主の道をまっすぐに

12月13日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 1章19-28節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



訝(いぶか)しがる祭司やレビ人たち。元から胡散臭いんだとばかり否定してかかっているからこれはもう何を言ってもご理解はいただけないでしょう。
そんな関係の今日の聖書の対話。いや対話にならない対話。

バブテスマのヨハネは僕ら後世の聖書を読むものとしてはとても高いレベルの方。しかしその人がひたすら謙遜していることを当時相対した人たちはどこまで知っているのか。
そのヨハネがイザヤ書40章3節
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
を使ってイエスの降臨を語ります。
この箇所はバビロン捕囚からの解放を預言した箇所。解放の喜びを伝える箇所。

では「声」とは何を表しているのでしょうか?その問いうに長井牧師は福音書の著者ヨハネの神学を語ります。ヨハネの福音書の書き出しは、
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(同1章1~4節)
言葉から肉となり、その肉が私たちの間に現れた。肉はこの後に来るイエス、だから自分はその「予告」としての言葉(声)になれれば、という思いではなかったのでしょうか。

長井牧師は、茨木のり子さんの言葉を紹介されました。それは言葉の発し手と受け手がシンクロした時言葉の意味が成り立つ、という内容。
聞き手が聞いてくればければ言葉は伝わりません。
いくらバブテスマのヨハネが「声」だと言っても理解してもらえなければ意味を持たなかったように、今の僕らもそうです。社会の問題は為政者に届いているのか?という疑問と共に、果たして自分は聞く耳を持っているのか? という自問もあります。

もう一度主の声に耳を傾けたいものです。

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