『良くなりたいか』

2016年1月31日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 5章1-18節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。



ベトザタの池の物語は、野宿を余儀なくしている人の生活と似ています。
駅前で今日販売した雑誌を格安の価格で売っている方がいます。多くは野宿を余儀なくしている方です。でも、1日中ここに座っている訳ですから誰かから雑誌を買わないといけません。野宿をしている人が誰から買うか、と言えば、それは「組織」からです。この販売員も、この販売員に雑誌を売る電車の中で不要と網棚に捨ててある雑誌を拾う人も、共に「組織」に上納金を払いながら、というより販売をする中で小遣い銭をもらえるが故に一日過酷な労働をしているわけです。元締めの人は、何もしないで他人の労働の「上がり」で生活をしているのでしょうけれど、少し理不尽さを感じます。
というのも、元締めの人も一時は野宿を余儀なくして、その時に誰かに声をかけられ、車内で雑誌を拾ったり、駅前で雑誌を打ったりして生活をしたのでしょう。その辛さを知っていればこそ、同じ困窮の仲間から搾取はしないと思わないでしょうか?
社会の中から野宿の生活に移行した時、その煩わしさや生き馬の目を抜くような世知辛さに嫌気を感じたはずなのに、自分がその場に入り込めば同じような残酷な仕打ちをしているような気がします。

ベトザタの池の周りにいる人は、財産が豊かにあり名医にかかれるような人はいません。医者にかかる費用が出せない人、すべての医者に見放された人、そして何よりもそうした人たちは、社会から「先祖や自分が神に対して罪ある者」と蔑視されている人ばかりだったのでしょう。肢体が不自由なのは「罪人」だというゆがんだ発想がこの時代は横行していました。
つまり隣にいる人は自分と同じ、財政的にも、人の目という社会的な差別設けている人たちであって、決してライバルでも敵対でもないはずです。
でも、自分がその仲間から抜け出せる、と感じた時に、足の引っ張り合いになる、というのがこのベトザタの池の出来事ではないでしょうか?他人のことをかまっている余裕がないのが人間のサガというやつなのでしょう。
そんな足の引っ張り合いを38年もこの方はやってきた訳です。人間不信、そして成功できない理由を他人のせいにすることで自分を慰めていたのかもしれません。

『主よ、誰も入れてくれないのです。』自分がこのような境遇にあるのは周囲が悪い、というのです。
そんな人にイエスは「床を担いで帰れ」と言います。
それは、自分の人生は他人が決めるものではない。自力で生きることこそ大切であることを教えたイエスの言葉ではないでしょうか?
町中に行き、今まで交流のなかった人と交流が始まり、足の引っ張り合いではなく、連帯をすることで『生きやすくなる』そんな前向きの生き方をはじめなさい、というイエスの言葉に納得して生き方を変革しようとしたのではないでしょうか?

中田牧師は、もう一つ大切な視線でお話をしてくれました。
それは、そんな床を担いで帰っていく人に対して、出会ったユダヤ人たちは、『よかったな』という喜びを共有することもなく、律法違反だけを語ります。
今で言えば、道路の向こうで子どもが誘拐されそうな時、横断歩道の信号が赤だからと咎められるのは人としていかがなものかと思ってしまいます。何が大切か?聖書はそれを語ります。
喜ぶものとともに喜び、悲しむものとともに悲しむ。律法違反だけを問題視し、人の心を無視するそんな律法。そこからの解放、「他者」に神性を感じることの大切さをお聞きしました。

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