時は来る

2016年7月31日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 7章1-13節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。



ヨハネによる福音書によると、この直前までイエスたちは故郷のガリラヤにいたと書いてあります。その場所で、このBlogでも何度も書いている5000人への給食などがありました。しかし、集まった多くの賛同者はイエスの言うところの「パン」の意味を理解できずに、「永遠の命であるパン」の存在を理解できずにイエスから離れたと書いてあります。
弟子や兄弟にしてみれば、イエスがレビ以上の存在であるならば自分もそれなりの地位と名誉が来る、と言う皮算用があったものの、多くの民衆がイエスから離れたことは、その皮算用が覆されてしまいます。
だから弟子や兄弟は、多くの人がいるエルサレムにいって、奇跡を見せたり周囲の人に感銘を与えてまた多くの民衆がイエスの周りにまとわりつくようになってほしいと思っていたのでしょう。
だからイエスに人混みに行くように勧めたのでしょう。
しかし、イエスは「私の時ではない」と言います。
私の時とは何か?と言えば、イエスの死後書かれた聖書を読んでいる僕らは、それがイエスの十字架の死の時、つまり人の原罪の払しょくであることを知っています。が、弟子や兄弟たちはわからないまま聞いていたのでしょうね。

聖書の中には、「時」と言う言葉がいくつも載っています。時間的な意味の時はギリシア語のクロノス。カナの葡萄酒の奇跡の時はホーラでこれは英語のhour(アワー)の語源ではないかと言われます。それに対して今日の箇所の時はクロノスと言う言葉で記されています。
クロノスは時と言いながらも、どちらかと言えばチャンス的な意味だと言われます。
つまり、兄弟がチャンスだと思っている時と、キリストのチャンスは違うというわけです。兄弟たちは上記のような理由で今がチャンスの訳なわけです。
が、神が示された時ではないことをイエスは伝えます。

さて、イエスキリスト、これはどういう意味かと言えば、キリストであるイエスと言う意味なので、本来はイエスキリストでもイエス・キリストでもないのです。イエス=キリストなのです。
それを前提に、なぜイエスが行かないと言った仮庵際にこそっと行ったのかを考えたいものです。
そこにはキリストとしてはまだ時ではないけれど、人間イエスとして言ってみたい気持ちがあったのではないかと思います。
つまりあなたがたのために時はいつも備えられている、と言う言葉は、すべての人に与えられたことです。

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