5月19日のパトビラ(№928 - ペンテコステと言う日 -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


教会では15日にペンテコステと、みなさんは聞きなれない行事をお祝いしました。イエスが十字架で死んでしまい弟子たちは呆然自棄自失な毎日を過ごしました。でも、復活したイエスから「聖霊があなたがたといるようになる」という言葉を半信半疑ながら聞き、この日その聖霊によって雄々しく生きられるようになったのです。
皆さんの中には、故郷も友達も家族も捨てて天涯孤独だ、と言う人は少なからずいると思います。でも、ふっと落ち込んだ時とか辛い時、死んでしまった家族や友達を思い出して、あの人だったらどうしただろう? と思いを巡らせることはないでしょうか? あいつにこんなかっこ悪いところ見せたくないからと、ちょっと無理をしてでももう少し頑張ろうと思うことはないでしょうか?
僕らは死んだら終わりだと思っていません。むしろ死んだあとでも、あああんな人いたな、俺のこと気に掛けてくれたよな、と思い出してもらえる存在になりたいと思っています。
支えてくれる神様もいます。支えてくれる友人もいます。
そして支えてあげられる人にお互いなりたいものですね。


宗教の宣教とか伝道というといわゆる「勧誘」とか「信徒数(教勢)を増して勢力を伸ばす」という風にとらえられるかもしれませんが、僕は余りそれが目的だとは思ってはいません。イエスがやったことはそれではなかったと思っています。
弟子たちは、このペンテコステで信仰が強められる日までは、しきりにこの世の王の威力や自分のポジションを考えていましたが、ペンテコステ以降はまさにイエスのように「であった相手」の幸せを考えるようになり、僕の信仰理解はそこにあります。
ですから、もちろん教会にきてくれればいいとか神様を信じてほしい気持ちはあっても、それを押し付けたりささやかな食事や物品で強引に教会に来させようとは全く考えていない訳です。
ですから、聖書の言葉も神様のメッセージもすべて相手の人が読んで心が軽くなれればいいな、と祈りながら作っています。

逆に言うと、宗教学の教師や牧会者の方には無理のあることを書いているなとご批判を受けるかもしれませんが、それでもイエスが求めたものが、、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』のならば大きな的外れではないと思っています。
見えない霊であっても、感じるだけでも思い起こすだけの霊であっても、一人ではない、何かその人を考えることで道が開かれるのなら素晴らしいことで、厳しい路上生活の中でも勇気がわくことだと思います。

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