僕となられた主

2017年4月13日、洗足木曜日の小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 13章1-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


TVで「モニタリング」と言う番組があります。常識を超えたシチュエーションを隠しカメラでとらえどのような対応をするのか?を観察するという番組です。
もしその番組で、「私はクリスチャンです。今日は聖書で大切に教えている『洗足の木曜日』です。あなたの足を洗わせてくれませんか?」と言ったら何人が足を洗わせてくれるでしょう?100人頼んで99人は訝しげにNoと答えるでしょう。
そして番組では身分を明かして「何故そうなったか?」を聞きますが、そのように聞かれれば、「理由はわかりましたが、足を洗われるのは恥ずかしいです」と答えるのではないでしょうか?
たぶんこのBlogを読まれている人も、次回僕と会った時に「では足を洗わせてください。」と言われたら同様の理由でお断わりになられるでしょう。
なぜ足を洗われるのは恥ずかしいのでしょうか?足を洗われるだけでなく訳もなく人にしてもらうことは心苦しかったりします。

さて、そんなことを頭の片隅に入れて頂き、話をこの最後の晩餐の場面に戻します。通常は食事を前にして、土埃の舞う外から部屋に帰ってきた客人をもてなすために奴隷が足を洗います。が、今日の箇所を読むと食事の最中であります。そんな時にイエスはわざわざ立ち上がって弟子の足を洗おうとしたので弟子たちはことさらびっくりしたのでしょう。普段の作法ではないのです。既に食事の最中なのです、意図があることは弟子にも伝わったでしょう。
そんなシモンペテロとイエスの会話に話を戻したいと思います。
このシモンペテロは一生懸命な純な人ではありますが、知慮に足りなかったり冷静さに掛けたりする愛すべき御仁です。
何か意図があってイエスが自分の足を洗おうとしたので思わずNoを言ったところ、イエスに諌められます。
すると全身をと突拍子もない返しを語ります。
しかしイエスは全身は清いからと語ります。
意味のつかみ難い言葉ですが、長井牧師はヨハネによる福音書1章29-34節
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

イエスの前で神の子であるという証しをしたことによる「聖霊による洗礼」を受けたから清いと言われたと語ります。
水によるバブテスマを弟子たちが皆授かったかどうかは記載がないので不明ですが、「足を洗われる」ことで霊によるバブテスマを受けた事をシンボリックに示したのでしょう。
ではなぜ足を洗うのでしょう?またあなたたちも互いに足を洗い合えと言われたのでしょう?
そこにはただ隣人愛を伝えるだけではなく、当初の足を洗われることが恥ずかしかったり、申し訳なく思ったりするだけでなく、その恥ずかしさを超えるだけの愛の存在が大切だと言いたいのではないでしょうか?
寝たきりの家族の介護、そこには足を洗う行為、洗われる行為は当然のごとく存在します。互いに寝たきりの方サバイバーさんとケアギバーさんになること、そこに恥ずかしさすら超えた愛の本質があるのではないでしょうか?
もしモニタリングで「足を洗ってくれませんか?」だったらもしかしたら半分は洗ってくれるかもしれません。そこにあるのは洗ってあげたという優位性ではないでしょうか?
野宿を余儀なくされている人におにぎりを届ける活動は、もしかしたら”優位性”に浸った行動かもしれないけれど、野宿の人との関係が正常化すると、入れて頂いたコーヒー(野宿の方がなけなしのお金で買ってくれたものでしょう)や家のそばで取れた山草などの漬物をご相伴にあずかりながら会話する中から、より一層親密さが増したりもします。

RFL(リレーフォーライフ)ではサバイバーズラップ(がんと闘っている患者さんのみのウォーク)と共にケアギバーズラップという介護者(家族友人仲間病院関係者)のみがサバイバーの拍手の中歩く時があります。特別な何かを連れ合いにしているわけでもないし、気恥ずかしくて僕は歩いたことがありませんでしたが、これこそ互いに足を洗う関係。大いに堂々と笑顔で歩くことをこの洗足の木曜の出来事は教えているのだと思います。
何もしていないよ、でも共にいる、それこそ互いに愛する姿の基本なのでしょう。「これが愛だ」ではなくよくわからないが最期の時、死をも祝福だと思われる人生を過ごし過ごさせる関係。足を洗うに代表された愛し合う姿を覚えつつ、イースターの良き日を待ち望みたいものです。

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