キリスト来臨の希望

11月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 7章25-31節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。



アドベントクランツに火が灯りました。クリスマスのよき訪れを待つ時です。
この日僕らに与えられた聖書の箇所は、ここだけで完結した話ではありません。直前の話からのつながりになります。
それはベトザタの池で病人をいやすと題した同福音書5章1節からの話。この話は、何も仕事をしてはいけないと律法で定められた安息日にイエスがこの池のほとりを歩いていたことに端を発します。
この池はたまにさざ波が立ち、その直後最初に池の水に触れたものは病が治るとされて皆がその時を待っている訳です。が、当然のことながら軽い病の人、若者の方が身軽に動ける、ので重い病気の人はいつまでたっても水に触れない、と言います。憐れんだイエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」というと、その人はその通りにしたわけです。
しかしファリサイ派の人は、床を担ぐのは律法違反だとして責めます。
このやり取りを聞いたとき、イエスのしたことのをどう感じるでしょうか? 宗教とは何か?と問われれば、僕は死後の行先ではなく、今どう生きるかではないかと思います。

では当時のユダヤ人はどうだったか?と言えば、もしかしたらファリサイ派はああ言っているがイエスの方が正しいじゃん、という人たちと、律法を守らない人をいつまで野放しにしているんだ、という苛立ちを持った人たちがいたのではないでしょうか?

でも賛否両論がある中、多くの人が集まっている中で、捕まえることは、「真理」を尊ぶのではなく「噂・評判」を尊ぶ人たちにとってはできないことだったのだと思います。
例えば今でもニュースステーションのコメンテーターだった古賀茂明死を解雇したり、NEWS23の岸井成格氏への圧力なども噂されています。自ら手を下さず闇に葬る…。

付和雷同が真理を壊してしまうとすれば、そうならないようにすることが、イエスの誕生の意味であり、それに従い歩み続ける僕らの生きる意味だと思います。
聖書の中にある真理を見極めながらアドベントの時を過ごしたいものです。

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