福島からの避難児童いじめ事件

東京電力福島第1原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒(13)が、転校先の横浜市立小学校で同級生のいじめを受けたとして不登校になっていることが分かった。保護者が市教育委員会に被害を訴え、市教委の第三者委員会がいじめと認定して報告書にまとめた。生徒側は「(原発事故の)賠償金をもらっているだろう」と言われ金銭を要求されたと説明している。
 報告書などによると、生徒は小学2年だった2011年8月に福島から横浜市立小に転入したが、同級生から名前に「菌」をつけて呼ばれたり、暴力を振るわれたりするいじめを受け、一時的に不登校になった。また、5年の時には「賠償金をもらっているだろう」と因縁をつけられ、ゲームセンターでの遊興費として1回あたり5万~10万円を約10回、10人前後に支払わされたと第三者委の調査に説明したという。
毎日新聞2016年11月9日

少し前のニュース。
この「事件」は何処から来たのか?

第10回・憲法公布50周年記念講演「がんばれッ!日本国憲法96」台本から
岩橋宣隆・間部俊明両弁護士のご協力による
1996年の同劇は、こんな内容のシーンがありました。中国新聞の平岡敬(現広島市長)が、下田・多田さんら被爆者が原告の裁判の代理人となった岡本弁護士を訪ねます。岡本弁護士は、日本政府を相手に今なぜ裁判をするのかを平岡氏に説明致します。
平岡 中国新聞の記者ですが、先生がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下について、日本政府を相手に裁判を起こされる と聞きまして、ぜひ取材をさせて頂きたく参りました。

岡本 本当にやる気かね?

平岡 はい

岡本 これは私の弁護人人生をかけた裁判になると思う。とことんまでやってみるつもりだ。長くかかるよ。それでも取材を続けるかね。

平岡 極東軍事裁判で絞首刑になった、陸軍省軍務局長・武藤章の主任弁護士をなさった先生が、原爆投下の法的責任を追及すべきだとおっしゃる事に、とても興味があるんです。

岡本 ちょっと、これを見たまえ。いったいこれは何なんだ!昭和20年8月10日付けの朝日新聞だ!(記事を示す)

平岡 (読む)「新型爆弾に勝つ道。防空本部は心得を発表した。軍服程度の衣服を着用していれば火傷の心配はない。防空頭巾および手袋を着用しておれば、手や足を完全に火傷から保護する事が出来る」

岡本 軍部や政府は、なぜ本当の事を伝えなかったんだ!新聞もラジオも!

平岡 すいません。

岡本 いや、君を責めているのじゃない。君がさっき言ったように、私は東京裁判の弁護人をやった。その法廷で、原爆投下の責任追及をしたのは、アメリカの弁護士の一人、ブレークニーだ。原爆投下は、戦時国際法とヘーグ条約に違反し、ポツダム宣言の違反でもある。国際法に違反した国が、どうして他の国を裁けるのかとね。私は思った、日本は確かに残虐な行為をした。しかし、原爆の投下は残虐な行為ではないのか。国際法は、日本軍人と政府を裁くと同時に、アメリカ軍人や大統領をも裁くべきではないのか。東京裁判で裁けないのであれば、いつか必ず裁かれな ければならない。

平岡 まったくそのとおりだと思います。しかし、戦争が終わって10年の今、なぜ原爆裁判を起こそうとしたのですか?

岡本 私はアメリカの良心を信じてきた。だからいずれ良識のあるアメリカ人が原爆投下の残虐性を反省し、相応の裁きを下すものと信じてきた。ところがアメリカは何をしたか!

影の声(ナレーション) 1954年3月1日、アメリカは中部太平洋のマーシャル群島で水爆実験を開始した。立ち入り禁止区域外のビキニ海域で操業中の日本のマグロ漁船、「第五福竜丸」は爆発の粉塵、いわゆる「死の灰」を浴び、23人の乗組員全員が
原爆症にかかり、9月23日、船長久保山愛吉が死亡した。

岡本 ヒロシマとナガサキの悲劇を、また繰り返すつもりなのか!

平岡 …では、なぜアメリカではなく、日本政府を相手に裁判をやるんですか?

岡本 本当はアメリカの裁判所で、アメリカ政府を訴えた裁判をやりたかった。しかしそれには莫大な費用がかかる。日本での裁判費用なら、何とかできるだろうと思ったんだ。被爆者たちの怒りを何とかしてやりたかったんだ。

【ト書き】 と、下田と川島が半身を起こす。

下田 先生、恥ずかしい話だけど、私たちには先生に払うお金がないんです。

川島 あの、ピカで全部を失ってしまったんです。裁判費用を払う事なんて出来る事じゃあありません。

下田 でも、このもやもやっとした気持ちを何とかしてもらいたいんです。

川島 あの原爆への怒りがどうにも押さえ切れないんです!

岡本 (うなずき、しばらく考えてから)心配するな。費用は私が何とかするから。

平岡 そうでしたか…。でも、原爆はアメリカが投下したのに、日本政府の責任を問えるのですか?

