主イエスの言葉

11月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 8章51-59節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。



こうした会話のもとになった部分まで話を戻しましょう。8章の最初には

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」



何とか落とし入れようとするファリサイ派。彼らがしたことは、人としての情(なさけ)や社会的な価値観・心情と相反する法律という冷淡かつ機械的な民主主義であり、神の決めた律法という側面のはざまで、どちらにしても回答にはクレームをつけられる話です。
しかしイエスはそこで究極の回答をしました。それはまさに当たり前の回答なのかもしれませんが、AかBか、と問われたときにAでもBでもないという答えは、真にその問題点を熟知していなければ答えられない話で、そこに「生き方」「社会」を説いた答えでした。
そしてその続きが今日の箇所です。律法のみに従うという頑なな姿勢を打ち砕く言葉をうけて、律法を教えることで権力と財力を確保していたファリサイ派の人たちは窮地に陥ります。

何がファリサイ派の人たちは問題があったのか?と言えば、「愛に生きる」「自分がしてほしいことを隣人にする」ことより、法律というバックグランドを無視した画一的なことを優先したことではないでしょうか?
もう一つ、自分たちは神に仕えるものだから(たとえこの世の隣人を助けなくても)神のみもとに行ける。だから魂の救いは確保しているのであとは肉なる体の永遠さを要求しているように思えます。
正しい者はいない。一人もいない。 と(ローマの信徒への手紙3:10)と書かれているように自分たちは大丈夫、間違っていないという過信がこの言葉のベースにあると思うのです。

長井牧師は、ニゲル・セルベート(ミシェル・セルヴェ)の処刑について語られます。
プロテスタントというカトリックの堕落した行為にプロテスト(抗議)した人の代表である人の一人カルヴァン。
しかし彼も自身の信仰理解に異を唱えるニゲル・セルベート。カルヴァンが告発する形で逮捕され火あぶりで処刑を受けます。
宗教的不寛容ないし裁きを神に委ねなかったという批判があります。
カルヴァンはまさに「この女に」最初に石を投げて殺戮に手を貸してしまった感があります。

自らの考えのみが正しいと固執した瞬間、他の回答は見つからなくなります。いつも正しいかどうかの確認作業、言い換えれば他人の意見を受け入れるところに寛容な宗教が出来上がるのでしょうし、それこそが大事であるとイエスは言っているように思います。

しかし今の世界の経済的に余裕がある各国、日本国内、そして日本キリスト教団、いずれも自分の意見に固執する傾向が強いです。異を唱える者は制裁を加えると言わんばかりの対応。
律法に従え、とだけが前面に出される血の通わないような社会の構築に向かっている恐怖。
僕らクリスチャンは、そうした隣人の悲しみや苦しみを見ないふりをしてイエスに従わないことからもう一度真の道を見つけ直したいと思ってなりません。主イエスの言葉はなんだったのか?真摯に考えたいものです。

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