ラザロのよみがえり

2016年10月2日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 11章28-44節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。



どうもこの箇所はしっくりと来ない。その理由は2つあります。
まず第1は、イエスの癒しの物語は、偶然の出会いである「街中で」癒してほしいと頼まれて見ず知らずの人の病を治すのが常でした。それは聖書が教える「神は万人を愛する」ことだと思うのです。知人だから、自分が愛した人だからではなく、誰でも神を信じることで神の愛を得ることができるはずです。
しかしこの箇所は、知人だから、自分が愛した人だから、「わざわざ」出向くのです。もしかしたらその道中に『主よ』と言う声をかける者がいたかもしれない、と思うと、この聖書の箇所が何を伝えようとしているのかわからなくなります。
同時に、癒しの範疇がどこまでなのか?死から甦るのはイエスだけではないのか?ということも納得しにくい部分です。
教会用語でいう(僕にとって)聖書に躓く部分なのです。

今日の説教はそうした僕の疑問とは少し違った話でした。
しかししっくりいかないもう一つの理由の講解でもあります。
それは「心に憤りを覚えて、興奮し」というイエスの感情が読めないことでした。近しい知人の死、その家族の悲しみの場面で「憤る」とはどういう意味でしょうか?そして何に対して「興奮」したのでしょうか?
教会の役員の奉仕の一つに礼拝の司会があります。そして司会者は聖書を読み上げます。この日僕は司会に当たり皆の前で聖書を読むために昨晩は何度も聖書を読み返しました。どういうトーンで読むのか?抑揚をつけるためには一人一人の気持ちがわからなければできないのですが、どうしても昨晩はこの時のイエスの「憤り」がどういうものかわからずに、この日は会衆には申し訳ないですが自分の理解のないまま聖書を読んだわけです。

中田牧師はそのことを追及されました。聖書学者も意見が分かれるところで、この「憤り」とは
1.マリヤやマルタへの同情
2.「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言ったにも拘らず死を悲しんでいる不信仰へのもの
3.大事なラザロを死へ追いやった死に対する怒り
4.ラザロ自身への悼み
と言う意見がある、と言われます。
イエス=キリスト、イエスを書く時にはそう書くのがふさわしいと聞いています。それは人間イエスは神の子・救い主とイコールだという書き方で、ローマの信徒への手紙の12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という人としての考え方の薦めの実践を人間イエスとしてしたことではないでしょうか?

死は人を不信仰にします。
特に災害や犯罪に巻き込まれた理不尽な死は「何故に死ななければならないのか!?」と言う気持ちがわきます。
イエスがいれば死なずに済んだと思っているマリヤは「主よ、なぜいてくれなかったのですか?」つまり「何故死んだか」と非難します。
僕らは後世になってイエスの甦りから死への勝利があることを知っています。
肉の体が無くなっても神の御許で霊的に永遠に生きることを知り、そこに救いと喜びを感じます。つまりは、なぜ死んだか?と死を必要以上に恐れそして肉に生きることはサタンの誘惑ではないのか?と説教を聞きながら思います。
神の御許での永遠の生があることへの希望はサタンにとって邪魔なことでしょう。神と人を引き放つことがサタンの役目ならば、僕らはまさにイエスの言われた「もし信じるなら、神の栄光が見られる」ことを実践して生きることこそ、この難解な聖書の箇所が僕らに教えてくれていることなのかと思います。


ちなみに文語訳聖書ではこの憤りの所は「心を傷め悲しみて言ひ給ふ」と訳しています。こちらの方が何となくしっくりする訳に思えます。
ああ、不信仰を咎めているのではない。ただ心を痛めて悲しんでくれているイエスがいつもそばにいてくれることに感謝です。

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