ベタニアでの塗油

2016年3月6日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 12章1-11節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。



「伝言ゲーム」という遊びがあります。1列に並んだ一番前の人に「お題」が出され、それを後ろの人に伝えていき、一番後ろの人が聞き取った「答え」がいかに「お題」に近いかを競う遊びです。
今に生きる僕たちは紙と筆どころかメモリーと呼ぶ電気信号に情報を蓄えることができ、しかもその容量は「bit×1000=K×1000=M×1000=G×1000=T」,,,つまりは5000億文字が1万円程度で買えるコンパクトな箱に収まるのですから、情報の保管と共有なんて言うことは気にもかけずに済みますが、紙のない時代、多くは耳から耳への伝承、そして時折獣の皮やパピルスに書き写される程度なので、数十年の伝言ゲームのように情報が正しく伝わらないことが多くあったかもしれません。
そして、何でも情報を残せるほどのキャパシティはなく、重要でないとされた情報は消え去るのが常だったのでしょう。
そう考えると4つの福音書すべてにかかれているこの出来事は、どの弟子たちもとても印象的に心に留めた出来事だったとは思いますが、
誰?に対して、マル・マタ:一人の女 ルカ:罪の女 ヨハ:マリア
どこ?に対して、マル・マタ・ルカ:シモンの家 ヨハ:マリアの家
香油を塗った場所は?は、マル・また:頭 ルカ・ヨハ:足 と聖書がまとめられるまでの間に情報が錯綜してしまっています。
それが何を僕たちに伝えているかは、それだけで1つのトピックスとなってしまいますので、今日与えられたヨハネ福音書の説き証しのインプレッションを書きたいと思います。

エルサレム入城の前日、イエス一行は、マルタ・マリア、ラザロの家に泊まります。この姉妹は、ルカ10章にも出てくる姉妹で、お客をもてなすのが義務であり喜びだったユダヤの民なのに、マリアは何のもてなしをすることもなくイエスの横で話を聞いていた、と書かれています。横で姉が忙しそうにしていれば気が付きそうなものですが、そんなことは気にも留めず…、です。お客人をもてなさない非常識な態度に姉のマルタは怒り心頭、お客であるイエスにも何とか云ってくださいよ、と怒りをぶつけますが、イエスは「そのままにさせておきなさい」と取り上げませんでした。
中田牧師は、たぶんマリアはこの時だけではなく、いつもこうした「世の非常識」でも気にかけることなく、よく言えば天真爛漫に過ごしていたのではないか、と推測をします。
そしてそうであれば、家族以外村の人たちも『また、あの変人の』という冠をつけてマリアを見ていたのかもしれません。

この日も家の家宝のように保管していた香油を持ち出してきました。300デナリオンとユダが値踏みしたところからすれば、数百万円の香り芳しい高級品です。香水と香油は違うかもしれませんが、普通こうした香りを楽しむものは、数滴垂らしてほのかな香りを楽しむものなのでしょうけれど、マリアはその一瓶をすべてイエスの足にかけてしまいました。
想像しただけでもものすごい香りが家じゅうに広がります。過ぎたるは及ばざるがごとし、のたとえではありませんが、誰もが「またマリアの奴やっちまったよ」と思ったことでしょう。

ユダは言います。そんな高価な香油をこんな無駄な使い方するなんてどうかしてるぜ、こんな使い方するなら貧しい人に施しが出来たのにねぇ、先生?
ユダの言い方は極めて常識的です。優等生の答えです。
本音はヨハネも言っている通り、貧しい人の暮らしをどうにかしてあげようという心からの気持ちではなく言っていたのかもしれません。ただ、マリアを非難するがために貧しい人を持ち出したのだと言うのです。

弟子集団でもトップのスキルや処世術をもっていればこそ、イエスの信頼を受け、すべての財産を管理できたのでしょう。集団の食費や町々での交渉事を引き受け、そつなくやりぬけたのは、彼が常識人だったからでしょう。

そんな常識人のユダにしてみれば、非常識なマリアの行動は腹が立つ行為だったのかもしれませんが、そんな苛立ちをイエスは受け止めることなく「するままにさせておきなさい」と言われました。中田牧師は、ユダの裏切りは、この常識に対する考え方の違いから生まれたのかもしれない、と語ります。

話を聞きながらユダのように常識の範疇から抜けれない僕がいました。が、牧師は話を続けます。
『クリスチャンでないご家族の方は、なぜ我が家の家人は毎週毎週何の得にもならないのに教会に行くのだろう?』『もしかしたら洗脳されて騙されているのかもしれない』『もっと他にすることがあるだろうに』と思っているかもしれない、と語ります。それが世の常識的な考え方かもしれないです。
しかし、僕らはいそいそと教会に行く。
いや、教会だけではありません。RFL(リレーフォーライフ)のイベントも、木曜日の野宿者の訪問もみな同じです。関心の無い方にしてみれば、何の得にもならない非常識、に見えてもそこには「正しくかつ楽しい」と思える出来事があり、それを共に喜ぶ仲間がいます。
その姿はまさにマリアのそれと同じで、非常識だと言われてもピンとこない、下心のないピュアな気持ちなので、苦痛でもなく楽しく過ごせているわけです。

中田牧師は、実はイエスもユダのように貧しい人に施せ、と語ったと言います。それは富める青年が『天の国に入るためには何をすればいいか?』と問うた時です。
この時のイエスも、下心のないピュアな気持ちで、非常識のような言葉を金持ちの青年に言うのです。ユダの表面だけの言葉と違うことに、このマリアの本当を見るのです。

実は、今日与えられた聖書の後半は◆ラザロに対する陰謀 という小見出しが付いた3フレーズがありました。このやり取りの中に出てこないラザロの意義が書かれていて、感動の話もなされましたが、そのお話のインプレッションを書くと、これと同じくらいのヴォリュームになってしまいそうですので、今日はマリアの話だけにしておきます。
人の目を気にすることのない猪突猛進的な愛、でも下心のなくピュアな愛の告白に元気をもらって今週も顔晴りたいと思います。

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