いのちに触れ合う

2016年10月9日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 5章21-34節。表記のタイトルの説教を川浦弥生神学生より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」



通常の主日(日曜)の礼拝は、通常小田原教会の2人の牧師が交代でされますが、この日は日本キリスト教団の定めた伝道献身者奨励日・神学校日という日で、神学生をお呼びして奨励(説教)をしていただきます。
ですので、先週までの小田原教会がどの聖書の箇所を選び牧師がどういう説教をしたのかわからないまま、今日の聖書の箇所を選ばれこの説教をなさったのですが、僕には先週の続きのような気がしてなりませんでした。

ヤイロが家族の危機においてイエスに依頼をし、イエスがその依頼に応えたのは、先週と同じ話です。そしてその話を聞いた先週の説教インプレッションで、知人の依頼ゆえの承諾訪問の最中に、もしほかの弱者からの依頼があったら…と言うことを書きましたが、そんな僕の疑問に応えるような箇所を川浦神学生はお選びくださりました。

まずは聖書の箇所を読むだけで解りますが、イエスは娘の病状を不安するヤイロをそこに置き、名もない見ず知らずの女性の治療をしたのです。それはまさに先週僕が疑問視した部分の回答の一つです。
群衆の中で埋もれている困窮の人。その人の命を絞り出さす呻きのような依頼をイエスに伝えた時イエスはその困窮にシンクロしてしまいます。
キリスト教は「ご利益宗教」ではないことは何度も書いています。頼めば望みがかなうのなら、神は人に帰属します。僕らの信仰は人が神に帰属しています、つまりは望みがかなうかどうかは、神のみぞ知る。人が手を出せないエリアの話ですが、それでもイエスが困窮した僕らの祈りにシンクロしてくれれば人の祈りによる望みは叶うのです。
それは、先週に出てくる旧知のラザロであっても権力者のヤイロであってもなし遂げられない中、無名の女性の望みがかなったことに大きな希望を感じます。

川浦神学生は、長年宮古島の教会に属していました。宮古島伝道所の初代牧師の国仲寛一先生の話をされました。宮古島には戦時中17か所の慰安所がありました。戦後もそうしたところに連れてこられた女性で帰る場所がない方は宮古で暮らす人もいましたが、片手に障碍を持つ女性がこの伝道所にいたのを,この教会で信仰を与えられた平良修牧師はおぼろげに覚えているそうで、そんな話を川浦神学生は平良牧師よりお聞きになられたと語ります。
そして、推測の域を出ないと前置きをしながら、慰安所に居た障碍を持つ女性をかくまうことに教会員誰もが納得したわけではないのではないかと語ります。最近とわに教会を『自分と神』のみの場としてとらえる信仰者がいます。教会員同士の安らぎの場であるがごとく、違う意見の方もいますから、社会的な活動は控えましょう、と言う方もいます。
ですから、牧師のその行動に異を唱えて教会を離れた人もいたかもしれない。でもそれでもイエスの後を歩むものとして弱者と共にいたいです。イエスも当時そうした社会的な偏見を持たなかったことで異端視されていました事は忘れてはならない大事なことでしょう。
教会自身も同じです。町中にあります、「そっと触れられること」があるかもしれません。助けてというSOSを出す人に触られたとき、他の用事があるといって見捨てないように、イエスの後をしっかり歩みたいものです。
個人においても教会と言う宗教の場もそうありたいです。

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