束縛された不自由からの開放

宇都宮けんじ氏がFBで紹介していたニュース。

ホームレスを経験した人が働き、地域の人と交流できる場所をつくりたい――。そんな願いを込めた小さなカフェが東京都練馬区に18日、オープンした。フェアトレードの豆を自家焙煎(ばいせん)したコーヒーや本格カレーが味わえる。

 名前は「カフェ潮(しお)の路(みち)」。一般社団法人「つくろい東京ファンド」(稲葉剛・代表理事)が、クラウドファンディングなどで集めた寄付金で開設した。民家を改修し、2階がカフェ、1階がコーヒースタンドになっている。

 つくろい東京ファンドは2014年7月、空き家を利用した生活困窮者のための個室シェルター「つくろいハウス」を東京都中野区に開設設し、住まいの確保や生活支援をしている。いまは都内4区に22部屋を用意。これまでに約50人が生活保護を利用するなどして一般のアパートに移った。

 ただ、アパート入居後も地域で孤立しがちで、仕事を探そうにも高齢や障害のためフルタイム勤務は難しい人が多い。稲葉さんは「『住まい』の次は『仕事』と『居場所』が必要。それなら自分たちでつくろうという思いでカフェを立ち上げました。地域の方も高齢者もお子さんも集まれる、みんなの居場所にしていきたい」と話す。

 カフェでは20~70代のホームレス経験者5人がスタッフとして働く。時給は1千円。その人の事情や体調に応じて柔軟な働き方ができる。さらに多くの人に呼びかけていくという。将来的には子ども食堂や学習支援にもカフェを活用していきたいとしている。

 ログイン前の続きコーヒーは200円、日替わりランチ500円、カレー700円。シェフを務める同ファンドの小林美穂子さんは「カレーは3時間かけてつくっています。おいしいですよ」。お金がない人も足を運べるよう、余裕のある人が「次に来店する誰か」のために飲食代を前払いする仕組みも採用し、「お福わけ券」と名付けた。200円と700円の2種類がある。

 見学会やプレオープン日には、かつて新宿駅の段ボールハウスで暮らしていたホームレス経験者も含め、稲葉さんの長年の知人が集まった。かつて日雇いで建築の仕事をしていたという男性(64)は「顔見知りが多いから、またコーヒー飲みに来ます。お店がはやるといいな」と話していた。

 カフェは火、木の12~17時、コーヒースタンドは火~金の12~15時。今後営業日を増やしていきたいとしている。詳細は同ファンドのウェブサイト(http://tsukuroi.tokyo別ウインドウで開きます)で。
 朝日新聞 清川卓史 2017年4月21日06時00分

本田哲郎神父の著書「釜ケ崎と福音」内の言葉を借りずとも野宿を余儀なくしている人にお声をかけると、その多くは生活保護を取得したいという言葉より、もう少しここで自分の力で頑張りたい、という回答が返って来ることが多いのは、野宿者支援をしている人共通の認識だと思います。かくいう僕も高齢の野宿者に、体調不安から少ししつこいぐらいに生活保護受給の正当性を語ったこともありますが渋られることが圧倒的に多かったです。

さて、井手先生の仰った『自由のなさ』こそが弱者の意味、という言葉を昨日聞く機会があり、全くその点こそが一番の問題点なのだと思った次第です。
僕らが当たり前にしている「会話」や「生活」。考えてみると、例えば学校のいじめではこの「会話」における自由のなさ、つまりは無視・孤立が一番の苦痛なのでしょう。野宿の人も大きなコミニュティがあるドヤ街、また小田原のような地方都市でもコロニーを作って生活している人は「会話」がありますが、ドヤ街の中でも小田原でも孤立している仲間がいます。僕らが訪問をすれば誰とも会話する機会が無く溜まった言葉が出てきてあっという間に30分、時には1時間ほども傾聴したケースもあります。仲間不足という「自由のなさ」という弱者であるわけです。
また、野宿のコロニーからアパートに居宅設定した直後(半年くらい)で亡くなられるケースもありました。部屋という囲まれた空間から外に出れなくなって、大自然という自由が奪われた…出ようと思えば自分の部屋だから出れるのでしょうけれど囲まれた不自由さを味わった結果なのかもしれません。囲まれた瞬間に保守的な心が生じ、外に出るのが怖くなるのかもしれません。
地方都市から電車を乗り継いで東京に行く、最初の一歩が踏み出せない。興味ある集会なので出てみたいが勇気が出ない。楽しそうなんだけれど、不安な要素は無いんだけれど怖気づいている自分。踏み出してみれば「なんだ、簡単な事じゃん」と言えるのは分かっているんだけれどな…。
河島英五さんというミュージシャンの方がいて、その方の作品に「てんびんばかり」というのがあります。その一説に

うちの仔犬はとても臆病で一人では街を歩けない
首輪をつけると とても自由だ
僕を神様だと思っているんだろう

というフレーズがあります。僕らは首輪をつけられることが不自由な象徴として感じますが、首輪をつけてのお散歩はご主人さまと一緒という自由を感じているというこのフレーズはよくわかります。自由かどうかは自分の感性に行動が適合できるかどうかなんですよね。

問題は、他人によって首輪をつけなければいけないという強制、首輪をしてはいけないという圧力があることが「不自由」=「自由のなさ」でしょう。
支援を始めたころ、若気の至り(と言っても若くはなかったけれど)アパートに入りたくないという自由を無視して必死に自分の意見を押し付けてしまったかな、と思っています。
傾聴などとかっこいいことを語りながら、実は持論を静かに聞いてくれたのは野宿を余技する人だったのかな?と思うのです。

聖書に善きサマリア人の喩というのが載っています。

ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で、強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。祭司、レビ人といった神殿にかかわる人々はこの人を助けずに通り過ぎた。しかしユダヤ人から大変に嫌悪されていたサマリア人は、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をし、家畜に乗せて宿屋まで運び、宿屋に怪我人の世話を頼んで費用まで出した。
このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、このたとえ話で誰が怪我人の隣人であるかを律法学者に問い、律法学者が「助けた人(サマリア人)である」と答えると、「行って同じようにしなさい」とイエスは言った。

という喩は、とかくサマリア人になりなさい、的な説教になりますが、けが人の僕の話を聞いてくれる野宿者こそが(社会で蔑視されているけれど)サマリア人なんだな、と思います。

それでも孤独でストレスをため込んで吐き出すことが出来なければ病んでいきます。
野宿者支援というのは実はこうした孤独解消のボランティアなのかもしれません。
そしてQOL(クオリティ・オブ・ライフ)働きたい人に働く場を創造する活動なのかもしれません。
子ども食堂も野宿者の支援も市民の理解やスキルが上がって来て形はどんどん良く変わっていくのかもしれません。
今まで僕らの活動は「寄り添う」共生に趣きをおいていましたが、少し「脱出」QOL、笑顔を拭くりだす支援ににシフトしていくべきなのかもしれませんね。

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