仰義認。この言葉の対語は、行為義認、つまり何かの行動によって救いの結果が変わるという考え方。言い換えれば、中世の免罪符や厄除け壺など、行為が行為で無くなり金に変わっていくことが救いの道であるという、言い換えれば宗教団体が金もうけの手段になる形式、やはり危険な考え方に導かれる可能性は高いです。

また、その行為のみを民衆は褒め称えたのでしょうか? 民衆の称賛はどんな無茶ぶりに見える神の命令にもひるむことなく従ったアブラハムの行動です。ただの行動ではなく、その行動は神を信じることに裏付けがあったからだと思います。

でも、信仰義認も何も問題はないか?と言えば、日々の生活とかけ離れたことでも救われると信仰をする必然性に疑問を持つ人も増えるでしょう。
信仰義認は何もしなくていい、ただ祈ることだけではないような気がします。そこにはやはり行動が伴います。悔い改めて生きよ、と言われた言葉。それは言い換えればイエスのみあとを歩めです。

信仰義認=行動を伴わない救い や カルヴァンの二重予定説=すでに人の生まれる前からその人の救いは決められている、であったとしても神に従いたい。聖書の御言葉に従いたい、と言うのが僕らの真情でしょう。
特にプロテスタントはそうなのかもしれません。ゆえに、カトリックではサクラメントである懺悔も告解もしません。でも聖書はイエスがどう歩んだかを教えてくれます。


信仰義認が信仰義認であるのは、イエスのみあとを歩みたいが、様々な躓きで歩けなくても、大丈夫だよ、歩こうとしたじゃないか、神に従おうとしたじゃないか、私のみを信じてより頼んで生きてくれたね、と神は言ってくれるという意味だと思います。
神は出来ない僕ら、罪ある僕らを義としてくれるということです。それには向かい合うこと、神を信じてみあとを歩こうとすることが大事だと思うのです。

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