信仰によって義とされる

2017年5月21日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章21-31節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。



宗教改革をしたルターは大学で法律を習ったものの、ある日野原で雷にあたり死の恐怖を味わい、この世での生涯は自分の意志ではまかりならないものがあると思い、アウグスティヌス派の修道院にはいり極限をめざし修行の日々を過ごします。がどんなに禁欲しても自分の思う域に達しなかったそうです。

作家の鯨統一郎氏の作品の中で仏陀は悟りをひらけなかったと書いていたのを思い出します。
ルターもそうですが、頑張った要因がもしかしたら死後天国(神の御許)に行けることを求める、つまりは悟りではなく自分のために頑張っているのだという自分の気持ちがほんのわずかでも生まれたら、そこには悟りが開けないことになるでしょう。
己の未来のために頑張るのは、別段誰でもしているのです。週末どこか遊びに行くために働くのと何ら変わりがないと気がつけばその修行の意味を疑問に感じてしまうものでしょう。

先輩友人の笹村さんは曹洞宗の僧侶でもあります。この宗派は死後の存在を認めないそうで、そうであればルターや仏陀の悟りの苦しみはなかったかもしれません。ある意味、未来が無い分悟りを開くには開きやすいかもしれませんが、でも僕はその希望が無いことに飛び込む勇気はありません。僕にとっては死して神のもとに行ける希望こそが自堕落にならない生活の源なのです。
鯨氏は悟りをひらけなかったという仏陀ですが、本当はどうだかわかりません。でもルターは聖書に書かれたことは律法を守ることで救われるのではなく、神の愛でこそ救われるものであることに気が付きます。
どんなに頑張っても完璧にはなれません。それは聖書の中に「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)とある通り、僕らはいくら頑張っても、妬んだり怒ったり恨んだり、不親切をしたり、見て見ぬふりをしてしまうものです。

そんな人間に対して神は、人を義とすることで神は正しくなる、と言うのです。言い換えれば、神は人を義とすることの望んでいるのです。信仰告白で言う『神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。』なのです。

不完全な人間を義とする神の恵み、だから救われる。これは、一つの考え方です。でもその考え方に「賭ける」ことが信仰ではないでしょうか。

それを僕らは些細なことで他人を見下そうとしています。目くそ鼻くそを笑う、と言う喩えは、今僕が活動している野宿者支援にもかかわります。
慶応大学の井手教授は、この問題は生活が苦しい中級階級の人が、生活保護を利用している人に対して「俺も苦しいのに税金を使ってもらえないのに、あいつらは税金を使ってずるい」と言う妬みが根底にあるのではないか?と分析されましたが、まさに僕もその通りに思い、そうした思いは形は違えども僕の中にもあるでしょう。他人ばかりがいい思いをすればいい気持ちになれないものだと思います。
教会もそうではないのではないでしょうか? 教会に毎週行っているとか、洗礼を受けたとか、様々なご奉仕をしているとか、そんなことで「中流階級」のようなオーラを出してはいないでしょうか?無言のうちに生活保護利用者を見下すように「あいつらはずるい」と来ない人や奉仕をしない人を非難してはいないでしょうか?

しかし神はすでにすべての人を救った、と完了形で語ります。それは信じようが信じなかろうが同じです。どういう人生を送って洋画関係ありません。
一点違うのは、信じていない人は救われていながらも救われるのか不安に思っている人で、信じている人は救われたんだと喜びにあふれている人です。

旧約のアブラハムも小さな一部族の長に過ぎませんでした。イエスの母マリアも一庶民の少女に過ぎませんでした。でも神の言葉に信じますと答え、信じて祝福を受けました。無条件の祝福の訪れを喜び以て待ちながら生きたいものです。

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