争いから得るもの

2017年3月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 12章22-32節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」



科学が進んだことは特にすばらしい事ばかりではないけれど、物事が少しわかりかければ世の中は大きく変わります。2000年前はこのユダヤ地方だけではなく、わからないことの多くを人智を超えた力と思うことは多分にあったと思います。
21世紀の今日でも子どもたちは本気で妖怪ウォッチやゲゲゲの鬼太郎の中に出てくる妖怪がいると信じているだろうし、僕も子どもの頃見たウルトラQや妖怪人間、どろろと言った特撮やアニメが現実にあるもの(居るもの)と言う感じで怖かったです。心霊写真などの番組はあいもかわらずよくTVで流れているし、そこでは『○○の霊です』などまことしやかに大のおとなが言っています。要は2000年程度の時間の中では科学はさほど進歩しなかったのかも知れません。
ですから、統合失調や心の病などの方を見ても治療法や原因が探れない時代の人は悪霊のなせる業と思ったのかもしれませんし、がんや腫瘍が神経に触れていたがる姿をみても外から患部が見えないので同じように感じたかもしれないと思うのです。

そういう意味では、重要な一つの仕事として『悪魔祓い』はあったのでしょうし、ファリサイ派と言われる人の特権だったのだと思います。
今多くの人が医者に行くようにファリサイ派の人のところに行って調子の悪さを訴え、悪魔を追い出してもらい機嫌よく帰っていく姿は容易に想像できます。
そこにファリサイ派ではないイエスがやってきていとも簡単に病を治してしまった。
『おいおいおい、冗談じゃないよ』『いったい誰に断りをして俺の島で治療をしているんだよ』『好き勝手なことしてもらっちゃあ困るねぇ』
多くの民衆が見ている前で大勢の人が一人の若者に対して手荒なことは出来ないでしょう、何より群衆も奇跡を起こされているのを目撃しています。でも、黙っていたらおまんまの喰い上げだぁ、何かこいつは偽物だとしなければ俺たちの立場が無くなるとファリサイ派の人たちは危機感を覚えたのではないでしょうか?

そして言ったのは、こんな奇跡を起こせるのはお前は悪霊に乗っ取られているからだろう!? 滑稽な言いがかりです。だって自分たちと同じことをしているのを見てお前は悪霊だから出来ると言うのなら、じゃああなたもそうなんですね、と言い返されるのは当然です。
しかし売り言葉に買い言葉のそうした議論をイエスは不毛と思い、滑稽な言いがかりにも真摯に応えているのが今日の箇所です。

先ほど統合失調や目に見えないところの腫瘍などで苦しんでいる人が悪霊に取りつかれたと記しましたが、ただそれだけではなく、穢れの発想が多くあり、血や死体に触るとか、荒野で生活する羊飼いなども悪霊に取りつかれやすかったりします。そうした人は社会コミニュティの中で蔑視されています。もしかしたら極度の蔑視の中、優しい対応ができにくい人もいたかもしれません。
例えば野宿を余儀なくする方の中には、人として優しいけれど片付け事が全くできない人もいます。そうした1点のマイナス部分だけを大きく評価して「だからあいつは駄目なんだ」と言うレッテルを貼られやすい中、イエスの奇跡はそういう偏見・蔑視で見ないことで人として社会の中で生き易くする、それこそが福音であり、神はそうした福音を与えることを自分にもファリサイ派の人にも命じている。福音的な社会を共に作り上げよう、と語っている言葉だと思います。
イエスは誰もが福音、つまり神の愛の中平等に生きて人生を楽しむ権利をもっているのだからそういう社会を作り上げようではないか、と特権階級のファリサイ派の人に語りますが、ファリサイ派の人々は自分の地位を脅かす存在としか思えなかったのでしょう。

しかし、そう読み解く僕らはファリサイ派の人のように気付けているのでしょうか?
三浦綾子さんの「塩狩峠」で主人公は、友人が金を盗み社を追われる事を善きサマリア人の喩えに置き換えいまこそこの怪我をしている旅人を救うサマリア人になるのだとしますが、受け入れてもらえず苦しみ、そして実は自分がけがをして倒れている旅人であり、通りかかるイエスと言う名のサマリア人を待っていることに気付き、信仰を告白します。

今日の箇所も気付いていないファリサイ派の人々にイエスは神の国はあなたたちの所に来ていると言われます。
あなたの仲間たちは何の力によって・・・とも言われています。
僕らは2000年の間に然程進歩もなく、未知なるものに恐怖をし、隣人を疑心で見ながら国際紛争の中で不安に生きています。ファリサイ派の人も今を生きる僕らも変わりません。自分では歩けない傷ついた旅人のようなものです。そこに神の国は来ていると語ってくれる言葉の助け手に勇気をもっていたいです。
気付かない者、傷ついて倒れている者と言う自覚の中、それでも助け手が来ることに感謝をしてこの1週間も過ごしたいものです。

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