律法とは

2017年2月19日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 2章12-160節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

アブラハムの時代から神と共に暮らしている。そしてその後、モーセらがエジプトの奴隷の地から逃げていくときに神は盾となって守ってくれた。
と言うシーンから読み取れるのは、神は制約ある「奴隷」と言う立場からの解放、自由を与えてくれる存在。

そしてその直後与えられたのが律法ということから考えれば「律法」の原点は解放や自由のためのものではなければいけない訳です。
コントロールする「律法」が解放や自由である。それがごく一部の人ではなく、すべての人の解放や自由であるためには、その「律法」の根底に「隣人愛」がなければ、誰もの自由である「律法」にならない訳です。

2017年2月12日にマタイによる福音書5章17-20節の御言葉が与えられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
さて、イエスの言う完成とは何か?

僕の一番好きな聖句であるマタイによる福音書22章36節以下を見ると、イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
律法と預言の書は、とイエスは言っています。聖書は現聖書どおりに書かれた訳ではありません。イエスの時代のユダヤ教は律法の書である創世記から申命記とイザヤ書からマラキ書までで形成されていました。
つまり神から命じられた生き方をひと言で言えば神を愛せ、と同時に隣人を愛せ、に尽きるというわけです。

そういう今日のパウロの真意は3章28節に書かれている信仰義認です。
信じること、神に帰依することのみが信仰のベースである、と言う考え方ですが、今日の箇所を見ると律法の行動にこだわっているように見えます。
が、律法を真摯にこだわることは、本気で聞く、本気で知ろうとすることでしょう。それは行動です。
聞いて、心に留めていれば、日々の行動が変わります。

隣人を愛せ、と言う言葉をフーンで終わらせていれば、真剣に隣人を愛そうという行動をとらないでしょう。でも、その言葉が神から与えられた言葉と真摯に問うていれば、日々の生活の中でそういう場面に当たった時行動をとることができます。

信仰義認とは信仰に基づいた行動と言う意味だと思います。イエスも行動を起こしながら生きました。イエスのみあとを歩む僕らも同様であることが求められているのでしょう。

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