沖縄を知ろう!!(1)

教会の社会委員会委員長をしていた時、沖縄のフィールドワークに行きました。当時WebSite(ホームページ)を作ってまして、「前略おふくろさん」や「北の国から」の倉本聡さんの手法を恥じることもなくものまねして、そのレポートを記しました。

主の御名を讃美します。例年に比べ暖かい日が多い今年、しかも温暖な小田原の地もさすがに11月も半ばを迎えるとめっきりと涼しくなってきます。お元気でお過ごしですか?
1999年11月10日から13日にかけて沖縄に行って参りました。
 前に少し書いたかもしれませんが、日本基督教団は戦後アメリカ占領下の沖縄教区を切り離してしまいました。沖縄は沖縄キリスト教団として出発することを余儀なくされたわけですが、戦後50年経ち合同の捉え直しを協議されるようになりました。
 日本基督教団沖縄教区にしようとする牧師たちに対し、「ヤマトンチュウ(大和人)は、16世紀に攻め入ってきて支配し、戦後見捨て、今度は小さなグループとして吸収合併するのか?」と不満を持った沖縄教区は「基督」をわかりやすい「キリスト」に替え、日本キリスト教会と言う合同名称を提案しました。
 ところが、自分たちが負の部分を負うことに何故か反対するヤマトンチュウの牧師が約半数おり、いまもって一本化されておりません。戦争の「反省」の懺悔を告白し、「隣人愛」を説く日本基督教団の本音と建前を見る様ですがなかなか難しいようです。
第二の基地県に住む僕たちは「沖縄を知ろう」と牧師、役員、会員の誰が提案するわけでもなく周知のように計画が粛々と進められ、今回を迎えました。
 10日の21:00に羽田を発った僕たちは、22:30にまだ夏の陽気の那覇につきました。

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トロピカルな沖縄をイメージするハイビスカス。でもこれは戦後アメリ カ人の手によって持ち込まれた樹木。アメリカ統治下のシンボル

沖縄海洋博があった本部港から約30分。そこに目指す「伊江島」はあります。ここは、村の8割ほどの米軍施設を阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)兄ら反戦地主がインド独立運動のマハトマ・ガンジーのように静かに平和的に闘い約4割の返還を実現し、尚残りの1割ほどを村の道路として使える状態にしております。しかし、そこにたどり着くまでは当然の如く並大抵の闘いではありませんでしたし、阿波根兄の半生も物凄いものがありました。
 「ヌチドゥタカラ(命は宝)」資料館は、そこに行き着くまでの歴史を展示してあり、同所のスタッフは見てもらうためにはどんな苦労をも惜しまないと言わんばかりでした。17時に着いた僕たちを迎えてくれたのは70にもなろうかと思われる謝花悦子姉.。今日既に4組のグループにお話をしたと言うのに元気に約2時間、僕たちにもお話をしてくれました。
 夕食後、その運動史をまとめたビデオ上映をみせてくれました。終わったのはもう22時でしょうか?スタッフはその時間までお付き合いをして下さり、「わび合いの里」の宿泊施設までお送り下さりました。僕たちはそのまま寝れば良いのでしょうけれど(と言っても泡盛を飲みながら深夜までだべっていましたが^^;)彼女らは次の朝も私たちの朝食の準備のために早起きをしなければいけません、本当に感謝です、ハイ。

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ボスニア・ヘルツゴビナを髣髴させるような伊江島の公益質屋跡。つい50年前までこの地でも同じような悲惨な事件があった。

反戦地主は極減しているそうです。というのも、米軍に土地を貸せば、借地料が入る。その上、平和な今ですから、空いている場所での耕作は認められております。いわば二つの収入が見込まれるからです。問題になるのは自分の家計が優先なのか?沖縄から基地をなくすという沖縄の願い優先なのか?という選択です。しかし、戦後自分の地所を基地として没収され、その返還運動に生涯を掲げた人や基地外で米軍の銃弾に当たり亡くなったものの保障もされなかった人、等々といった困窮の世代が自分の子には同じような苦労を与えまい、とした結果、過去を断ち切り自分の家庭優先の二個所からの収入がある地主になってしまうのも致し方ないのかもしれません。
しかし、確かなことは基地を持っていれば有事の際は必ずそこが修羅場になるという事実です。それは歴史が語っています。

