今こそ、信じる

2016年3月13日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 12章27-36a節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」



過越の祭りに来たギリシア人がイエスの弟子になりたいと言ってきた。今日与えられた御言葉はその話の続きです。有名な「一粒の麦、 地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。」故・三浦綾子さんの「塩狩峠」にも出ている聖句です。作品中では、主人公がイエスのみ後を歩むように生き、そして犠牲の死を遂げます(一粒の麦地に落ちて死なば)が、その生き方に感銘を受けて多くの方が聖書を読むようになった(多くの実を結ぶべし)。という使い方をしています。その基いがこの場面です。
イエスは目前の自分の死を預言なさっていて、それでもその生きざま死にざまを見て、神の愛を知る人が増えてくれることを喜ばれる訳です。しかし、同時に「心騒ぐ」とも言っているわけです。
ユダヤ人からも律法解釈の違いで迫害を受けている最中、ギリシア人の弟子が居るとなったら、選民思考で異邦人を卑下・蔑視しているユダヤ教の中でもっと大きなトラブルが生じることもある、悩ましさを言い表しているのかもしれません。そしてそんな自分は十字架の死を遂げれば、弟子たちはこの世に残り、過酷な運命にあることもあることを預言し、そういったのではないかと思います。
しかし、ユダヤ人たちが理解できていない神の愛の大きさを言い表すためにも、異邦人の弟子を持つ意義を感じます。
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。と言われるのです。
僕の心のよりどころの一つの御言葉ですが、その重要性はクリスチャンの共通する考えではなく、福音的右派(?)な宗派は、最後の審判を重視しています。永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるという思想で、宣教の努力を怠ると天国には行けないと脅されています。ですが、僕個人、また僕と同じような考え方を持つ人も少なからずいて、それは今日のこの箇所を福音として読んでいるのです。「すべての人」には、他宗の方、無宗の方も含まれ、イエスはそこに隔てなく天国への導きを語っています。特に使徒信条という信仰の告白の中に、一つの罪すらなき神の子イエスが「陰府(よみ)に下り」とあるのです。
何度も親鸞の記した「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」を題材として使っていますが、善人が往生できるのは、陰府に下ってそこへの救いの手を差し伸べられるからでしょう。そこまでの神の愛を僕はこのイエスの言葉に感じとります。

じゃあ、別にクリスチャンにならなくたっていいじゃないか、と言われるかもしれません。教会に行かなくたって同じことだろう?と言われるかもしれません。その考えは正解です。
でも、クリスチャンであってもなくても同じであっても、共感できるのなら、クリスチャンとして生きたいのです。マルティン・ルター師は「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」と言います。最後の一瞬までもそうしたいのです。

この日礼拝司会の奉仕に当たらせてもらいました。司会者は、会衆を代表して祈りをささげるのですが、この日僕は東日本大震災を思い、祈りの大半そのことを祈りました。
もし、誰もが救われるならクリスチャンでなくてもいいじゃないか、と言われるのは、被曝をした土地に住めなくなり避難している人に対して、どこの土地だって同じだよ、良いじゃないか故郷でなくたって、と言っているのと同じに聞こえます。
世界が滅ぶ前日にリンゴの木を植えたところで、リンゴの実はならないかもしれません。でも大事なのはリンゴの実がなるかどうかよりも、リンゴの木を植えるという自分の意志です。
だから僕はクリスチャンになったのだし、線量が低くなって戻ったところで困窮することがわかっていても故郷に帰りたいという「意志」を大いに尊重したいのです。
やってもやらなくても同じなら、自分の意志でやりたいのです。

長井牧師は「水平線の向こうから」堂園晴彦著 と言う絵本を紹介されました。
イエスはこの後十字架の死を遂げます。
しかし、僕らの中には生きています。
それは、いつもイエスならどうするのか?を考えながら生きるという二人三脚が身に着いているからです。(まぁ、なにもクリスチャンだけの特権でもなく、大事な家族を亡くされた方もそうですし、お遍路さんをする人も同行二人の笠をかぶっています)
絵本は幼子の居る末期がんのお母さんのお話。船が見えなくなっても船が沈んでしまったのではない、会えなくても希望を捨てないで、と言う内容のようです。
イエスの十字架の死は、絶望ではないのです。未来に希望をもたらせてくれました。何よりも天国のパスポートを無条件でくれて、その天国には愛すべき家族や仲間がたくさんいる訳です。しかもそこには「平安」しかない。

そこまで完璧な未来が与えられたら、この世の残りの人生は、そこに行く準備の時。愛し合いなさい、と言うイエスの言葉に従って精一杯生き切りたいものです。

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