あなたは何処にいようとも

2016年8月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章28-35節ならびにヘブライ人への手紙2章16-18節。表記のタイトルの説教を禿準一牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

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確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。



両牧師が夏休みをお取りになっているので、本日は前生田教会の禿準一牧師にお越し頂きました。
今日のルカによる福音書の箇所は、僕の好きな聖書の箇所の一つ。同じ方向を目指して共に歩いている姿にRFL(リレーフォーライフ)の言わんとしていることとシンクロします。目線を合わせて、は大事なことかもしれませんが、同じものを見ながら語り合う(つまりお互いは顔を合わさない)で、まるで「共通の目標」を見つめるように歩くことも大切なことだと思えるのです。
そんなことを過去にBlogに書いたことがあります。

しかしそれは単純に「ともに歩く」と言う物理的な作業に基づく話でした。
でも、人生を道に例えることは良くあります。

エマオに向かう弟子たちは、イエスが磔刑の死を迎え、「鶏が三度鳴く前に知らないと言うだろう」というイエスの言葉通りイエスを捨てて逃げた…まだその弱さの延長に居る弟子たち。
その最中の夕方、見ず知らずの(イエスなのだが)男が声をかける。弟子たちはこんな遠くにまで逃げてきたのにまだ俺たちがイエスの弟子たちであることを知っている人がいるのかと動揺したのではないでしょうか?

だれもが人生の中で躓くことがあります。この弟子たちも人生の絶好調から一転最悪の状況に陥り、逃げるようにエルサレムからエマオへの道を急いでいるのです。
そんな躓きの時、しかも時間は夕暮れ。不安が増す時間にイエスは声をかけます。

仏教、キリスト教徒も、たとえ話で神仏の姿を語ります。例えば、光明皇后が重症のハンセン病患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来であったという話だとか、トルストイの「くつやのマルチン」などはその例だと思います。
子どもたちに神仏を伝えるにはこうしたたとえ話の方がわかりやすいですが、小田原教会で説教をなさる先生の多くは神は僕らにこうした「化身」で現れるのではなく、隣人との人間関係と言う形で現れると語ります。聖書自身も「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)とあるように、「神」(正確には「聖霊」の存在?)は「物質」や「化身」ではなく、霊的なものでしょう。

RFL(リレーフォーライフ)だけではなく、いくつかのボランティア活動に関わっています。そこに関わる人はみな方向性(ベクトル)が一致し、そして熱意があります。でも、一枚岩で進めるか?と言えば、誰も皆が熱意が強い分だけ些細な所で意見がぶつかるものです。
個人の熱意は時には上からの霊を受け入れないこともあるのではないか?と思う時があります。自分の意見に固執して相手のことを考えることが出来なくなった瞬間「神」を中心に集まった集団ではなくなります。
キリスト教の「神」とは、良い関係性を生み出す霊的な力だと思うのです。そんないい関係性を生み出す霊的なパワーをもってイエスは弟子たちに出会ったのでしょう。

ベクトルがバラバラになって失意の中エマオに向かう2人の弟子。でも、イエスから「良い関係」を注入してもらった瞬間、「心が開き」「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。というのです。
さまざまなボランティアの中、バラバラになりそうな時この言葉を思い出したいです。
それは同じメンバーで変わらずに続けなさい、と言うことではないと思います。祈りをもって良い関係の仲間と突き進めることが大事でしょう。

禿牧師は、今日もう一か所御言葉を選んでくださいました。
イエスは天使を助けず、アブラハムの子孫を助けた、と言う言葉。ここに神の意志を感じます。弱者のために、その気持ちをしっかりもっていれば、前述のようにグループが分裂したとしてもそれぞれのグループの真ん中に神は立ってくれます。
グループの中で思わぬトラブルや意見の違いにぶつかり、目の前が闇になっても、失意で終わることはありません。
インマヌエル・アーメン(まことに神共にいます)。
仲間が駆け寄ってくれます。声をかけてくれます。その言葉には神の憐れみがあります。

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