 ヤンバル(山原)地方を快適に走り、太平洋に面した辺野古地区に入ります。ここはジュゴンの住む海です。
太平洋側は濃紺の海です。東シナ海のようなエメラルドグリーンの美しい海ではありません。それは潮の流れが速い事に影響を受けます。東シナ海が鮮やかでありながら水産資源を持ちあわせないのに対し、太平洋は地味ながら豊かな海であるのです。その辺野古はご承知の通り、普天間の移転予定地。沖合いにメガロフロートを置き、そこに巨大ヘリポートを建設する計画。何で海上なのか?と言えば今までは米軍施設はアメリカが作っていたものの、ベトナム戦争で金を使い果たしたアメリカ政府が、日本に援助を求め、合意し「思いやり予算」を計上したのがきっかけです。そのためアメリカは資金を考えること無く、いかに費用がかかろうが作れれば良いわけで、アメリカの傲慢な考え方を垣間見ます。当然フロート状の基地なんて言うのは陸上よりも、技術的にもコスト的にもかかるはずです、でもそれは僕らの税金なんです。そしてそこに来るはずのメガロフロートは数年前に既に建設され、横須賀の沖で時が来るのを虎視耽々と伺っているのです。そうなんです、日本政府は、既に十年近く前、イヤもっと前なのかもしれませんが…、からアメリカ政府と移転の決定をしているのです。そこには、バブル後の大手企業の仕事の絡みもあったでしょう。横須賀基地の片面縮小により日本鋼管と日産自動車が潤ったのも事実なのです。そのように住民の意向など無いところで、政治は大手企業と共に動いているのです。
  いかに反対があろうが、あの象の檻と同じように、強権発動をしてまでも辺野古に持っていくのが予想されます。

20160215-03
境界杭と有刺鉄線。これが日本国土とアメリカ領土を区分けして いる。延々と海の中まで続いているが、動物には関係ない話だ…

辺野古は、隠れキリシタンの村。今の多くの教会の礼拝とは若干差はあるものの、豊かな自然の中で心も穏やかに過ごしています。海は、神の創った場所であるだけでなく、今までを悔い改めて主に従って生きていく、という信仰を言い表す「受洗(バブテスマ)」を受ける場所なのです。その地にメガロフロートを作られることは、生活のためだけでなく心の痛み、信仰の屈辱でもあるのです。そしてメガロフロートは、ヤマトンチュウのゼネコンが作ります。それだけでは地元にはお金は落ちないので、メガロフロートと本土(辺野古村)を結ぶ道路は地元建設業者に発注されるそうです。つまり沖合いに施設を作るから、海には影響が無いなどうそっぱちなんです。道路を作ることにより、海は死んでしまうのです。しかし、それでも産業の停滞をしている沖縄では賛成をし、その仕事にありつき、生きようとする人がいます。僕たちはその人を非難することは出来ないです。その仕事も無ければ従業員を、家族を食べさせることが出来ない人もいるかもしれないからです。しかし、逆にその事により海を生活の場にしている人の生活や宗教的な場所にしている人の生活は踏みにじられます。その事も忘れてはいけません。
  「どこの家にも便所は必要だ」と僕たち久野の反対運動が始まった時、ある市議がいいました。小田原市を一軒の家に例えその掃き溜めを久野に押し付けようとした蔑視したものです。それに対して約10年の闘いを繰り広げました。このことは農業VS開発の図式であり、文化VS文明の闘いでもあります。つまり辺野古の闘いは、実は日本が2000年を向かえどういう国家にしていくのか?と言うことを、右肩上がりの、生産性最優先の、GNPが高い国家の、それがなんだったのか?を国民一人一人に問う問題だと思います。
 豊島が、日の出が、御嵩が、西吉野が、そして久野が抱えたゴミの問題と同じように、必要悪の施設だがどこかに作らなくては、人口が少ない場所だから、と言った多数決の差別制を認識させる問題でもあると思われます。
  反対運動を指導している方と短い時間でしたがお話をし、別れ際に「お祈り下さい」と絞るような声で言われました。共に祈る言葉、そして「その(祈りの)通り」と言う意味のアーメンを言った後、その方は頭を上げられませんでした。泣いておられました。「祈り」がこんなに重いことも、「祈りましょう」と言う言葉よりの「祈って下さい」と言う言葉がこんなに辛いことを初めて知った気がします。僕らも目頭に涙を溜めながら祈りました。この重い祈りをシッカリと共有できるようになりたいと思います。

