神の愛の実現

2017年5月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 2章1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。



何度も説教で聞いている「罪=的外れ」
「大丈夫」とは、もともとは「立派な男子」を意味する言葉ですが、今になっては「問題ない」と言う意味に変わりました。そのように時代で意味が変わる言葉はたくさんあり、「罪」も的外れから非行・法違反に変わりました。
でも、本来は人の決めたものに対してではなく、そこには神と言う絶対的な存在に従わないことこそが「罪」であります。
絶対的存在と言う部分で言えば、初めて映画に出演する俳優さんが監督を無視して演技をして自分の演技が最高と勝手に演じることのようなもので、それ故に「的外れ」な演技と言われちゃうことと同じなのでしょう。

イエスは弁護者だと言います。弁護とは何とかして助けてあげようとする人です。つまりは「的外れ」な監督の指示に従わない俳優さんのように、神の示した生き方に従わない人間と神の間を取り持つ存在なのです。

これも何度も書いています。聖書をどんどん凝縮していくと「神を愛し、隣人を愛し」なさい。につきつめられるでしょう。
そして僕らはそれに対して「アーメン(その通り)」と言いながらも、すぐにその「アーメン」を忘れ、勝手な人生を送ります。
長井牧師はそういう時に「的外れ」をしやすいと言います。
出来なかったという反省と自己嫌悪。

しかし聖書はそれでも神から導かれ守られているという喜びと感謝を教えてくれる本です。

敬虔なクリスチャンと言う言葉があります。
敬虔とはなんなのでしょう? 僕はその言葉を聞く時に思い出すのは放蕩息子の喩えです。
放蕩の限りをつくし一文無しになった時、あっ神の元に戻ろう、と思う心。
どうしてもそこまで放蕩の限りをしつくしたら恥ずかしい、申し訳ないと神のもとには帰れないでしょうけれど、帰ることこそが敬虔な信仰なのではないでしょうか?

弁護者イエスがいます。
そして神はあなたを愛しています。放蕩の限りを尽くしている頃飢饉が息子の行った地方であると聞き不安に思い、そしてもしかしたら帰るのではないかと毎日小高い山の上から探し求め、その通り帰って来た瞬間に抱きしめてくれる存在です。
愛していると言ってくれることに背を向ける必要はありません。申し訳ないと思うこともありません。
「ほめて伸ばす」と言う言葉に似ています。どんな人生をしていても励ましてくれる神。
励まされて伸びたいです。

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