創造主に従って

2017年6月18日、小田原教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録 17章22-34節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、 『我らは神の中に生き、動き、存在する』 『我らもその子孫である』と、 言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。



4つの福音書の次に載っていますが、書かれたのはこちらの方が先だと言われています。パウロの息吹がまだしっかり残っている文章なのかもしれません。息吹つまり熱き思いが伝わってきます。
十戒にある「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」というもともとの自分の信仰でもあり、イエスも律法を否定していないという十戒の大事な教えがおざなりにされていることに憤慨しているのが今日の箇所です。

長井牧師は今日の箇所を4点で考えられました。
1.信仰が厚いとはどういうことか?
2.神はどこに居て、どういう方か?
3.偶像を神とするとはどういう事か?
4.神は私たちに何を求めているか?
です。

それぞれに大事な話ですが、説教を聞きながら、ちょっと違うことを思ったので、そちらを書きたいと思います。ですので、説教の内容を聞かれたい方はいつでもお気軽に教会までお問い合わせください。DVDに録音したものがありますので、お貸しすることができると思います。

説教中に頭に浮かんだのは「唯一神」とは何か?と言うことです。
よく多くの人が勘違いしていると思いますが、自然信仰を多神教のように言われますが、それは正しくないように思います。唯一神でも、神作られた木々や草花、動物などを僕らは慈しみます。それは生きとし生けるものの命を大事にすることをキリスト教も言っているからです。神が作ら得たものと言う意味では一神教も多神教も同じです。尊い命がそこにはあります。違いは気も草も取りも人間も一神教では同じ神が作ったという点。
では何が違うか?と言えば、一神教は人間同士の結婚のようなものだと思うのです。
たくさんの神様はたくさんの異性(同性もあり)だと思ってください。素敵な人だと憧れることやお付き合いをすることもあるでしょうけれど、最後はこの人と生涯寄り添いたい、と言う人との結婚(これもひとつの形式概念ですが)するようなものでしょう。
この人に添い遂げるからこそ、ほかの神が不要なのです。

アテネ、つまりギリシアには、ギリシア神話の神々(多神教)があり、同時におおいに論議をすることを良しとする歴史があります。
でも知らない神にまで手を合わせる、つまりは連れ合いが居ながらほかの女性までにまぁとりあえず声をかける的な本当に大事なものとの区別ができないこと。言い方を変えれば自分の頭で考えることなく、よくわからないからとりあえず手を合わせておけばいいや、と言う意識になってはないでしょうか? そうだとしたら本物の神には失礼なことですし、いま日本の社会に蔓延している政治に関しても流されてしまう意識とあまりに似ている感がぬぐえません。
そして人が作った偶像の中に神を押し込める、というような、神と人との立ち位置の逆転をしないようにパウロは声高に注意したように思えます。

キリスト教と言う一神教は、他の宗教を否定する宗教団体ではありませんが、自分は連れ合いが居ればほかの異性に色目を使わない、そういう団体だと思ってくれればよろしいかと思うのです。神に対しても隣人に対してもそうした頑なな頑固な意識を持ちたいと思います。
日本においても戦国武将は「家系を守る」ために本妻以外側室を置く習慣がありましたが、それでも側室を頑なに阻み本妻だけを愛おしく睦まじく過ごした武将もいます。キリスト教と言うのはそんな信仰だと思うのです。
浮気をしない、そこに初めて信頼が生まれるものだと思います。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター