永遠の命

2016年9月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 10章22-30節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」



TVドラマを思い出します。刑事が犯人に向かって「早く吐いちゃって楽になれよ」って言いますが、犯人なら自分の罪を認めたら刑罰が待っているだけできっと楽にはならないでしょう。じゃあ楽になるのは誰だと言えば取り調べをしないで済む刑事であって、冷静に考えればこんなくだらない言葉はないわけです。自分が楽をするために「吐いちゃえよ」なんて言うくらいだから冤罪だって構わないというお気楽さがあるかもしれません。(きっとドラマだけでしょうね)

ユダヤ人たちがイエスに「私たちを気をもませるのか」と言う言葉は、イエスが神の子だと言ったらひれ伏そうとか、従おうという訳ではなく、ファリサイ派やラビ人たちやその仲間のように神への不敬罪で捕まえようという魂胆です。
目障りだから早くつかまって目の前から居なくなれよ。こうした言葉はヘイトスピーチではないかと思います。
意見が違う2つのグループがいても、「お前は俺たちの意見と違うからどこか居なくなれ」は言ってはいけない言葉で、もし意見の違いが気に入らなくどうしても一緒に居られないのなら僕は自分が去るべきだと思っています。
何故か?それは愛せないのが自分であって相手ではないから。愛ある関係が持てないのならそれ以上相手を貶めることはNGでしょう。

そんな不遜な人たちにイエスは「わたしと父は一つである。」と語ります。
律法を重視する者にとっては、してやったり。しっぽをつかんだ発言です。
が、イエスは自身のなされた「愛ある」行為を重視し、神はあなたを愛している、ゆえに私もあなたを愛しているという意味で、わたしと父は一つであるのなら、神の愛が確かになります。
愛によって死するものは永遠の命を得る、と語っています。

永遠の命と言うのは何か?と言えば、生も命・死も命で、そこの間には隔てがないということです。生の延長上に死があり、だから生と死を分けて考える必要性はないのでしょう。
また、命と言うのは、自分だけのものだとすれば自分の命が何にも掛け替えのない大事なものですが、命は他人のも自分と同じ大事なものです。

マルコによる福音書12章29節以降「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と言う問いにイエスがこう答えています。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

一貫した「愛」を語るイエスに従って生きていきたいです。

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