愛と真理の霊

2016年5月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 7章32-39節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。



ペンテコステです。五旬節、つまり過越​の​祭​の50​日​後​に​初穂​の​祭​が​行われたとレビ記23:16にあるようにユダヤ教では大切な日とされている日の事です。
ところで、
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1章3-5節)
とあるように、イエスは弟子たちに40日間教え続けられました。この日は50日目ですから、10日経ったわけです。
教えられることと教えに従うことはやはり違います。さあ歩め、と言われても怖くて歩めない。行動を起こしなさい、と言っても怖気て動けない。「あなたがたは間もなく」とイエスに言われる間もなくがいつなのか、来てほしいようなほしくないようなもやもやの10日間だったのでしょう。
しかし、

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2章1-4節)
(中略)
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。(使徒言行録2章14-16節)

あれだけ自信のなかった弟子たちが急に勇ましくなった。雄々しく雄弁に伝道を始めた、事が記されています。
それが聖霊の力だと書かれています。
イエスが生きていた時、目に見える形で自分たちの前に居て雄々しくしてくれた。不安な時は雄弁に語ってくれた。そんなイエスがいなくなった時、不安でしょうがなかったのが、この日聖霊が下ってくれてイエスがいた時のように勇ましくふるまえるようになった、と言うのです。
イエス亡き後、聖霊が共にいてくれること。肉体がなくてもそばにいてくれることで安心できることは、イエスの出来事以外にもあるかと思います。近しい家族の死の後、特に連れ添った相方の死などでは死後もそばにいてくれることを感じる人は少なからずいます。
全ての人を救ってくれる神の子イエス。その死後、聖霊としてそばにいてくれることで、神の救いは場所と時空を超えました。

三浦綾子さんが著書「塩狩峠」の中で伝道師伊木師に、『しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか』と問われ、否定し、それならばキリストとは何の関係もない人だ、と言われ、慌てて弁明をします。
「先生、ぼくは明治の御代(みよ)の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生れのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」

信仰、救いが時空を超えたもの、つまり普遍的な宗教になるというのはそうしたことだと思います。聖書が単に2000年前にあった出来事ではなく、今私たちがこの世で生きるためのHowTo、そこに刻まれていることに従って生きることが正しいというのなら、聖書の中で活躍した人は今なお生き続けて僕らの毎日を導いてくれるわけです。普遍化することで、弟子たちが理解しないで言い争っている姿に自分をオーバーラップし、逃げだし家の中に閉じこもる姿に自分をあわせ悲観するのです。
ミヒャエルエンデのネバーエンディングストーリーではないですが、自分が聖書の主役になり、聖書の中でイエスに触れるようになるのです。

ぼくらは教会の中で祈る時に、クリスチャンの導き、祝福を祈ることはありません。信仰をもっている者持っていない者、他の神を信じる者、すべての人への分け隔てない恵みと祝福を祈ります。
であるならば、聖霊の導きが全人類の上に時代を超えて世々限りなくある訳です。気が付いたものは喜び感謝をすればいいし、気が付かなくても全然大丈夫です。
でも気が付いた僕らは、気が付いた喜びをもって、気が付いていない人にも伝える使命はあると思います。おせっかいややり過ぎにならないように、でも臆病だった弟子が雄々しくなったように聖霊に導かれての毎日を過ごしたいものです。

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