神の望むこと

先週のパトビラには、釜ヶ崎の本田神父の言葉を書かせてもらいましたが、実は自分自身でもしっくりいく文章ではなく、その後のコメントも納得いかないものでした。
そんなこんなで(「こんな」の方は7月に本田神父の教会で礼拝をさせてもらうのに今読み漁っている最中なので)ネットの読み歩いていたら、真宗大谷派円光寺さんのSiteがヒットしました。
ここに言いたかったことに非上に近い言葉があったので、許可を取らずに勝手にで大変失礼ですが抜き出させて頂きます。

助け合うことは大事です。しなきゃならない。だけど、それがすごくいいことをしているかのように勘違いしてしまう。聖書の中に勘違いさせる言葉があるんです。イエスが「人生の最後に、それぞれの生き方に応じて神さまの裁きを受けなきゃならないよ」みたいな話をするんですけど、その中でこんなことを言っています。

「私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」

 つまり、飢えている人に食べ物を与えること、これは神さまにしてさしあげていることなんだと思わせるような言い回しで聖書に書かれています。
 だけど、私が釜ヶ崎に行って労働者から気づかされたことは、「そんなことで得意顔をするな」ということでした。誰が好きこのんで人からものをもらって生活したいと思うか。どうして、にこやかに「ありがとう」と返事ができるか。そういう訴えだったわけですよね。

(中略)

原文でも日本語聖書と同じことを言っているのか、ということで調べ直したわけです。調べてみたら、なんと原文はちゃんと釜ヶ崎の仲間たちの思いにそうようなことが、きちんと書いてあった。
「私が飢えていた時、自分で食べていけるようにしてくれた。私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた」

 そうなんです、これが大事なんです。ない人には施してやれ、ということではなかったのです。やはり、痛みを知る人たちこそ、仏さまの心、神さまの心をもっているんですね。


そして前後しますが

「本田さん、ゆうべはありがとうな」と。夜回りのときことばを交わした顔見知りの野宿者でした。「ありがとう」といわれて、なんか報われた気持ちになったんですね。しかし、そのあと、しみじみとこう言うのです。「だけどなあ、ああいう姿、自分の娘にだけは見られたくないわなあ」。ずきんと胸に刺さりました。
 自分は大事なことを勘違いしていたことに気づかされたのです。私は「彼らのためにいいことをしている」としか考えていませんでした。その「いいこと」が、同時に彼らに「つらい思い」をさせてもいることに、考えが及ばなかったわけです。
「ああいう姿、娘にだけは見られたくないわなあ」という思いに、気づきませんでした。災害時の、一時的な緊急避難ならいざしらず、問題解決のめどもないまま人からものや食べ物をもらってしのがなきゃならない自分・・・。何年も前に別れた娘、ひそかに成長を思いえがいている自分の娘に、こんな姿は見せられない。そんな気持ちをあいてに起こさせる夜回りでもあるのだ、決して誇れるようなことではない。

 どんぶりを渡してるのに愛想がないからといって、文句を言えることではなかったんだ。そこそこ足りてる者同士とちがう。食べ物をもらって、「ありがとう」と言葉を返すことで人間が豊かになるという考えは、足りている者たちの発想でしかないんですね。むしろ仕事があれば、誰の世話にもならず、堂々と食堂ののれんをくぐって、自分のふところと相談して食べることができる。そういう状況を造り上げる支援、それだったら胸が張れるんじゃないですか。


僕らは僕らの活動を通して『ごめんな、こんなことしかできへんねん』が返事なのでしょう。
「ありがとう」は辛い気持ちになりながらも、僕らに頭を下げてくれる人に僕らが言う言葉なんですね。

良い言葉に巡り合えました。

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