知る力、見抜く力

10月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、フィリピの信徒への手紙 1章 1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。



毎主日受ける説教を考えてみると、難解な聖書を解りやすく教わるか、簡単な文章に秘められている神の言葉を教わるか、2種類あるような気がします。
例えば先週の聖書の箇所は少し難解でしたから、まず何が書かれているかを教わらないと、その聖書の箇所が自分にどう役立つかすらわからなかったりします。が、今日の場所は、どちらかと解釈がしやすく、なおかつ説教タイトルを見ると「知る力、見抜く力』であることからうすうすでも言わんとしたことはわかります。
ただ、ではなぜそんなわかりやすいことを教わるのか?というベースにある教えはやはり教わらないと分からない部分もあります。

この書簡を記したのはパウロです。そんなパウロの生まれてから青年期までを牧師からお聞きします。ご存知の方も多いかもしれませんが、甦りのイエスに出会うまではサウロという名前でしたので、ここでもその事件列で呼びます。
エルサレムを中心としたパレスチナ地方からBC300年ころ散って行ったメンバーの一人にサウロの先祖がいたのでしょう。新しい居住地選んだのはトルコのタルススという町。
いろんな国民、いろんな文化、いろんな宗教が混じっている町での生活、そこで「自分」といアイデンティティ。特に「十戒」で「私以外の者を神としてはならない」ことを真摯に守るものとしてはそこから発生した律法をしっかり守ることこそ「生きる」ことの中で特に大事なことだったのでしょう。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(フィリピ3:5-6)

と自戒の念を込めて告白した言葉通り、パウロはエリートだったのでしょう。大成功を収めた先祖、そして家族からも崇められた父親。その父親の言いつけを守り「いい息子だ」と言われただろう幼少期。夢中に学び、自分には間違いはないと固く信じ、社会の目がそれを後押ししたのだと思います。
しかし、サウロはダマスコで甦りのイエスに遭い、キリスト教を迫害するものからキリスト教の指導者となった訳です。たとえキリスト教に真理があることがわかっても、裏切り者の烙印を押されるのですから、命が脅かされるかもしれません。それでもこっそりと余生を生きるのではなく、指導者となって今までの仲間だったユダヤ教徒からも、迫害を続けていたので怒りの目で見るキリスト教徒からも、敵視されながら必死にキリスト教を伝えました。しかも、世の栄誉をすべて捨てて、差別蔑視を受けていたテント張り職人になって…。

今、僕が素晴らしい人生だ、とここで語っても、読まれているクリスチャン以外の方はその生きざまを評価しないかもしれません。それでもパウロは「真理」を知ってしまったので、周囲の目など気にもならなかったのでしょう。
それはダマスコで「見抜く力」が付いたからでしょう。

科学をかじったものにしてみれば、「知る力」「見抜く力」というのは、学生時代を思い出すと何となく納得できます。
科学というのは、まず自分の頭の中で「疑問」を生み出すことで始めます。
そしてその「疑問」に対して、「解決」に向けての「仮説」を立てます。
そしてその「仮説」を立証、つまりはみんなが納得してもらうために「実験」をして、「実験」が成功すれば発表します。
発表の場で意見の違う人と討論をすることで自分の実験の不足や稚拙な部分があれば、再度やり直し、みんなが納得する着地点を見つけ出します。

ですから科学は時代によって『今までは正しいと言われていた』ことが違うということも出てきますが、それこそがダマスコであったサウロであり、目からうろこが落ちて真理が見えてきます。
「生きる」とは何か? 「何のために生きているのか?」 哲学的に考えれば、イエスの思想・行動は真理に見えます。
もちろん、多面の切り口で見ないと、最初の切り口だけで信じ込んでしまうと間違えることがあります。
故遠藤周作氏は、『信仰とは99%の疑いと1%の希望』と言われました。
僕も氏のようにいつも正しかを確認し、もしかしたらという不安を持ち続けているものです。それでも根底からイエスの歩みを否定する思想にたどり着きません。(旧約は否定的な目で読むことは多々ありますが^^;)

キリスト教でも、教会で、そして宗派(たとえば日本キリスト教団のような)の言っていることを鵜呑みにするのではなく、いろいろな意見や論文を読んだり、静かに心を落ち着かせ祈りながら、今知った出来事は「知る力」によって得たものか、きちんと「見抜く力」を使えたかを考えていきたいと思います。

当初記したように今日は、「知る力」「見抜く力」という簡単な言葉をどう身に着け活用するのか、を学ばせてもらいました。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター