栄光、誉れ、平和

2017年3月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 2章1-11節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。


何度か書いていますが、例えば初詣や願掛けの祈りで、祈りが成就しないと、神も仏もあるものか、ここの神様は願いが叶わないとその神社神仏等々を批評します。それはまさにこの神は成就させてくれるか値踏みをして神を試したが如くです。
僕らはやはり人の祈りの成就ではなく、神の定めた身を歩ませてくれる、と言う部分をただただ感謝する立場であると思うのです。
それでも自分の願いを叶えたい不完全な人同士が生活するために律法が神から与えられました。しかし、律法を守ることを目的とし、根本を忘れ形式の完璧に走ります。
根本とは何か? それは隣人を愛し、神を愛すことです。
安息日は神のための日、だから目の前で交通事故があっても何もしないことがいいという律法原理的なのはただ形式的な律法を守っている姿でしょう。そこには愛がない。
そして自分の祈りの成就だけを考えれば、裁きを生むこともあります。共に同じベクトルを目指していても些細なことで差異が生じると、相手の行動で自分の祈りが成就できないと思ってしまうこともあるでしょう。自分の思いが成し遂げられるのが当たり前と思った所に、神の整えてくれた道を歩むのではなく、自分の望んだ道を歩んでいると思うようになり、それが成し遂げられないと呪うようになる。
パウロは裁きは神に委ねよ、と言います。

そういった話を聞きながら、不完全な僕らはどこまでが神の御心なのか?どこからが自分の傲慢なのか?を思います。「裁き」「批判」「否定」こうした言葉の違いは何か? 「頑な」と「忍耐強い」と言う行動は、どこで見極められるのか? 今頭に浮かんだ考え、口から出た言葉は「善」なのか「悪」なのか?
もちろんYesマンのように、相手の意見に従うだけではいけません。でも、裁きの言葉、頑なな自分の意見を通すための発言もいけないでしょう。
神の憐れみで救いに入れられているという喜びの中主の導きに従った行いが出来ますように、と祈りながらも、さてなかなかその判断は難しいぞ、と言う感じです。

それでも自分の祈りの成就ではなく、無心に神の定めた道と信じて歩めるように、祈り自分と向かい合える時を1日1回でも持てれば、上記の言葉の差のような部分が見えてくるのかもしれません。誤った裁きをしないように心を落ち着かせる時間を忘れないように祈りの時を持ちたいものです。

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