20160215-04
米軍基地の一部を返還させ、作られた佐喜真美術館。

この後普天間の佐喜眞美術館に行きました。普天間基地の一部を返還させて作った美術館は、あの丸木位里さんが描かれた「沖縄戦の図」を展示した美術館です。
 屋上には、23段の展望台が立っており、そこにあるスリットは6月23日の夕日の位置だそうです。沖縄にとって6月23日は特別な日ですから…
  佐喜眞さんはまだ50代(?)前半の青年とお呼びしてもおかしくない方でした。普天間の米軍基地ケーブルのトラブルが僕らが訪れている最中の12日にあり、それにより沖縄の空は乱れました。ニアミスによる事故防止かと思っていた僕の思惑はもろくも崩れました。与論島を過ぎたあたりからの沖縄の空は、運輸省の管轄を外れます。そこでは米軍の管制による管理の下、空港の離発着が行なわれます。勿論JALやANAと言った民間機も例外ではありません。米軍が優先される事は言うまでもなく、この日一日那覇空港がパニックになっていたことは、全国紙にも大きく記載されました。修学旅行のシーズン、閉館間近に伺った僕たちの前には、多くの修学旅行生でごった返していました。閉館時間を過ぎても次世代の子ども達に、この絵を見てもらい何かを感じて欲しいと、遅れてまだ空港に着かない子どもを待っています、と言われました。伊江島の「わび合いの里」のスタッフの方もそうでしたが、伝える必要性を切実に感じられ、そのための努力は惜しまない多くの方の姿を知りました。それは、戦後50年を悠に過ぎ、体験者の減少に伴う語りべの減少、そしてここに来ての新ガイドラインを中心とした戦争への道を歩み出した日本の姿に対し必死の抵抗をしている姿でもあります。残念ながら見ていた子ども達は、絵など見ておらず、説明をしている佐喜眞さんが気の毒なようでした。僕と同行したメンバーはそんな姿を怒っていましたが、そこは「来た」人と「連れてこられた」人の違いがあるのでしょう。ただ、頭の片隅にあの衝撃的な絵があってくれれば、有事の際に反対できる人間に育って下さるのではないかと思います。

