主は誰のために

2016年8月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 8章1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕



このファリサイ派の人たちが根拠とする申命記22章22-29節。
男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これは、ある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。
男が野で彼女に出会い、婚約している娘は助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。ある男がまだ婚約していない処女の娘に出会い、これを捕らえ、共に寝たところを見つけられたならば、共に寝た男はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない。



昔、市民条例を作る仲間に加わらせてもらったことがあります。守らなければならないことに対して、行政がストップを欠ける場合、一番大切なことは、説明会と意見書、見解書や市民検討会の場をしっかりと設けることです。釈明の機会がないことは何にもまして不公平なやり方です。
さて、今日の聖書の箇所の話もそれに通じるところがある気がします。
姦通した、と言うことは、一人で居た訳ではないはずで、そこから女性一人を連れてきたことはどういう事なのでしょう?この時代男尊女卑の世の中、女性だけなら万が一なにかしゃべっても「黙らせることは可能だ、しかし男性が余計なことをしゃべって予定外の方向へ行ってしまったら・・・、それだけは避けなければならない」そんな感じではないでしょうか?
少なくとも公平なジャッジメントではないことは確かです。

2016年、聖書を読む僕らは、あの時代は女性の権利はそんなものだったから、と分かったように評論をします。確かにそんな時代だったのでしょう。
しかし1930年ころ、教会では集まった子どもたちに、「悪い中国の人たちと戦う兵隊さんに手紙や絵を送りましょう」と勧めたと言います。
これも時代がそう言う時代だったから、聖書の言葉と相反するような「敵を憎む」ことをしてもその一言で片づけていいものでしょうか?
もちろん「できなかった」ことは致し方ない側面はあります。僕の大好きな故・遠藤周作氏の「沈黙」もその出来ない弱さを神は赦したもう、を主題テーマとしています。
でも、「できない」のと「しないであきらめる」は違います。少なくとも神と自分との関係は違うことは誰でもお分かりでしょう。

2000余年、「時代が悪い」と言い続けているのですから、今後も時代に翻弄されるでしょう。
でもイエスはそんな「悪い時代」においても、わたしも罪に定めない、と言います。正しい事を言い続ける強さを持ちたいです。

さて、今回はもう一つ大きなテーマがありました。
それはイエスに「あなたがたの中で罪のないものがまず石を投げなさい」と言われて、誰も石を投げなかったのは、ファリサイ派の人たちは自分の罪を認めたのでしょうか?
僕にはそうは見えないのです。
自分は正しい、という部分は頑なにもちながら、大勢の前で恥をかかされたとイエスを逆恨みにしているように見えます。
そもそも罪がない、正しいものだから、と言う前提があればこそ、女性を連行し、傲慢な言い方でイエスに迫ったのでしょう。
イエスは罪がないにもかかわらず、罪を裁くのは神のみと、ファリサイ派のような傲慢な態度なしに対応しました。

何度も何度も読む聖書の箇所ですし、自分も大好きなやり取りの場所です。ですが、また新たな視線でこの聖句と接することができたことは感謝です。

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