真理とは何か

11月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 18章33-38節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
ピラトは言った。「真理とは何か。」



この日は日本キリスト教団は、収穫感謝・謝恩日の記念日としています。長井牧師は収穫感謝の話も絡めてメッセージをされました。
収穫感謝祭はメイフラワー号でピューリタンが北米の地に渡り、そこで困窮している最中、ネイティブアメリカンの方々が農業をはじめ生活を支援してくれたおかげで全滅を免れました。そこで秋の収穫を神にささげながらネイティブアメリカンの方々に感謝をしたことに端を発します。
そんなピューリタンの人たちがイギリスを後にしたのは、堕落したローマカトリック教会の支配から脱却して、政治家が法律にのっとり宗教をも支配したほうがいいと考えたからでしょう。「悪徳の管理」と彼らが述べ、カトリックの排除と清貧な生活を望んだ訳ですが、それでも規律を厳しく守ることで社会がよくなるというのは息苦しさと反発を招くだけではないでしょうか?
日本でも江戸時代、田沼意次時代は享楽的から火山の爆発による飢饉という時代でした。それを見かねた寛政の改革で松平定信が粛清の後、清貧を推奨する時代にシフトチェンジをした結果、江戸町町民から『白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき』という狂歌をうたわれる結果になりました。
正しいことは「これだ」と1つにしてしまい、他を排除する政治を行えば、バックボーンも無視し決めつけ、偏見・蔑視が横行します。堕落から脱却しよとしても別の社会不信につながるわけです。

ピラトにしてみればイエスに罪があるとは思えなかったように見えます。が、扇動された民衆の前に「自らの正義」を翻し責任を逃れてしまいます。
それによってイエスは十字架の死に向かってしまうのですが、僕はかねがねからピラトと言う名を聞くたび昭和天皇がオーバーラップし、そして人間的に嫌いになれない側面を見ます。第二次世界大戦直前も15歳の昭和天皇の周りには、家庭教師や礼儀見習い・帝王学を教える先生らが御前会議の席で周囲で天皇に開戦を迫る訳ですが、それを断れなかったことは15歳の少年には当然のような気がします。ピラトもユダヤの民の「王はローマ王のみだ」の声に反発したことがローマの耳に伝われば、ピラト自身がローマ皇帝を否定しているように聞こえてしまい自らの命すら危なくなります。21世紀の今、ピラトが十字架につけたのが世界で一番大きな宗教の主であるイエスであることを知っているから、こうして僕もBlogに書きますが、2000年前「よきに計らえ」で死んでいった名もなき人は少なからずいたでしょう。ピラトにしてみれば、そんな些細な判決だったのでしょう。

この日僕は礼拝の司会の奉仕をいたしました。会衆を前に代表の祈りをさせてもらいました。
ISとアメリカやフランス、ロシア軍、そしてイスラム教を信じている民衆。それを傍から見ている僕ら。
パリのテロ。大きなニュースが世界中をかけ回り、中近東の方の「あの日起きたことは、私たちにとって日常だった。」の言葉、その日常の出来事が起きた時「私たちには関係ない」と無関心を装った僕ら。
とりなしの祈りをいたしました。その中で、三浦綾子さんの「塩狩峠」を使わせてもらいました。作中、主人公信夫さんが「よきサマリア人のたとえ」を使い、自分が良き隣人になろうともがいて居たと思ったが、実は自分は強盗に襲われて助けを求めている人であることに気づきました。と神の前で告白させています。私たちはどの視線で誰のために祈るか?この悲惨な社会の中でサマリア人のようになれるのでない私たちは、やはり強盗に襲われて神に助けを呼んでいるけが人ではないでしょうか?そしてピラトも無責任なだけではなく倒れている人のように思えてなりません。

「真理とは何か?」ピラトは身を乗り出して聞いたかもしれませんし、もしかしたらその時は全く気にしなかったかもしれませんが、それでも後世「真理とは何か?」は生涯の悩みだったような気がします。
そしてピラトだけではなく、僕らも真摯に生涯をかけて見つけていきたいものです。そしてそれはイエスを十字架にかけたのは僕自身であり、同じ轍を踏んではいけない、の実践だと思います。

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