福音を恥とせず

2017年1月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章16-17節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


聖書、特に新約聖書は「信仰の書物」です。だから読んだ人がそこから影響を受けどう生きるかというものですので、多様な読み方ができると思います。
しかし、聖書を信仰の書としながら、いわゆるカルトと呼ばれる原理主義的な指導者のエキスで聖書をコーティングする宗教グループもあります。
言い方はおかしいですが、過去の神学を鵜呑みにするのではなく、一つ一つの御言葉は私にどう語りかけているのか、この言葉は正しいのか正しくないのかまで、自分の力で吟味する上で聖書は輝きを増してくれます。

福音を恥としない、というショッキングな御言葉で始まる今日与えられた聖句。中田牧師はこのローマ書のポイント、もっと言えばパウロ神学の中心思想だと言われます。
恥ではないとあえて公言する裏には、恥だという考えがあったことでしょう。それはアテネ伝道の際にあざ笑われたことなどに端を発するでしょうし、言葉になっていなくても雰囲気で感じることもあります。2017年生きている僕らも『宗教なんて何も役に立たない』とか『信仰をもっていい事あるの?』というような疑問を投げられることもあるので、人は2000年経った今でもこの問題に直面しているのでしょう。

そもそも福音を信じて人は何の得があるのか?を考えてみましょう。
金持ちになるのでもなく、頭がよくなるわけではないし、永遠の命がこの世で与えられるわけではなく、信仰をもっても病にかかる時はかかるし、年を取って出来ていた事がだんだん出来なくなっていきます。
そもそも十字架にかかって殺されたものが神の訳はないという考え方もあります。

福音を恥とする考えはきっとそうした人の望みがかなえられないことからくるのでしょう。自分のしてほしい事をしてくれる「ご都合のいい神」を望むのならキリスト教の神は神ではないでしょう。それよりも壺を買えば運が開けるような神に託すべきでしょう。しかし「この壺を買えばきっと…」という言葉に心揺らぐことはあっても購入に至る人は少ないのは、例えば金持ちの人は一生懸命働いた人であり、良い学校に行った人はまじめに勉学をした人であるにもかかわらず、その努力なくして叶ってはいけない道理であることを多くの人は知っているのです。でも、そんなものがあったらいいな、と言う妄想がご利益宗教を生むと思うのです。まさにドラえもんがいたらなぁ的な無邪気な羨望でしかないと思うのです。

福音を恥としない、福音を信じて何になるんだ。そういう意味ではキリスト教は何もならない宗教です。
しかし聖書の神は一つだけ「何かになる」ものをくれます。それは神共にいます事、癒してくれることです。しかし、こんなことは世間は歓迎しないです。自分の生活にプラスになることだけを追い求めたら神共にいることが何の得になるか、と思うから。
でも、それはじつは信じる者信じない者、すべての人を神が寄り添ってくれているからです。空気があることは誰もありたがらないのはあまりにも当たり前のことだからでしょう。
そしてよくよく考えれば、金や頭や健康も人生を楽しく過ごすには大事な要素かもしれませんが、なくても十分楽しめます。しかし、本当に苦しい時共に居てくれる信頼をおけるものの存在は無ければとても苦しい人生になってしまいます。

しかしキリスト教は2000年もの間続いています。それは実感がないままの人も多いですが、空気のありがたさを実感している人もいるからです。
日本は水はタダだと思ったのが最近は有料で買う習慣が増えました。当たり前をありがたい事と認識しなければならない時もあります。

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