20160215-05
決して「観光」地ではない。戦跡であることが実感できるアブチラガマ の入り口。

戦跡もいくつか伺いました。チビチリガマ、糸数ガマなどの防空壕。
 チビチリガマは、現在も遺骨収集が行い終わっていないということで、(半)自主的に立ち入れないようにしてあります。入り口には、慰霊のモニュメントがありましたが、心無い人に破壊されたということで、新しいものに置き換わっていました。
 糸数ガマは、入り口で懐中電灯を借り、中に入っていきます。垂直のような階段を十数段下るとそこは闇の中。自然のままの鍾乳石の洞窟は、ガイドさんの後を歩かなければ迷子になってしまう様な所。子ども達の楽しんでいるコンピューターゲームのダンジョン(洞窟)の本物ヴァージョン!いつ何が飛び出してきてもおかしくないような曲がりくねった狭い穴を恐る恐る歩いていきます。
 途中いくつか大きなホールに当たります。そこが、診察室であったり、病棟であったりします。このようなガマは最初は住民の防空壕だったと聞きます。そこに日本兵がやってきて、住民を追い出し、自分たちの避難場所にしていきます。今まで自分たちを守ってくれると思っていた日本軍によって砲弾の前にさらけ出された悲しみ、泣き声で敵兵に見つかるといって責められ我がこの首を絞めざるを得なかった母親の苦悩、不潔な環境の元破傷風が脳に入り半狂の後死んでいった懲役兵。
最後まで尽くした女子校生、そう、ひめゆりの手記には爆撃を受け、友達同士シッカリ手を握り合って耐えていたけれど、ピカッと光った後気を失ってしまった。どれくらい時間が経ったか解からないが、気がついて手を握り合っていた友達を見たら頭が無かった…。握っている手の持ち主は死体であったら、そこには恐怖しかないと思いますが、アッ死んじゃったんだ、という感覚しかない、涙も枯れ果ててしまった…。そこまで死に対する恐怖が欠如してしまうという戦争に恐れを覚えます。16,7才の女の子が生に対する恐怖を持っていても死に対する恐怖がなくなるなんて、本当にむごい事だと思います。
 途中で、懐中電灯の明かりを消して当時を偲んでみましょう!の言葉に僕たちはささやかな光を消しました。闇という言葉をはっきり実感しました。もし目の前に誰かがいても分からないほどの暗闇です。静寂の中に「ポッタン、、、ポッタン、、、」としずくが落ちる音が響きます。まるで遠くからゆっくりとなにかが忍び寄ってくるように…。大勢の仲間が周囲に居る(はず)です。が、孤独による恐怖を感じます。「早く電気をつけたい…」それだけを念じながらしばらくの時を過ごしました。明かりが外に漏れるのを恐れた戦時下の人は、そんな恐怖と見つかる恐怖を24時間感じていたのだと思います。
 爆撃が近くなると負傷兵は、自害するようにと青酸カリか手榴弾と共に置いていかれました。その人たちは僕が感じたのと違う感覚だったらしいです。孤独感の中、あの遠くから忍び寄ってくる様なポッタンという音に、せめて体が動いたらあの水が飲めるのに…と悔しんだらしいです。生への執着は奇跡を呼ぶのかもしれません。その方はある時の爆撃で水の傍に吹き飛ばされました。その時水を飲め満腹感を味わい、それによりいざりながらでも歩けるようになり生き延びれたそうです。出口直前には高さ3mほどの天井に一斗缶がへばりついておりました。外からガマを爆撃した際の爆風で食い込んでしまったのでしょう。外に出た時の安心感はなんとも言えないものでした。
  もう一つショッキングな話を聞きました。
「そう言えば(女学生たちは)包帯を洗った事が無い…なぜ?」という事に気がついて聞き込みをしたところ、「そう言えば奥の方で分からない言葉を話す人が居た」との事。従軍慰安婦として連れてこられてお払い箱になった人がここに連れて来られたのでしょう。ここにも作業内容の差別があったようですし、多分その人たちは撤退も最後だったと思われます。批判的な人が言います、そんな史実は確認していない、と。しかし、爆撃の激しい中、日本人からも見放された従軍慰安婦の方は全滅したと考えてもおかしくはありません。
  伊江島のガマの中には戦後(沖縄戦の)集団自決をしたものもありました。僕らが見たら40人も入ったら一杯になりそうな所に150人以上も入っていたそうです。「戦争に負けた」と言う噂で、ガマ内はパニックになり爆死したそうです。小さな子どもたちは本当に死を望んだのでしょうか?家族かもしれません、しかし他人が決定権を奪って、「生きたい」と望む子どもを「自決」に追い遣ったとすればそれは「自決」ではなく殺人です。公然とそのような事が行われた戦争はやはり狂気です。
 狂気といえば、なぜ竹槍での攻撃で勝てると日本人は思ったか知っていますか?今回の旅の中で、僕ははじめて知りました。米英人は赤鬼と同じだが、彼らは昼間は目が見えない、だからその間なら彼らを倒すことができる、と教えられ竹槍をつく練習をしたそうです。そんな事を信じてしまうなんて、如何に教育が大切かと言う事を再認識しました。
  象の檻や安保の丘などの反戦のシンボリックな場所も見ました。そして道の両側にどこまでも続く金網と有刺鉄線…。コバルトブルーの海と白い砂浜といったトロピカルなイメージと対比するような街中も、若者にとっては西洋のペンキ一色の街並みや横文字の看板といったエキセントリックな街としか写らないのかもしれません。
僕だって戦争を知らない世代です。でも、色々な社会問題を認識した中から、危険な方向に行っていることを感じます。それを少しでも多くの若者に伝える必要を感じます。
自虐史観だといいます。でも自虐ではありません。反省する心を持っているだけです。他国のやっている事も間違っていれば批判しなければなりません。戦時下のようにいい事だけを書くのなら、それは正しい歴史でない事を知っているだけです。堕落するのは本当に簡単です。でも、必要な時は上昇志向を持っていかなければ行けないことを少しでも言い広めることが、聖書に書いてある「隣人を愛せ」だと思います。

20160215-06
一行で「象の檻」の前で記念撮影。はためく星条旗が何をか物語る…。

本当にいろんな事を見聞しました。でも、残念ながら消化不良をおこしています^^;。2泊3日の行程ではあまりにも多すぎました。もっと知りたい…、そんな気持ちを抱きながら、羽田に向かう飛行機の住人になりました。米軍管理の唯一の利点は、空気抵抗の少ない3000m以上は、民間機の走行は出来ません。そのため、与論島周辺までは低空を飛行していきます。17:50発のJAL906便は、夕日に染まった美しい海の上をフライとしました。本当に綺麗な風景でした。あの悲劇から50年しか経っていないとは思えないほどの平和な夕焼けでした。そんな体験をして参りました。
長々書いてごめんなさい。思いを共有できる誰かに話したくて書かせて頂きました。また手紙を書きます。元気で頑張って下さい。
主にあって平安。

なんでこんな古い文章を引っ張り出したかと言えば、我が家のプロパイダーが@niftyに委託したJCNからJcomに変わりWebSiteが消滅してしまったことと、このあと公知する映画会と講演会のお知らせをしたいが故です。
では、沖縄を知ろう!!(2)にGo

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