聖書と歎異抄

18日の日曜は、主日礼拝に先駆け御濠端幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守り、午後は前述のブラサイジョーを楽しみ、夕べからイサンタシャワーの時を過ごしました。
イサンタシャワー、祈りと賛美と食べ物とおしゃべりと笑いの時の頭文字。テゼの祈りと賛美の後は夕餉を楽しみながらのおしゃべり。
でも得てして僕が入ると論議になる場合が多いです(^_^;)
この日は、中田牧師は隣町の教会での説教奉仕。聖書の箇所はルカによる福音書16章19~31節「金持ちとラザロ」のお話。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


神様の御心は勧善懲悪ではない。そもそもすべての人は罪を犯している中、「人の目」であいつの罪は許されるレベルだけれど、こっちの彼は許されない、が有効ならば、神の裁きはいらない。その「人の目」は神を越えたものになるだろうけれど、でもその「人の目」の持ち主も罪を犯している。目くそ鼻くそを笑う、の喩の如しでそれは決して真理ではない。偏ったジャッジメントだ。
神の目で言えば、すべての人は罪を犯している、義人なし!だから、全員天にあげるか陰府に落とすかなのでしょう。そしてイエスを遣わし、天にあげることを明言してくれた、と言うのがキリスト教信仰。神はすべての人の救済のためにいる、というキリスト教の解釈であれば、どんな悪道非道な人でも神は救い給うわけだ。

中田牧師はイサンタシャワーの中の雑談の中で、説教に少しだけ触れ、ラザロは間違いを犯さない善人だったとも書いていないし、金持ちもお金をもっていただけで悪行で金を貯めたかどうかも分からずもしかしたら善意の人だったかもしれない(まぁ施しをしなさいというイエスのお勧めには反していますけれど^_^;)、と言われ、確かにその通りで、この聖書の箇所が言わんとすることがわからなくなったのが論議の始まりでした。

今まで歴代の牧師の言われることからも、僕らが神のなさることにどうこう言える立場ではない事であることは知りながらも、どうしてもこのたとえ話をはじめとするルカのたとえ話は、今僕らが牧師から聞く話、つまり神共にいます、帰依すれば救われることとニュアンスが違うように思えます。
明らかに信徒を増やすために、社会の道徳倫理観を生むように、神はこう望んでいます、的な書き方をしているように思えてなりません。善人であれば天国に行ける、時代を経て免罪符で罪をゆるしてくれる思想を作り出しているような感がしてなりません。
なぜ、ラザロも金持ちも天に行かせなかったのか?は甚だ疑問があります(いや、神にではないです。だってルカだってたとえ話で金持ちが陰府に落とされるのを見ているわけじゃあなく)彼の信仰解釈がこの喩を生み出したのですから。
マルコ等の福音書が魂の叫びを一気に描いたのだとしたらルカの福音書は目的を持って練って書かれたものでしょう。
だから教会に行き始めたころはルカによる福音書が大好きでした。訳の分からない系図から書き始められても何の感動もない中、理路整然とイエスを語るルカは感動をくれました。
でも最近になっては変に鼻につくというか、素朴でも喜怒哀楽が文章から滲み出すほかの福音書に目が行ってしまいます。計算した上で書かれた作品のように思ってしまうのです。
でもそれを悪いとは思っていません、好き嫌いを別として彼なりの宣教の言葉なんです。たとえばこのBlogだって好き嫌いはあるでしょうし、中には楽しみにしてくれる人がいるとすれば書く意味、伝える意義は存在します。そしてもしルカによる福音書が無かったら青年期の僕はクリスチャンになったか?は疑問です。あの時は、正しく生きることを喜びとしたくて聖書を読んでいましたから。


さて、善人往生をとぐいわんや悪人をや 宗教は違えども大好きな言葉。
十字軍と言うおかしな方向に進んでしまったヨーロッパキリスト教。でもシルクロードを経てその崇高な教えは東にも届いていたのでしょう、13世紀後半ヨーロッパで不毛な戦いを繰り広げている中、人の生まれつきの能力や努力ではなくただ神にのみ祈ること、帰依することで救われるというイエスの本当に言いたかったことが、仏教を学ぶ僧によって咀嚼され凝縮されたのではないでしょうか。それが先の歎異抄の一節なのではないかと勝手に思っています。
僕にすればルカの福音書よりも『そのままのあなたを愛している』イエスを通じて語る神の言葉が明確な感がしてます。

20170620-01

で、買っちゃいました(^_^)/

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