神に従う者として

2016年1月10日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 1章29-34節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」



ヨハネによる福音書が他3福音書と大きく異なる点は、残りの3つの福音書はイエスの語った言葉や行った行為を中心に出来事をものがたりのように記しているのに対して、ヨハネによる福音書は第三者が客観的に書いているようなタッチです。言い換えれば時代を超越し未来に向けて書かれた観があります。もっと言葉を変えれば「ヨハネの証」、わたしはこれこれこうだからイエスを信じた、という内容ゆえに他3福音書との違いを感じます。
でも、それはある意味非常に強い信仰の言葉で、そこから勇気づけられた方も多いかと思います。

長井牧師は、礼拝内の説教に先んじている子とも達宛のメッセージの中で羊の生態について話されました。羊はとても臆病な動物で、後ろから敵なる動物が襲ってきた時もあたふたして逃げ遅れることもあるそうです。でも例えば人間に取り押さえられると観念しもうじたばたしないそうです。
この観念は「あきらめ」ではない、と牧師は語ります。もちろん「妥協」でもないです。

ゲッセマネで祈るイエスの祈りは『この杯を取り除いてください』というヒツジで言えばあたふたした祈りでした。しかし、その後『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』と続けます。観念したらじたばたしないというのは、受け入れベストを尽くすことでもあるのではないでしょうか?

多くの人が一度や二度「自分はなぜ生まれたのか?」とか「人生の目的は何なのだろうか?」ということを考えたことがあると思います。
イエスも、たぶん何度もその大きな問題を考え、あたふたと狼狽(うろた)え、そして神からの啓示をしっかり確信した時、観念をしじたばたせずに十字架に着いたのでしょう。その後のイエスの様子を伝える聖書の言葉は、凛として死に立ち向かうイエスの姿を描いています。

全ての人を救うという「だいそれた」ミッション。犠牲の死は暗く悲しいものではないです。神はその一人子を生贄にささげて自分が人間を愛していることを伝えます。ですから、十字架の死は喜びでもあり、感謝の日であり、希望の誕生です。
僕らクリスチャンは復活のイースターの直前、レント(受難節)の時を過ごしますが、その最後の金曜日はイエスが十字架にかかった日です。その日を英語ではGoodFridayと呼びます。語源はGodFridayらしいですが、クリスチャンが多い英語圏の国民がGoodになっても受け入れたところに、今日の説教の内容が支持されていることを感じます。

ヨハネでなくとも僕もイエスの誕生と死が神のお見込みであることを信じ、それ故にイエスの人生も神の薦めるものであることを信じます。ですからイエスを証しし、その証しはイエスのみ後、イエスの行動をなぞる人生をすることだと思っています。
その人生を歩むことに生と死においても希望を感じます。

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