再び会える

2016年3月27日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 20章1-18節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



強大なローマ軍、そして家柄や知識が重要な「宗教」。そうしたものが無縁な弱き虐げられている自分たちを救ってくれるのは主なるイエスしかいない。そんなイエスが殺されてしまった?
嘘だよね、そんなこと。私は信じない…。
でも、確かに殺された…。残念だけれど自分はこの目でそれを見た…はず。
死を受け入れるのは厳しい中、それでもその悲しみ・苦しみを受け入れて、ご遺体を引き取ることだけに集中したマリアにとって遺体がないというダブルショックは、僕らの想像をを超えたものがあるでしょう。
動けなくなるほど打ちひしがれたマリア。
イエスが生前言っていた「復活」なんて言うことはとおに記憶の彼方に置いてきてしまったのかもしれません。
だから彼女の頭の中には遺体が盗まれた、いやもっと悪い罪人として死骸として捨てられたことだったのではないでしょうか? パニックを起こしてヒステリックな精神状態だったように読めます。
故に、あれだけ愛したイエスが後ろから声をかけたのに、誰だかわからず、あなたが遺体を運んだなら返してください、と願うのです。
そしてその人が復活のイエスだと知ったとたんに、安堵と喜びですがりつくのです。

長井牧師は言います。イエスが最初に後ろから声をかけられた時、マリアは生半可な返事をして背を向けます。しかし名前をよばれて「復活」を知ります。名前と言う個体個別、自分と言う存在感、それを通して相手を知ったということ。
同時に復活の確信が動くこともできずに泣いていたマリアに力を与えます。
絶望から疑念、そして確信・希望と変化していく精神。

再び振り返る姿が復活だとも長井牧師は語ります。生きるのが辛い…生への否定から、生きる希望への変化。それが復活です。
マリアが後ろにいるのがイエスであることに気が付く。それは私たちが毎日の平安に気が付かずにいる私たちを髣髴させます。悪い事が続き、絶望の毎日、辛く悲しい毎日になった時、それはまさにイースターの朝のマリアと同じですが、その時に平安を見つけた時に、平安の感謝が湧き上がるのではないでしょうか?
元気で楽しい毎日の時には、神の姿が見えないものかもしれません。が、それは神がいないのと違います。ただ見えないだけです。マリアと同じ、後ろに立っているのに気が付かない。
それでも復活の主イエスは、僕らが気付こうが気づかまいがそばにいてくれます。
そしてその悲しみの極地から希望を見た時、マリアは主イエスにすがりつきます。私たちも主に感謝をささげます。
ハレルヤ、イースターおめでとうございます。

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