命の泉を得る

2016年6月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 4章6-15節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」



イエスは宗教の考え方の差異によりファリサイ派の人より追われるようにこの町に移動してきたとこの直前書かれています。言い方を変えれば逃げるように移動してきたのででしょう。言わんとすることが世の常識と言うやつに阻まれて伝わらないもどかしさでイエスは疲労困憊だったのでしょう。町の真ん中の井戸までたどり着いたときにはもう動けない状況でした。
イエスはその井戸に水を汲みに来た最初の人に声をかけたのでしょう。
しかしそれはサマリア人の女性でした。
当時ユダヤ人から蔑視された差別の存在だったサマリア人。ウィキペディアにも載っている「善きサマリア人のたとえ」を見ればわかる通り、この話は、見下したサマリア人に従えという当時のユダヤ人にしてみれば屈辱的な話です。
今日の聖書の箇所も、そのサマリア人で、なおかつ男尊女卑の激しい社会において女性に、イエスは「依頼」をするのです。「お願いします。」と言うのです。

サマリアの女性の驚きと訝しさはそうした社会においては当然です。
しかし、イエスは全くお門違いの話をし始めます。
長井牧師は、このイエスの回答は、イエス自身の言葉ではなく、ヨハネによる福音書の著者がイエスに権威を与えるために、イエスは「ただ頭を下げたのではない」と言いたかったからではないかと語ります。
確かにここでイエスが威張る必然性は全くないです。疲れ果てて誰か水を汲んでください、という時に、威張ったらかえってマイナスになることは誰の目にも明らかです。この一言を除くとこの会話はよく解ります。

イエスはこの短時間の会話で、この女性がいかに大変な日々を過ごしているのかを推察されたのです。
そうか、大変だったね。でもたかが肉の体が弱っている時でも一杯の水が生きかえらせてくれる。だから安心しなさい、あなたも(肉体だけではなく心までも)世の辛さから抜け出せる…生きる、大変な毎日をやり過ごせる、世の辛さに勝てる[水]をあげよう、と言うのです。

さて信仰とはなんでしょうか?
僕は死んだらみんな神様によって天国に行けると思っています。それは信仰をもっている人も持っていない人も、仏教徒も神道者もイスラムの人もみんな天国に行くと思っています。
僕の中では、信仰とはこの世に生きている時、どう生きるかの指針(道しるべ)です。

昨日の「土とともに」と言う飯舘村の2人のおばーちゃんの映画。それを僕はフクイチからの放射線で汚染された故郷において「ケ」の在り方を模索している話、と書きました。
このサマリアの女性は、時代が差別を容認し、その差別・蔑視の中に生きた女性で「ケ」自身が困窮であり、助け手のない諦めたものでした。そんな「ケ」の辛さをイエスはわかってくれた。
それだけでなく、その辛さから解放してくれるというのです。

しかしそれは今後世の僕らでもわかるように、「奇跡」で王宮に住める話でもなく、身分が変わる訳でも社会が革命で変わる訳でもなく、昨日の続きの今日が訪れ、今日と同じ明日があるだけです。
しかしそんな同じ「ケ」の困窮であっても、誰かが自分を解ってくれる、悲しい時苦しい時そっと寄り添ってくれると苦しさが和らぎ、また悲しみの涙を振り払う力になる。
今日の続きの明日のはずが、風と共に去りぬのスカーレットオハラではないですが "Tomorrow is another day."と顔晴れるのです。それがイエスの言わんとした[水]ではないでしょうか?
共有してくれる友がいる、これは希望です。そしてその希望を僕は宗教と呼びたいです。
もし、人が共有してくれなくても神は共有してくれます。そこにこのサマリアの女性のように希望を持ちたいです。

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