イエスを証しする言葉

12月6日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 5章36-47節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」



今日の箇所は『福音書を書いた人の神学』を意識して読み解きたい、と中田牧師は言われます。
神と人をつなぐパイプ役を自負しているファリサイ派。その自信は実は神が直接語りかけた訳でもないし、何百年、何千年一族がその職を受け継いでいれば、住民もそれが当たり前だと感じてしまうのでしょう。
そんな世の常識に対して、確かなのか?と異を唱えた訳ですからファリサイ派の人は怒り狂うわけです。それは、自分の社会的地位(名誉欲)と生業(経済力)を失わせてしまう重大なことだからでしょう。
そんなファリサイ派にイエスは3つの理由で反論します。
1つ目は、イエスを証しするのは神ご自身、と語り、
2つ目は、自分の業そのものが遣わす理由であること。
3つ目は、旧約聖書に自分のことが書いてある、というのです。
しかし、それは第三者で冷静に判断できる人ならともかく、自分の身に降りかかる話では納得できないのはわからなくもないです。
しかし今私たちは後世のイエスを信じるものはそれを知っている訳です。逆に言えば、キリスト教を信じていない方にとっては「証明」されていないと拒否することも可能な言葉でしょう。
そもそもクリスマスをお祝いする、と言うのはイエスが救い主だから自分たちは救われる。と思うから喜べることであって、イエスは神の子ではないならただ1人の「人」が生まれただけのことです。家族だって自分と生活を共にした人以外の誕生日はお祝いしない事を考えれば、自分と関わりのない他人と言う「人」なら2000年も喜び続ける必然性は全くないでしょう。
でも私たちは神の子であると信じています。このイエスの言葉、特に2つ目の証にあるようにイエスの御後をついていくようにしたいものです。

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