来たるべき方、主イエス

2016年12月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 11章2-10節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20161211-01

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。


ヨハネが牢獄にとらわれている話は、別途有名な話なので、ご関心ある方は検索してもらいたい。これより約30年ほど前にイエスが生まれたクリスマス直後ベツレヘム周辺のジェノサイトがあったこと、そしてヨハネの投獄とローマの権力者は僕らが想像する以上に救世主の誕生とその新興勢力によって自らが滅ぼされることを怖がったのだと思います。
そんな牢獄の中にいるヨハネの一番の関心ごとは、今街場で噂されているあちこちで奇跡を起こすイエスが本当にメシアなのか?と言うこと。自分で確認できればいいのだが出来ないもどかしさは、弟子たちをイエスのもとに送り込み本人から聞き出そうとした、と言うのが今日のシーンでしょう。

「あなたはメシアですか?」と言う直球のクエスチョンに対して、禅問答のように変化球の回答。
ヨハネ・クラスならそんな変化球でも理解できるけれど、弟子たちはこの答えをどう受け取ったのでしょうか?
しかし宗教(信仰)の大事な部分をここから読み取れる気がします。
宗教(信仰)は、言葉巧みに自分の宗教に呼び込むものではないという事。たまたまこの礼拝が終わり、午後の行事のわずかな間食事を作っている暇がなかったので、近所のファミレスに行ったところ、隣のテーブルでは中学生にも見えそうな若い女の子が二人1人の男の子を宗教の勧誘か何かで説得している最中でした。
始めはみんな不安だから、とか、みんなそう言うけれど結局は、と言う言葉がとぎれとぎれに聞こえてきました。
宗教(信仰)というものを現代人が必要としない風潮の中、まず言葉で説得することも大事かもしれないので、やみくもに否定はしませんが、僕ならその人の背中(日々の行動)を見て、その行動の源が宗教(信仰)であることを知ることでその宗教(信仰)に対して好意を持つので、行動無き言葉だけじゃなと言う気がしてしまいます。
言葉で説得させようとすると何か胡散臭さを感じてしまいます。それよりも自分の人生をかけた信条(理念)と行動の姿を見ればそこに共感を感じます。

イエスは、今までの奇跡を掻い摘んで語りました。そこから判断せよ、とヨハネに伝えなさいというのです。
そして(ここには記載がありませんが)その癒しの相手は誰彼かまわなかったことが「つまずき」と言う言葉から分かります。
イエスの癒しの相手は、社会的に差別を受けたり、偏見で見られている人が圧倒的に多かったです。ですから、癒しをすることで、社会の大衆から嘲りを受け、あいつらの仲間と言うレッテルを張られ、そして社会の権力者から圧力をかけられます。
迫害を受けてやがては十字架の死になることを知りながらイエスは癒しを続けています。
そんな迫害にも負けず神の愛を実践するものを神は愛すと言いますが、それは難しい事でしょう。

僕も今クリスチャンとしての人生を歩んでいます。が、今の日本は宗教への迫害はほぼなく、僕がこうしてBlogを書いても削除されることもありません。
2017年1月21日待ちに待った「沈黙」が公開されます。この映画の舞台は、クリスチャンを棄教させるために、自分ではなく、その人が一番大切にしている人を次々殺していくことで成就させようとします。
神への忠誠心と隣人愛との狭間で苦しむ姿と結論、時が違えばクリスチャンと言うだけでそうした人生を過ごさざるを得なかったかもしれません。
僕の家族や友人たちも、クリスチャンである“キャツ”の仲間として蔑視され危害を加えさえられるとしたら、たぶん多くの友人は僕のもとを離れていくでしょう。それでも信仰生活を続けられるか?

ヨハネも類様の罪で牢獄につながれています。
そんなヨハネは「荒れ野」で生活していました。
「荒れ野」と言う場所は現実にヨハネの居た場所でもあり、シンボリックな場所でもあると長井牧師は語ります。
それは旧約聖書出エジプト記でモーセら一行がエジプトを出たあと40余年さまよう場所です。
しかしその荒れ野の果てに祝福に満ちた約束の地カナンにたどり着きます。
その間には様々な誘惑が襲い掛かるのです。食事や異教といった誘惑を振り払った故にカナンにたどり着けるのです。
風に揺れる葦はローマ皇帝と言う権力の象徴、しなやかな服は財力の象徴。そんなものは「荒れ野」にはないと語ります。神の地へたどり着くには不要のものです。

そうしたこの言葉に隠されたイエスの言わんとしたことを聞き、ヨハネもその弟子たちも、そしてこの話を聞いた群衆の中にも(?)イエスをメシア=キリストと理解したのでしょう。

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