御心に適うもの

2017年1月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 3章13-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。



教会は洗礼を大切にしています。これは「神と自分」の部分ではまったくその通りだと思うのですが、「自分と他人」と言う人と人との間では僕は意味を感じないのです。ですから、教会に神を求めに来ることよりも受洗と言う儀式を大事にし、未受洗者をオミットする聖餐式にはどうも違和感があります。教会や牧師や信徒が「していい」、「してはいけない」というようなものではないような気がします。教会の敷居は高いのにそれを越えてきたところには神への依存があるのだからその人個人と神との関係なので僕ら人がとやかく言うのは神への越権行為、お門違いな気がします。
その考えのベースはこの場所で、イエスは正しいからと受洗をしたけれど、この後イエスは洗礼を授けた記述はないのです。イエスであっても神の前に正しい事として自分の信仰の表明をしましたが、それを他人には強要しなかったのでしょう。
そんな自分の考えのまま、今日の説教を聞きました。

長井牧師は、「イエスは教祖にならなかった」と語ります。先生のお考えはわからないけれど、「教祖」として上から目線で受洗をしなければクリスチャンではない、と言う「宗教」でないという意味であるのなら、僕としては心強い説教です。

神とイエスの関係で言えば、上に居る神と下から見上げるイエス。それはイエスと人の関係の相似のように見えます。そして下から上の神を見上げるイエスの生き方、つまりは一番下座に居るもののようにふるまえという生き方を倣えというイエスに従いたいのです。

そして牧師は続いてネルソン・マンデラ氏の
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

と言う名言を引き合いに語られます。
それは聖書に記載されたイエスの生きざま、行動や発言に従ったクリスチャンの考え方です。

受洗とは神への証。神の世界を作ることこそ人の平和と幸福が成し遂げられるという信頼。ゆえに自分の行動をもって神の愛を実践するのです。この一点に集中したいです。

聖書は生きている書物と言われます。それは聖書によって生き方を定めその生き方を全うする人が多いからでしょう。
日本キリスト教団は宣教基礎理論というものがあります。そのⅠの2の(4)ハのdの中に、「信徒は、この世の問題を自己の問題として神にとりなし、神の言葉を伝達し、また、礼拝に参与して神のみわざを証しすることである」と書かれています。
ネルソン・マンデラ氏は、聖書に従って神から愛を学び、愛を広げるというイエスのみあとを歩んだわけです。僕らもイエス→マンデラ氏→自分と言うつながりを大切にしたいものです。
受洗をして仲間になってくれることは何よりもうれしい事。でも、イエスはそれよりも隣人を愛すことをもっと重要視したのではないでしょうか。

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