信じて、自由を得る

2016年1月24日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 8章31-36節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。



語ったことの真意を理解してもらえないのは非常に残念なことです。人生の中語った言葉を誤解された経験はだれでも1度や2度はあるでしょう。後世僕らが読めばこの会話もイエスの言わんとしたことをユダヤの民は誤解して受け取ったと分かります。
ユダヤ人は選民意識があります。神から選ばれた人種、ゆえに他民族が攻めてきて一度は敗北をしても捲土重来、わが民族は奴隷に謎ならないという誇りであり驕りに生きているわけです。
それに対して、その誇りであり驕りこそが身を滅ぼす。「罪を犯すものは罪の奴隷」だとイエスは語ります。この「罪」とは何か?それは選民ゆえに非選民を見下す行為ではないでしょうか?律法によって人を差別する行為ではないでしょうか?

罪という言葉は、原語を読み解くと「的外れ」という意味だそうです。神の真意に対して的外れな生き方をしている人が罪人です。
人を愛す故にインマヌエル(あなたのそばにいてあげる)と言ってくれる神が人を差別するはずもないのに、そしてその栄頂上の発言で弱者アブラハムにあなたとあなたの子孫を愛し続けると語られた神。
しかしユダヤの民はその前半の言葉を無視し、後者の選民意識のみを頼りに生き、そして差別をしました。
そこにイエスは「神の喜ぶ生き方」をするように説いたのです。それは多勢に無勢、圧倒的多数に一人立ち向かうのですから、そう簡単に理解されない、つまり当初に書いたように常識を覆す言葉を言い放ったゆえに誤解が生じる恐れは多分にあったのでしょう。
しかしイエスは、「的外れ」をしたくなかった。圧倒的な少数意見であっても神の「的」を伝えたかったのでしょう。長いものにまかれる生き方は簡単かもしれませんが、長いものにまかれ「的外れ」に生きるよりは、『「智」成らぬ「的」に働けば角が立つ』としたかったのでしょう。

長井牧師はマルコによる福音書10章46-52節を読まれ語られました。
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


この聖書を分析すると、当時のユダヤの社会で罪人とは、誰かの罪の因果応報、つまりバルティマイも先祖の罪か自分の罪がこうした盲人につながった、と信じられてきました。
が、彼が苦しんでいるのは、目が見えないこと自身もそうかもしれませんが、目が見えないことで周囲が受け入れてくれないことが、困窮の原因だというのです。
つまりこの話をよく読むと、盲人だ、と批判と偏見だけで見下す不自由な世の中から、盲人であることを理解してそのハンディキャップをサポートしてくれる群れの中(イエス集団)に入ることで彼は自由になれたことを言わんとしているのではないでしょうか?

ユダヤ人はアブラハムの子孫だから、という言葉で言い表したように、殻をかぶってあえて不自由な生き方をしたわけです。が、長井牧師は僕らにも問いかけます。『クリスチャンだからちゃんとしなければ』という意識はないですか? と、

写真が好きな僕は以前とあるカメラマンの方に「写真は引き算だ」と教えてもらったことがあります。いい写真はファインダーを覗きながらフレームの中に映っているこれはいらない、これも不要だと除いて行った写真を目指せと言われました。
人生もそうかもしれません。様々な形容詞がついてくる中、敬虔なという鎖につながれている不自由を脱ぎ捨てて、ただ主の御後。イエスの祈りと行動の後を歩めるように、それだけを意識していたいものです。

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