ふさわしい者に

2016年7月24日、小田原教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23-28節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。



多くのクリスチャンは聖書の中で1番この御言葉を聞く機会があると思います。それは、聖餐式と言うクリスチャンが大切にしているサクラメントとか礼典と呼ぶ儀式に際して制定の言葉としてこの御言葉を聞きます。つまり聖餐式の根拠はこの御言葉にあると言えます。
しかし、当時のイスラエルの民は、家族が一堂に集まり食事を共にしていました。そしてまず家長がパンを裂き分け与えていました。ですから、このシーンは特別に「最後の晩餐」だけではなく日常ごく茶飯的に見れたものだと長井牧師は語ります。
しかし、このコリントの信徒の手紙を記したパウロは、その食事の方法(イエスの思想)について相応しくしろ、と語っています。

では相応しくないとは一体どういう事なのでしょう?
それは今日の聖書の箇所だけではわかりません。が、前後を見るとよく解ります。今日の箇所の直前の11章18-22節やこの後の29節にこんなことが書かれています。
1.教会で仲間割れがあった。
2.パワーハラスメントのような非平等性が存在した。
3.神への感謝がない。
です。
それゆえ、イエスは「このように行いなさい」と言っていると、パウロは伝えているのです。ただ当時の風習のようにパンを裂き配れ、と言っているのではないのです。

この話を長井牧師は4つの福音書すべてが語る「五つのパンと二匹の魚」から話されます。
男だけでも5000人、つまり女性や子どもをいれれば15000~20000人もいたのではないでしょうか、それは2016年の国勢で言えば山形の尾花沢市とか三重の尾鷲市の人口と同じだけの人が集まったことになります。
市町や部長以上だけで全世帯を廻ることは不可能だというのは誰の目でも明らかで、いくら一か所に集まったとはいえイエスと12弟子だけでは全員に食事を配れはしなかったでしょう。
つまり、5000人の食事など全く想定外の夕方、でも集まった人々はおなかがすき始めたころ、今晩はどうするんだろう?と不安がよぎった時に、イエスはここで食べようと言い出したわけです。すると一人の子どもが「僕はこんなものを親からもらってきたのでみんなで食べて」と差し出したわけです。するとイエスは喜び神に感謝をした。そんな喜びの連鎖が集まった人々に広がり、自分が持っているものを出し合って満腹になった訳です。
「このように行いなさい」はまさにこの喜びの連鎖です。
与えられた喜びに浸るだけではなく、自ら積極的に問題解決に踏み出すことです。その問題は上記の仲間割れ解消であり、非平等性であり、感謝です。

やらなくて見過ごすことに対して首を突っ込むことは「重荷」に思えるかもしれませんが、キリスト教のベースの考えは、その「重荷」こそが恵みです。辛い人悲しい人がいたら積極的に手を差出ていく、そんな一週間を過ごすことが次の聖餐式にパンを喜んで食せることなのでしょう。

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