永遠の住みか

2016年9月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1-10節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


乱暴な言い方ですが、新約聖書はイエスの生涯を描いた福音書とその後の信徒パウロが各地の教会にあてた書簡で成り立っています。
イエスに出会って感化されて弟子になった12弟子に比べ、サウロと名乗ったころはイエス一派を迫害していたものの復活のイエスに出会いパウロと名前も生き方も変えた人とではやはり違いがある訳です。
昔、寿地区センター20周年史―いのちの灯消さない―に投稿の依頼を受け、自分の寿との出会いをサウロからパウロに変わっていく神の導きにリンクさせて書かせてもらったことを思い出しながら説教を聞きました。

コリントスといえば旅好きな人はコリントス運河を思い浮かぶように、ギリシャの交通のかなめ。それは聖書の時代からそうでして、それ故に一神教の神を信じないわけではないけれどついつい新しい思想を見ると浮気をしてしまう、それに対してパウロは非難をするわけです。叱責だけではいけないとパウロは実際の訪問を企てますが、それも叶わず、コリントの信徒への手紙Ⅱと呼ばれる今日の手紙を送る訳です。
コリントの信徒への手紙Ⅱとは言いますが、3通の手紙をまとめてそう呼んでいます。今日の箇所はその中の1通目の手紙です。叱責をしたものの和解をしたい、と言うパウロの気持ちが書かれています。
ここで間違えてはいけないのは、和解と謝罪は違うもので、仲たがいを解消したい故にあなたの悪い点もお直しください、と言うのが和解の手紙です。

革職人は当時職業差別を受けていた人たちです。日本の江戸時代も革職人は被差別部落に追いやられて士農工商の下のエタと差別を受けていましたがそれと同じです。パウロは貴族としてのサウロの地位を捨てて、主イエスの弟子として革職人として生きることとしパウロと名を変えたのです。
革職人と言っても彼はテント張りでした。そんな自分の職業体験をベースにコリントの仲間へ気持ちをぶつけます。
移動の幕屋、テントは正式な家ではなく、仮の家です。ですが、そんな仮の家でも自分は一生懸命心を込め作り、そして通常の家にも劣らないと語るのです。
仮だから駄目でもなければバカにされるものでもないのです。
この世も神のお作りになったαからΩまでの歴史の中では本当に仮のひと時ですが、だからと言って劣るものでも馬鹿にされるものではないと語ります。
逆に仮だからと言っても力を尽くす必要を語るのです。


そして12章7b-9節に
思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ともパウロは書き記していると長井牧師は語ります。
パウロがとげと称している病が何なのかは僕は知り得ませんが、病によって自分をしっかりと見極められるようになった、受け入れられるようになった、と言うのは毎度ながらがんのソウルメートとの出会いでよくよく理解できるようになりました。最近では元アナウンサーで歌舞伎役者のお連れ合いさんの小林真央さんのBlogを読んでも一時の失意から吹っ切れて自分を見極めながらBlogを書くようになったように感じています。RFL(リレーフォーライフ)の仲間も、何人もが「がんになってよかった」と書いていますし、我が家もがんを通じて夫婦間の絆が深まりました。
受け入れることは、それを支えてくれる存在があるからでもあります。それは家族かも知れないし、友人かも知れない。でもぎりぎりの時サバイバーもケアギバーも「神様」と祈る訳です。「出来るなら助けてください」と願うのですが、この場において「助けてくれ」と祈れるのはせいぜい医者かやはり神しかいません。
パウロは神に祈り、神から「私の恵みはあなたに十分である」と言う言葉に安堵をし、弱さを誇れるようになったというのです。神の応援、これ以上の確かな喜びはないわけです。
主が喜ばれることは私たちの喜びであり、私たちが喜ぶことが主の喜びでもあることをしっかりと認識しながら、仮の庵であるこの世の生活を神と自分がいつも喜んで居れるように生きたいものです。

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