正しい者はいない

2017年5月7日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章9-20節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、 彼らは舌で人を欺き、 その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。



先週からの続きになります今日の箇所、ユダヤ人もギリシア人(異邦人)も神の前で罪を犯し神の怒りを買った民族であると言います。民族と言うと僕ら日本人は特に他の日本人に押し付けて自分は関係ないと言いやすい観を感じますので、ここでは人と言うことにします。

先週の説教でもお話がありましたが、ユダヤ人は神に「選ばれた」民族と異邦人を卑下していました。そうしたユダヤ人の一人に、今日のローマの信徒への手紙を記したパウロがいます。
フィリピの信徒への手紙3章5節に、
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
と記しているように、選民の中でなお選ばれたものと言う自負。そんなパウロが神の前で正しくないと言います。
ですから他のユダヤ人たちもグゥの音が出ません。

正しいものは何か?をパウロは実体験を含めて語ります。前述のフィリピの信徒への手紙の直後、
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

神の座にありながら遜(へりくだ)って人となり、その遜った人生を示した生き方にパウロは「義」と言います。
人に仕える生き方、つまり特権と言う利権ではなく義務が生じたというのです。
「特権」と言って見下すのは決して義務ではなく、神の啓示に逆らった生き方だというのです。

3・11の時、世界中が感動をしたのは報道された被害者たちの共生でした。すべてを失った、第三者ではなくても弱者とみなす環境にありながら支え合って生きる姿に素晴らしさを感じたものです。連帯・分かち合いこそが神の啓示でしょう。それをその啓示から僕ら人間は見せてもらい感激をしたのです。

しかし感動は消えやすいものです。
イエスの弟子として最初から御後を歩いたシモンペテロに関する記事がルカによる福音書5:4-にあります。
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

イエスの奇跡を何度も見ていたはず、つまりはイエスが網を下せ、と言えばそこには魚がいるという意味であることを知りながら、無理ですよ、でもお言葉ですから致し方ありません、と言う投げやりな態度。

さまざまな事象からふりかえっても神の前で僕らは罪を犯しています。
「罪」と言うと、犯罪のように思いますが、神に従わないことが罪です。原語で言うと「的外れ」と言う意味です。
大きな「罪」を見て、ああ自分のやったことは些細な間違いだった、と言うかもしれません。
しかし牧師は語ります。
黒い壁に黒いしみがついても目立ちません。灰色の壁でもそんなに目立たないかもしれません。でも白い壁なら黒いしみは目立ちます。
罪は前提である壁の色、つまりは自分の立ち位置によって逃げることもできるのでしょう。
日本にも目くそ鼻くそを笑う、と言うことわざがあります。
自分の立ち位置を弁(わきま)えず、他人を誹謗、蔑視しても意味がありません。自分も罪人です、と言うことを自覚した上で、そんな自分をも愛して下さる神様。なら、他人を愛す神でもあります。
感謝をもって、神に選ばれた人であればこそ隣人にも仕えたいものです。

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