岡本 こう考えられないか、国は国民を守る政治を行うべきだ。だから、国は、原爆被害者に代わって、アメリカに賠償責任をすべきだった。しかし、サンフランシスコ条約で、請求権を放棄した。アメリカの国際法違反だけでなく、被爆者を見捨てた政府の責任も追及しなくちゃならない、そう思わんかね。

平岡 1955年、日本国を被告とし、ヒロシマ・ナガサキの被爆者5人を原告とする、国家賠償請求訴訟が提起されました。
力なき市民、それも被爆というハンディを負ってさらに弱い立場に追いやられた市民5人が、法律を武器に原爆投下の不当性を訴えるために立ち上がったのです。これが「原爆裁判」という裁判の始まりです。

     【ト書き】倒れ伏していた被爆者が、一人一人立ち上がり陳述をする。

下田  下田隆一、47才でした。原爆は、16才だった長女レイ子、12才だった三男清、10才だった次女ユリ子、7才だった三女和恵、4才だった四女利子、5人の生命を奪いました。妻のヒナは、放射線障害による倦怠感や頭痛に苦しみ、私は右腕と腹部から背中にかけて火傷を負い、右半身のケロイドはお腹の皮を引っ張り、へそが右に移動してしまって、呼吸をするのも難しい状態となりました。

岩淵 岩淵文治、60才でした。呉海軍工廠の嘱託として、山口県佐波郡裾野村に出張し、飛行機のガソリンの代用品、松根油の増産に励んでいました。あのピカで、留守宅にいた妻フジノ、24才の娘茂子、26才の娘の夫和嘉、8才に なったばかりの孫邦明の4人が死にました。私はたった一人になってしまいました。

川島 川島登喜子、14才でした。広島市皆実町の家で被爆しました。到壊した建物の下敷きとなり、顔と左腕を負傷しま したが、私より父母が重傷を負いました。広島市八丁堀の食糧公団に勤めていた父は、勤務先で重傷を負い、母は勤労奉仕中に重傷を負ったのです。

浜野 浜野寿次、54才。私は三菱重工に勤めておりました。昭和19年5月頃から、本店勤務を命じられ、東京に単身赴任しておりました。私の故郷は長崎の城山町。そこに住んでいたのは、妻ハナ(48才)、次女妙子(23才)、三女法子 (19才)、四女量子(16才)、五女経子(14才)。あの原爆で、全員が死んでしまいました。

多田 多田マキ子です。ピカの後、私は三ヶ月間気が狂ってしまいました。ようやく普通の暮らしが出来るようになってからしばらくしたある日、私は近所のお風呂屋の主人から言われました。「あなたが入ったら、皆さんが、気味が悪い、汚い、といって飛び出していくから、あなたはうちの風呂を遠慮してもらいたい。」その時こそは本当に心からの涙が出ました。さほど自分の体が汚くなったかと思うと、夜も寝られぬ日が続きました。その後、その風呂屋へはいっぺんも行った事はありません。こんなこともありました。主人は、私のように人一倍ひどいケロイドで醜くなってしまった女でも、マキ子、マキ子といって大事にしてくれたのですが、看病に追われた事もあって、勤めを辞め八百屋を始めたのです。
ところが、町の有力者が、私たち一家をことごとくいじめるようになりました。暴力団に殴り込みをさせたり、あそこのものは不潔だから買うなと触れ歩かせたり。こういう事が重なるうち、真面目一方だった主人は酒を飲む事を覚え、自暴自棄となり、八百屋の店をやめて、家には滅多に帰らなくなってしまいました。今では家を出てしまい、何処に居るのか居場所も分かりません。だれが私の体をこんなに醜くしてしまったんですか!だれが私の人生をこんな苦しみのどん底に突き落としたんですか!

岡本 しかしよく考えて頂きたい。戦争における唯一の正当な目的は敵の兵力を弱める事であり、その目的を達するために、なるべく多くの人たちを戦闘の外に置く様にする兵器の使用は許される。だが、戦闘の外に置かれた人の苦痛を無益に拡大したり、人の命を奪う事が必然である兵器の使用はこの目的の範囲を超えるものであり、このような兵器は人道に反するものとして禁止される。これは1868年のセント・ペテルスブルグ宣言に明らかであります。
原子爆弾によって爆心地より半径4km以内では戦闘員・非戦闘員を問わず無差別に市民を殺傷した事は事実であり、原爆のこうした効果についてトルーマン初め開発に関与した研究者の間では周知の事実でもあります。当時広島・長崎は日本の戦力の中心でもなく、重要な軍事基地でもありません。ここに原子爆弾を投下した事は無差別爆撃であり、ヘーグ陸戦条規、空戦法規案にも違反する事は明らかです。また原子爆弾が人体に与える苦痛の著しい事、その残虐な事は、原告らの被爆者の結末を見れば明らかな事であり、ヘーグ陸戦規約で禁止されている、毒を施した兵器の使用より甚だしい事も明らかです。それらが禁止されているのであれば、はるかにそれを上回る原子爆弾が許されていいはずがない。

平岡 この裁判を提起された、岡本弁護士も、すでになく、裁判は、一審だけで8年という長いものとなり、東京オリンピックを翌年に控えた1963年12月7日、東京地方裁判所は、判決を言い渡しました。


戦後日本人は精神的に成長したのだろうか?
社会と言うグループの中で他人の尊厳を尊びながら生きることはできたのだろうか?
戦後多田さんの悲しみ苦しみを放ったまま僕らはただ70年過ごしてしまったのかもしれない。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター